与那嶺 要
 1925年、アメリカのハワイ州生まれ。本名はウォーリー・カナメ・ヨナミネの日系アメリカ人。左投左打。外野手。背番号7(巨人)→37(中日)。ハワイのフェリントン高校ではアメリカンフットボールの選手として活躍し、プロのフォーティーナイナーズに入団するが、故障のため、野球に転向。
 サンフランシスコ・シールズ傘下でプレーしていたときに巨人に引き抜かれて入団。
 1年目の1951年には規定打席に満たないものの、打率.354、26盗塁を残し、レギュラーの座を獲得。本場アメリカ仕込みの猛スライディングを見せつけ、これが日本の野球を大きく変えたと言われている。
 翌1952年には打率.344、38盗塁、163安打という見事な成績で最多安打のタイトルを獲得した。チームも日本一となっている。
 1954年には打率.361、172安打という好成績で初の首位打者を獲得するとともに、2度目の最多安打のタイトルも手にした。
 1956年には打率.338で2度目の首位打者を獲得し、翌1957年も打率.343で2年連続3度目の首位打者となった。この年は160安打で3度目の最多安打のタイトルも獲得し、巨人をリーグ優勝に最も貢献した与那嶺はシーズンMVPに選出されている。
 1951年から1957年まで7年連続で3割以上の打率を残している。
 1961年に監督が水原茂から川上哲治に代わると、与那嶺は自由契約となり、中日に入った。
 1962年、現役引退。
 巨人は、与那嶺が在籍した1951年から1960年までの10年間にリーグ優勝8回、日本一4回と圧倒的な強さを誇っている。
 その後、1972年から1977年まで中日監督を務め、1974年には巨人の10連覇を阻止してリーグ優勝を果たした。

 アメリカからスライディング技術を輸入し、打っては優れたミート力で左右に打ち分けて高打率を残し、巨人の第二期黄金時代の1番打者として活躍した。俊足で守備もうまく、史上最高の1番打者との評価もある。

 通算成績(実働12年):打率.311(歴代6位)、82本塁打、482打点。1337安打。163盗塁。首位打者3回(1954・1956・1957)最多安打3回(1952・1954・1957)シーズンMVP1回(1957)ベストナイン7回(1952〜1958)

数々の伝説



 @元プロフットボール選手

 与那嶺は、高校時代からアメリカンフットボールの名選手として鳴らし、1947年にアメリカのプロチーム、フォーティーナイナーズに在籍してリターナーやディフェンスバックとして試合に出場している。しかし、故障により、フットボール選手を続けることをあきらめ、野球に転向した。
 そして、サンフランシスコ・シールズ傘下のソルトレイクシティでプレーしているとき、外国人選手の補強を狙っていた巨人に目をつけられることになる。
 1951年6月、与那嶺は、巨人に入団して1年目から活躍。54試合出場ながら打率.354を叩き出して翌年からレギュラーに定着している。


 Aセーフティバントで衝撃のデビュー

 1951年6月19日の巨人×中日戦で、7回裏、巨人は無死1・2塁のチャンスをつかんだ。代打で送られたのは、来日初打席となる与那嶺だった。
 マウンド上には中日のエース、杉下茂が立っている。この時点で中日が6−4とリードしていた。
 与那嶺は、この場面で誰もが予想しなかった来日初打席でのセーフティバントを試みる。杉下の速球の勢いを殺した打球は3塁前に絶妙に転がって成功。
 これがその後の与那嶺の活躍の前兆であった。


 B1イニング3盗塁

 1951年7月26日、与那嶺は、国鉄戦の7回に1イニング3盗塁を達成している。出塁した与那嶺は、まず2盗に成功。続いて3盗を成功させ、最後にホームスチールを決めた。
 与那嶺は、ホームスチール(本盗)の名手であり、通算11回も成功させている。これは、黒沢俊夫(巨人)を抜いて歴代1位の記録である。


 C猛スライディングを輸入

 与那嶺がアメリカから持ってきたスライディングは、日本では衝撃を持って受け入れられた。砂煙を上げて野手目がけてスライディングし、併殺を防ごうとするスタイルは、当初は守備妨害を宣告されたこともあったという。一塁に出て、牽制球が来るたびに、足からのスライディングで一塁に戻るスタイルも日本では真新しかった。
 しかし、こうしたスライディングがアメリカでは普通に行われていることが知られるようになるにつれ、与那嶺が輸入したスライディングは日本に定着していった。
 そんな与那嶺のスライディングの素晴らしさを全国に知れ渡らせたのが、1951年10月10日に南海を相手に行われた日本シリーズ第1戦だと言われている。
 この試合で巨人は、6回表2死1・3塁のチャンスをつかむ。1塁ランナーは与那嶺である。ここでバッターの千葉茂がライト線にヒットを放つと、与那嶺は、躊躇せずに3塁を回って本塁に突っ込んだ。
 ライトからの返球は、与那嶺が本塁へ戻ってくる5メートルほど手前で筒井敬三捕手のミットに収まっていた。
 しかし、与那嶺は、筒井目がけて強烈なスライディングを見せ、筒井のミットを巧みに蹴り上げる。筒井のミットからはボールが弾き出され、与那嶺は悠々とホームインしたのである。
 与那嶺のスライディングは、日本に野球の戦闘的な部分を注入し、後に「日本野球を変えた」とまで評されることになる。


 D川上とのライバル関係で3度の首位打者

 与那嶺の最大のライバルは、同じ巨人で「打撃の神様」とまで言われたヒット打ちの名手川上哲治だった。
 川上は、与那嶺が入団した1951年と1953年に首位打者を獲得し、1954年は与那嶺が.361で首位打者を獲得すると、1955年には川上が.338で首位打者、1956年には与那嶺が.338で首位打者を獲得するなど、争いは熾烈と言うにふさわしいものだった。
 1957年には与那嶺が.343で首位打者を獲得したのを最後に2人の首位打者争いは終わりを告げたが、1951年から1957年までの間で与那嶺と川上以外が首位打者になったのは1952年の西沢道夫(名古屋)の.353だけであり、そのときの2位が与那嶺の.344、3位が川上の.320であったことも特筆に価するだろう。
 また、与那嶺は、1試合5安打以上の通算回数が5回にのぼっており、これは、現在(2001年末時点)でも日本タイ記録である。


 E通算打率.311

 首位打者を3度獲得した与那嶺は、入団以来、7年連続で3割をキープしている。1954年には打率.361という高打率で首位打者を獲得した。
 晩年は、低打率に終わっているものの、通算打率は.311でライバルの川上哲治に次いで歴代6位の記録となっている。日本球界入りが25歳と遅かったため、20代前半の記録がないが、もっと早くから球界入りしていれば、さらなる高打率となっていただろう。


 F監督として川上巨人の10連覇を阻む

 与那嶺は、中日のコーチから1972年に監督に昇格。その前に立ちはだかっていたのはまたしても終生のライバル、川上哲治が率いる巨人だった。1年目、2年目はONを擁して無類の強さを誇っていた川上巨人の前に3位に甘んじたものの、3年目の1974年には打倒巨人に執念を燃やすエース星野仙一の活躍などでゲーム差なしながら、ついに巨人を倒してリーグ優勝を果たした。
 これは、中日にとっては20年ぶりの優勝であり、巨人の10連覇を阻止した歴史的な優勝となった。
 



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