野球関連プロフィール
犬山 翔太

 私が野球に興味を覚えたのは1983年の夏のことである。
 扁桃腺の手術で入院していた私は、外で遊べないから少年雑誌を読まされていた。そこで目についたのが、面白おかしく書いてある野球特集や野球漫画だった。

 退院した私は、野球観戦にのめり込んだ。
 夏の高校野球は、地区大会が終わって決戦の場は甲子園へと移されていた。夏の甲子園は、1試合にすべての情熱が注がれる。それは、1試合負けてしまえば、その夏自体が終わってしまう過酷なトーナメント戦だからだ。
 だから、敗れた選手達は、想い出と悔しさで涙にくれ、勝てば勝ったで心を削るような厳しい試合にまた身を投じなければならない。

 そんな中、伸びやかに野球をしているチームがあった。PL学園である。
 そのチームは、あろうことか、エースも四番打者も1年生という信じ難い構成で勝ち上がってきていた。そのチームの伸びやかさは、後のない3年生を後がある1年生が支えているという危うい均衡で成り立っていたことを知ったのはずっと後になってからである。
 PL学園は、強かった。エースの桑田真澄は、春のセンバツ大会で優勝した強打の池田高校を準決勝で完封し、四番の清原和博は、決勝戦で値千金の本塁打を放ち、夏の甲子園を制した。
 その後の活躍は、ご存知の通りで、もはや語る必要もないだろう。

 その翌年の1984年、プロ野球が私の今に至る野球熱を決定付けた。
 その年のプロ野球は、阪急ブレーブスが外国人大砲ブーマーの三冠王を獲得する活躍と、今井・佐藤・山田といった抜群の安定感を誇る投手陣でリーグ優勝を遂げた。

 私は、ごくたまにしかテレビで放映されないパリーグにいる阪急の超人たちに次第にひかれていった。史上最強の外国人ブーマー、エースの中のエースでサブマリン投法の山田久志、世界に誇る盗塁王福本豊。完璧なまでに円熟した役者が揃っていた。

 しかし、その阪急も、以後は優勝から遠ざかる。
 清原和博や秋山幸二、工藤公康などを中心とした若き超人たちの集まった西武ライオンズが覇権を握っていくことになったからだ。
 その頃の少年たちの間では、地元の中日や強い巨人の選手たちに人気が集中していた。彼らが授業の休み時間に軟式テニスのボールと箒で野球をするとき、決まって真似をするのはそうした選手たちだった。
 私は、それに反抗するように、投げるときは山田久志、打つときはブーマーになりきっていた。サッカーがまだマイナー競技で誰もがマラドーナくらいしか知らない時代だったせいで、野球が常に遊びの中心になっていたのだ。

 その頃、ちょうど近所の1年先輩にあたる人の父親が少年ソフトボールのコーチをしていて、私は、無理やりそのチームに入れられることになった。ソフトボールと野球の違いすら知らなかった私は、テレビで見る野球と実際にするソフトボールのギャップの大きさにショックを受け、行く気をなくしてしまった。整然とした上下関係が窮屈すぎたことと私が苦手な早朝練習ばかりだったことも行く気をなくした理由に挙げられる。
 私は、嫌々行ったり、何週間も行かなかったりして、結局1年くらいでやめてしまった。でも、不思議に野球好きが変わることはなかった。

 そして、1987年、3度の三冠王の実績をひっさげて1人対4人という奇跡のトレードで中日に移籍してきた落合博満のおかげで、私は、セリーグにも興味を持つようになった。

 落合は、誤解されたスーパースターだった。常にプロフェッショナルな職人に徹した彼の言動は、自らの一貫した理念の下にあって、引退するまで揺らぐことさえなかった。しかし、それは、すべて監督の指揮下にあるチームの和と、ファンに対する野球以外でのサービス精神という意味では、はみ出してしまう部分が多く、批判にさらされた。
 彼は、その度に並外れた打撃技術で、その雑音すべてをかき消していった。彼が残した最高の試合が1994年10.8決戦だと思う。あの試合の先制ホームランは、私が知りうる限り最高のホームランだった、周りに渦巻くあらゆる流れを一撃で手繰り寄せてしまうほど。

 そんな落合が名門巨人を出て、慣れないパリーグの日本ハムに移籍を決めたとき、マスコミは彼を「苦しむ40代のヒーロー」に祭り上げた。私は、そんな世間の人々の身勝手さを苦々しく感じたものだ。
 落合は、自らの予告通り、どの球団も獲得してくれなくなるまで野球を続け、最後は自由契約となって現役を終えた。

 そういう時の流れの中で、阪急ブレーブスは、オリックスブルーウェーブへと名前を変え、オリックスからはイチローという天才打者が突如現れた。
 順風に歩んでいた桑田真澄も1995年に試合中のアクシデントのせいで、想像を絶する苦しみを味わい、2年の年月を経て自らと自らを愛する野球ファンのために復活した。清原和博も、巨人にFA移籍し、桑田と再びチームメイトとなった。あまりにもめまぐるしい運命の連関は、もはや私の想像を遥かに超えていた。
 私と言えば、大学を卒業してごく普通のサラリーマンになっていた。インターネットが普及して情報化社会になりつつあったが、最新の情報を重視するあまり、私が見てきた往年の名選手たちの伝説がいつのまにか風化しつつあるように思えた。
 そんなとき、私は、これまでの野球史に存在する数々の伝説を整理して、一つの形にしておきたいという強い衝動にかられた。

 私が物心ついて以降の野球史の中でさえ、幾多の伝説が刻まれてきている。そして今、伝説の場は、日本の国境を超えてオリンピックや大リーグにまで広がっている。


 伝説は、探せばいくらでも出てくるし、これからも多くの伝説が生まれてくるだろう。私は、そうした伝説をこれから一つ一つ地道に描き続けていきたい。





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