吉井 理人
 1965年4月、和歌山県生まれ。投手。右投右打。背番号36・11・21(近鉄)→24・21(ヤクルト)→29・21(メッツ)→21(ロッキーズ)→55(エクスポズ)→55・77・21(オリックス)→24(ロッテ)。箕島高校で2度甲子園に出場して注目を集め、1984年、ドラフト2位で近鉄に入団する。
 入団2年目の1985年に1軍で初登板を果たし、1987年に初勝利を挙げる。
 1988年にはリリーフとして頭角を現し、50試合に登板して10勝2敗24セーブ、34SP、防御率2.69の好成績を残して近鉄を最下位から2位に躍進させる原動力となり、最優秀救援投手にも輝く。また、伝説の10.19でもリリーフとして連投している。
 1989年にもリリーフとして5勝5敗20セーブ、25SP、防御率2.99の記録を残して近鉄のリーグ優勝に大きく貢献する。
 1990年も8勝9敗15セーブ、23SPの成績を残す。しかし、1991年に右肘を故障して2年間満足な成績を残せず、苦しむことになる。
 1993年からは主に先発に回り、1993年に5勝、1994年に7勝を残すと、1995年には西村龍次との交換でヤクルトに移籍する。その1年目から10勝7敗の好成績を残してヤクルトのリーグ優勝と日本一に大きく貢献する。
 1996年にも10勝7敗を記録すると、1997年には13勝6敗、防御率2.99を残し、ヤクルトで2度目のリーグ優勝、日本一に貢献する。そして、その年のオフに大リーグ挑戦を表明してメッツに移籍する。
 大リーグ1年目は、6勝8敗に終わるが、2年目の1999年には12勝8敗の成績を残し、プレーオフでも先発を務める。
 2000年にはロッキーズへ移籍したが、高地でよく飛ぶ球場に苦闘し、6勝15敗に終わる。
 2001年にはエクスポズに移籍して4勝7敗、2002年には右肩の故障に苦しんで4勝9敗の成績に終わり、9月には手術を行う。そして、2003年は、帰国して日本のオリックスと契約する。
 日本でも2003年は2勝、2004年は0勝と苦しんだが、恩師の仰木彬が監督に復帰した2005年には6勝、2006年には7勝と復活を見せる。
 2007年途中でロッテに移籍し、その年限りで現役を引退した。

 闘志を前面に押し出した気迫あふれる強気の投球で低めに集まる直球を武器に近鉄では抑えで、その後、年々磨きをかけた投球術、野茂直伝フォークを武器にヤクルト、大リーグ、オリックスでは先発として活躍を見せた。

通算成績(実動23年):日本…89勝82敗62セーブ93SP、防御率3.86 最優秀救援投手1回(1988)
 大リーグ…32勝47敗、防御率4.62
 日米通算…121勝129敗62セーブ93SP、防御率4.14

数々の伝説


 @高校野球で2度甲子園出場

 1982年春、吉井は、箕島高校の2番手投手として甲子園に出場する。このときは、準々決勝でPL学園相手に1回無失点に抑えただけに終わるが、1983年夏にはエースとして甲子園出場を果たす。
 そして、1回戦の吉田高校(山梨県)戦では延長13回を投げ切って4−3で勝利し、2回戦の駒大岩見沢高校(北海道)戦でも5−3で勝利を収める。
 3回戦では高地商業高校(高知県)戦では2回に満塁本塁打を浴びるなど乱調で2−8で敗れた。
 しかし、吉井の素質に注目した近鉄がドラフト2位の高評価で指名し、吉井は、プロ入りすることになる。


 A仰木監督に見出される

 1987年、近鉄は最下位に沈み、1988年から仰木彬が監督となった。仰木は、放任主義ながら好調な選手を的確に使いこなして、近鉄を変える。
 その1988年に頭角を現したのが吉井だった。その当時、吉井は、1軍と2軍を行き来する投手だった。仰木は、ある日、誰か1人を2軍に落とさねばならなくなって「酒の一気飲みをさせて、一番遅かった者」を2軍に落とすことにした。仰木は、普段、吉井が酒を飲めないことを知っていて、吉井を2軍に落とすためだった。しかし、吉井は、予想に反して豪快に一気飲みをしてみせ、1軍に残る。
 仰木は、そんな吉井の心意気を高く評価し、瞬く間にリリーフエースとして起用するまでになる。


 B伝説の10.19で連投

 1988年、リリーフエースに登り詰め、近鉄の首位争いに大きく貢献していた吉井は、連勝すればリーグ優勝となる10月19日のロッテ戦ダブルヘッダーにも登板する。
 1試合目は、3−3の同点に追いついた8回裏から登板してその回を無失点に抑える。近鉄は、9回表に梨田昌孝のセンター前タイムリーヒットで4−3とリードし、9回裏を抑えきれば勝利という緊迫した場面で吉井は続投する。しかし、吉井は、先頭打者に四球を出してしまい、しかもそれが極めて微妙な判定だったため、吉井は、頭に血が上って審判に激しく抗議してしまう。そのため、仰木は、慌ててエース阿波野秀幸に交代した。急遽登板した阿波野は、ピンチを招きながらも何とか抑えて近鉄は勝利を手にする。吉井は、勝利投手となってシーズン10勝目を手にした。

 ダブルヘッダー2試合目は、3−2と1点差に追い上げられた7回裏に登板する。しかし、吉井は、疲労から本来の直球の伸びが影を潜め、西村徳文にタイムリー安打を打たれて同点に追いつかれる。
 近鉄は、8回表にブライアントの本塁打で4−3と勝ち越すが、8回裏には吉井の後を受けた阿波野が高沢秀昭に本塁打を浴びて同点に追いつかれる。試合は、無情にも延長10回で時間切れ引き分けに終わり、近鉄は、リーグ優勝を逃す。この日の激闘は、「伝説の10.19」として語り継がれて行くことになる。


 C巨人との日本シリーズで痛恨

 1989年、近鉄で念願のリーグ優勝を果たした吉井は、日本シリーズでも2戦目、3戦目に好投して近鉄の3連勝に貢献する。そして、第4戦に完敗して迎えた第5戦は、1−2とリードを許した場面での登板だった。
 2死満塁のピンチを招いた吉井は、ここまで日本シリーズノーヒットの原辰徳を打席に迎える。吉井は、簡単に追い込みながらも決め球が甘いところに入り、原にレフトへ満塁本塁打を浴びてしまう。
 この一撃により、波に乗った巨人は、奇跡の3連敗から4連勝を果たし、近鉄は、日本一を逃すのである。


 D野茂直伝のフォークボール

 1994年に野茂が故障して2軍にいたとき、吉井も同時期に2軍にいた。2人は、親友の間柄で、当時、吉井は、現状を打開するため、後輩の野茂にフォークボールの投げ方を教えてほしいと頼んだ。すると野茂は、快諾して吉井にフォークボールの投げ方を教え、その年のうちに吉井は、フォークボールを習得する。
 それまで自らをパワーピッチャーと自覚して直球で打者を牛耳ることを信条としてきた吉井にとって、フォークボールの習得は、大きな決断でもあった。
 吉井は、その年のオフ、西村龍次との交換トレードでヤクルトに放出される。野茂も、近鉄を退団して大リーグ挑戦を果たす。
 翌年、吉井は、フォークボールによって投球の幅が広がり、ヤクルトで10勝を挙げてエース級の活躍を見せる。そして、野茂も、大リーグで新人王に輝く大活躍を見せる。一方、2人の好投手を失った近鉄は、最下位に沈んでいる。


 Eヤクルトで2度の日本一に貢献

 吉井は、トレードでヤクルトに移ってから、直球とフォークを自在に操る投球術を駆使してローテーション投手として10勝を挙げる。近鉄では先発として7勝が最高だっただけに、この活躍は、周囲の予想を超えていた。
 その最大の要因は、野茂直伝のフォークボールを完全にマスターしたことで、奪三振数が飛躍的に増加し、1995年には91奪三振、1996年には145奪三振を記録する。勝ち星も1997年には13勝を挙げて3年連続2桁勝利を記録し、1995年と1997年のヤクルトのリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。
 1995年の日本シリーズ第3戦では先発して5回1失点、1997年の日本シリーズ第3戦でも先発して4回3失点とまずまずの投球を見せ、勝ち星こそつかなかったが、チームの勝利に貢献している。


 F雷でKO

 1995年、吉井は、ヤクルト移籍1年目ながら勝ち星を積み重ね、8月6日の試合前まで既に8勝を挙げる活躍を見せていた。
 しかし、8月6日の広島戦は、先発したものの天候が不安定で3回表の投球中に激しい雷が鳴り始める。
 そして、吉井は、雷が鳴り始めた途端、調子を崩す。安打と四球でランナーをためると金本知憲には本塁打を浴び、その後は3連続四球のあと投手にタイムリーを打たれるなど、この回だけで7失点と打ち込まれて降板した。それまで防御率2.46と抜群の安定感を誇っていただけに、周囲には不可解な乱調だった。

 野村監督は、試合後、吉井が打ち込まれて降板した理由を尋ねられて、吉井が「雷が怖い」と言って怯えていたことを暴露し、雷の影響による自滅だったことが明らかになった。野村は、この日以降、雷の日には吉井を投げさせないことを決めたという。


 G大リーグ挑戦

 ヤクルトで3年連続2桁勝利を挙げた1997年オフ、吉井は、FA権を取得して大リーグ挑戦を表明する。既に元同僚の野茂が大リーグで成功を収めており、吉井にとっても1ランク上での野球を目指すのは必然でもあった。
 吉井は、メッツに入団し、1年目はローテーション投手として6勝8敗の成績だったものの、2年目の1999年には12勝8敗の好成績を残してチームのプレーオフ進出に貢献する。そして、リーグ優勝決定シリーズでは初戦の先発を果たすが、敗戦投手となり、結局リーグ優勝を逃している。
 その後、ロッキーズ、エクスポズでも先発ローテーションで活躍し、大リーグ生活5年間で通算32勝を挙げた。


 H手術後、オリックスで復活

 2002年9月、吉井は、右肩の手術したことにより、帰国してオリックスと契約する。故障の影響もあって本来の投球が戻らない吉井は、2003年に2勝を挙げたものの、2004年には0勝に終わり、一旦は戦力外となる。
 しかし、2005年にオリックスと近鉄が合併したことにより、恩師である仰木彬監督が監督に就任して、吉井を残すよう指示する。仰木は、2005年の春季キャンプで入団テストを行って吉井がまだ使えることを確認すると、再入団させて、先発投手として起用する。
 吉井も、その期待に応えて、2005年は、開幕から6連勝をする活躍を見せて復活を果たした。


 I1イニングで2本の満塁本塁打被弾 

 2007年4月1日、吉井は、楽天戦に先発する。2回まで無失点に抑えた吉井だったが、3回裏、山崎武司に安打を許すと2死をとったあと、エラーと四球で満塁のピンチを招く。そして、ここで吉井は、四番打者フェルナンデスにレフトスタンドへ本塁打を打たれて4点を先制される。その後、四球、安打、四球でまたしても満塁のピンチを招いた吉井は、山崎武司にレフトスタンドへ本塁打を打たれ、1イニングで2本の満塁本塁打を浴びる日本タイ記録を作って降板する。これは、1996年の金森隆浩に次いで史上2人目の記録だった。
 ちなみに、この回、2死からエラーが絡んでの失点だけに、吉井は、この試合の自責点は0である。

 吉井は、高校時代に夏の甲子園で満塁本塁打を浴び、日本シリーズでは原辰徳にシリーズの流れを変える満塁本塁打を浴び、そして、引退年には1イニング2満塁本塁打を浴びるなど、満塁本塁打と縁が深い。




(2009年4月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system