米田 哲也 
 1938(昭和13)年、鳥取県生まれ。投手。右投右打。背番号18(阪急)→38(阪神)→21(阪神)→11(近鉄)。境高校から1956年に阪急ブレーブスに入団。
 1年目にいきなり9勝15敗、防御率2.38という記録を残し、2年目には早くも21勝16敗、防御率1.86という好成績でエースとなった。
 以後、同僚の梶本隆夫投手とともにチームを支え、「ヨネカジ時代」と称された。そして、2年目から19年連続2桁勝利という不滅の大記録を打ち立てることになった。
 1966年に25勝17敗で最多勝となり、初のタイトルを獲得。
 1967年には18勝で阪急のリーグ優勝に大きく貢献。
 1968年には29勝13敗、防御率2.79という自己最多勝利を挙げて、阪急を優勝に導き、シーズンMVPに選ばれている。
 阪急在籍期間に5度のリーグ優勝に貢献したが、日本シリーズでは9連覇の巨人のせいで、日本一になれなかった。
 ベテランの域に入った1973年には15勝3敗、防御率2.47で初の最優秀防御率のタイトルを獲得。
 直球が衰え始めてからは、「ヨネボール」と呼ばれるフォークボールを決め球にして活躍している。
 1975年の途中に阪神に移籍して8勝を挙げた。その年、阪急でも2勝していたため、19年連続2桁勝利という記録が生まれた。
 1977年に近鉄へ移籍。その年限りで現役引退。
 「ガソリンタンク」という称号を与えられてたほど、抜群のスタミナを誇り、故障もなかった。右の本格派から投げ下ろす速球とフォークを中心に組み立て、毎年安定した成績を出し続けた。
 通算350勝は、金田正一の400勝に次いで歴代2位の大記録である。

通算記録:350勝(歴代2位)285敗2セーブ。防御率2.91。3388奪三振(歴代2位)。最多勝1回(1966)シーズンMVP(1968)最優秀防御率(1973)最多奪三振(1962)登板949試合(歴代1位)
数々の伝説

 @捕手から投手に転向

 米田は、境高校時代、捕手をしていた。しかし、米田の剛球を目にした監督の真木一夫は、投手転向を勧めた。
 米田は、それに従って投手に転向している。
 ちなみに、真木一夫監督は、剣道五段で、野球に関しては全くの素人だった。それなのに、野球部の監督になったのは、竹刀とバットがよく似ていたからだ、と言われている。


 A争奪戦の末、阪急に入団

 1956年、米田は、阪急ブレーブスに入団しているが、阪神タイガースとも交渉をしていた。そのため、阪急と契約を結んだとき、阪神との二重契約問題に発展している。しかし、コミッショナー勧告が出たため、丸く収まり、阪急に入団することができた。
 米田がパリーグの地味な球団、阪急ブレーブスと契約を結んだ理由は、当時の阪神には小山正明や渡辺省三といった好投手が揃っていて、阪急の方が出番が多そうだからだった。
 米田は、1年目からローテ投手として活躍。2年目には21勝を挙げている。


 Bプロ入り2打席目に満塁本塁打

 1956年4月11日、高橋ユニオンス戦で米田は、満塁本塁打を放っている。これがプロ入り2打席目でのことだった。
 これは、駒田徳広が1983年4月にプロ入り初打席満塁本塁打を放つまで、満塁本塁打の歴代最短記録となっていた。
 現在でも歴代2位の記録である。
 米田は、高校時代に捕手をやっていたこともあって、打撃にも定評があり、金田の36本に次ぐ通算33本塁打を放っている。投手としてサヨナラ本塁打と満塁本塁打の両方を打っているのは米田ただ1人である。


 Cタフな日本記録

 米田は、「ガソリンタンク」「人間機関車」といったタフさを象徴する愛称の通り、故障をせず、常にエースとして君臨した。
 2年目の1957年から続けた連続2桁勝利は、1975年に阪急で2勝、阪神で8勝して合計10勝を挙げるまで、19年間に渡って継続した。
 これは、金田正一の15年連続2桁勝利をはるかに上回る歴代1位の記録である。
 そして、通算登板949試合は、米田が22年間かけて築きあげた記録で、金田正一の944試合をしのいで歴代1位に輝いている。


 D通算350勝

 通算350勝は、歴代2位の記録で、1位の金田正一の400勝には及ばないものの、3位の小山正明に30勝差をつけ、右投手としては最高の数字である。
 米田は、阪急へ入団以後、常にローテ投手として休むことなく投げ続け、20勝以上が7回、15勝以上が12回、10勝以上は19回にも上っている。



Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system