矢野 燿大(矢野 輝弘)
 1968年12月、大阪府生まれ。捕手・外野手。右投右打。背番号2(中日)→38(中日)→39(阪神)。桜宮高校から東北福祉大学へ進み、2年連続で日米大学野球に出場する。1991年、ドラフト2位で中日へ入団する。
 プロ1年目から22試合に出場し、プロ3年目の1993年には24試合出場ながら打率.323を記録する。
 1996年には56試合出場で打率.346、7本塁打を記録するなど、控え捕手ながら卓越した打撃を見せる。
 1997年オフに2対2の大型トレードで阪神へ移籍する。阪神では1年目に正捕手となり、阪神2年目の1999年には打率.304を記録する。
 さらに2002年には規定打席未満ながら打率.321を残す。
 2003年には打率.328、14本塁打、79打点の活躍で阪神のリーグ優勝に大きく貢献する。その活躍が認められ、初のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得する。
 2005年にも打率.271、19本塁打、71打点の活躍で阪神をリーグ優勝に導き、2度目のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得。
 2006年にも打率.274、17本塁打、78打点を残し、3度目のベストナインに選出された。
 2009年には右肘と右足首の故障で30試合出場ながら打率.307を残す。2010年は、右肘の故障の影響で8試合出場に終わり、現役を引退した。

 強打の捕手として期待されながら中日では2番手捕手の扱いだったが、阪神移籍後に正捕手として2度のリーグ優勝に貢献し、粘り強い打撃で安打を量産した。また、巧みなリードでJFKや多彩な先発投手陣を育て上げた。

通算成績(実働20年)打率.274、112本塁打、570打点、1347安打。ベストナイン3回(2003・2005・2006)ゴールデングラブ賞2回(2003・2005)

数々の伝説


 @中日では2番手捕手

 矢野が中日に入団した当時、中日には不動の正捕手中村武志がいた。中村は、矢野が入団した1991年に20本塁打を放つなど全盛期で、矢野は、常に2番手捕手としての役割を担った。そのため、打撃を生かすため、1996年からは外野手としての出場も増え、1996年の成績は、124打席ながら打率.346、7本塁打を記録した。
 結局、中日では7年間の在籍中に1度も出場試合が100試合を超えた年はなかった。
 それでも、1996年8月11日には野口茂樹とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成したり、1996年10月6日の巨人戦でナゴヤ球場最後となる記念本塁打を放つなど、記憶に残る実績も残している。


 A2対2の大型トレード

 1997年オフ、阪神と中日で大型トレードが成立する。ホームランバッターと捕手が欲しい阪神の吉田義男監督と、ナゴヤドーム創設により、好守好打の外野手と内野手が欲しい中日の星野仙一監督の思惑が一致したのである。
 これにより、阪神からは関川浩一・久慈照嘉、中日からは大豊泰昭と矢野が移籍することになった。当時、阪神は、正捕手の中村武志を要求していたが、中日が正捕手を放出することを拒否したため、2番手捕手の矢野が移籍することになったという。
 このトレードは、成功を収め、関川が外野手として1999年に打率.330の好成績を残して中日のリーグ優勝の立役者となり、矢野も、2003年と2005年の阪神リーグ優勝の立役者となったのである。


 B阪神の18年ぶりのリーグ優勝に貢献

 阪神は、2002年に監督となった星野仙一が大型補強でアリアス、ムーア、金本知憲、下柳剛、伊良部秀輝らを集めて、2003年には圧倒的な戦力となった。
 阪神は、4月後半から首位を走り、5月には独走態勢を築いて、9月15日にはリーグ優勝を決める。2位中日に14.5ゲーム差をつける圧倒的な強さだった。
 そんな中、矢野は、レギュラー捕手としてシーズン中盤まで3割台半ばの好成績を残し、捕手としてのリードも冴えわたる。打撃では、打率.328、14本塁打、79打点という素晴らしい成績を残すとともに、チーム防御率も、他のチームを圧倒する3.53の成績で投手陣を牽引した。
 シーズンMVPこそ、20勝を挙げた井川慶が受賞したが、井川と共に最優秀バッテリー賞を受賞し、ベストナインにも選出された。


 C阪神で2度目のリーグ優勝に貢献

 2005年の阪神は、岡田彰伸監督の下、中日との優勝争いを繰り広げる。8月末までは激しい首位争いを繰り広げたが、9月に阪神が加速して中日を引き離し、最終的には10ゲーム差をつけてのリーグ優勝を果たす。
 矢野も、JFKを中心とする強力投手陣を巧みにリードして圧倒的なチーム防御率3.24を記録し、自らも、自己最高の19本塁打を放って71打点を記録する活躍を見せて、2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。この年は、盗塁阻止率も自己最高の.434を記録してベストナインに選出され、藤川球児と共に最優秀バッテリー賞も受賞している。


 D日本シリーズで奮闘

 2005年の日本シリーズでは、阪神として20年ぶりの日本一を目指したものの、勢いに乗るロッテに飲み込まれて4連敗を喫してしまう。
 そんな中で孤軍奮闘したのが矢野だった。矢野は、第1戦で2安打を放つと、第2戦から第4戦までも1安打を放って全試合安打を記録し、打率.417を記録する。
 その活躍が認められて、矢野は、日本シリーズ敢闘選手に選ばれている。


 E頭脳的なトリプルプレーを完成

 2006年6月14日の楽天戦は、1点を争う緊迫した展開となった。阪神は、0−1とリードを許して6回裏無死1・2塁のピンチを招く。
 楽天は、バントでランナーを進める作戦をとり、打者の沖原佳典がしたバントは、小飛球となった。捕手で出場していた矢野は、ノーバウンドで捕ろうと思えば捕れる飛球をあえてワンバウンドで捕球。即座に3塁に投げ、バッターボックスで唖然とする沖原をよそに、球は、2塁・1塁と転送されて、トリプルプレーが成立した。
 これは、バントの小飛球がインフィールドフライにならない、というルールの盲点をついたプレーで、ルールを熟知した矢野の一瞬の判断が生んだ好プレーである。
 この試合は、8回表に同点に追いついた阪神が延長10回に2点を勝ち越して3−1で勝利を収めている。


 F伝説のリード

 打撃に定評がある矢野だが、リード面でも野村克也監督の元で技術を磨き、名捕手に成長する。鉄壁のJFKという終盤を作り上げ、球威のない下柳を変化球が9割を占めるリードで打者を翻弄し、勝ち星を積み重ねた。
 そして、記憶に残るリードと言えば、2006年からクローザーに定着した藤川球児のリードだろう。火の玉ストレートと形容されるほど高めに伸びる快速球を持つ藤川が9回2死で2ストライクをとると、矢野は、決まって中腰になって内角高めのストレートを要求した。
 分かっていても打てない藤川のストレートで打者を空振り三振にとってゲームセットを迎える。そんな最も魅せる野球を実践して、ファンを熱狂させたのである。


 G引退試合で出番なし

 2010年9月30日、甲子園球場でのホーム最終戦となる横浜戦が矢野の引退試合だった。阪神は、リーグ優勝するには残り7戦全勝しなけらばならない、という追い込まれた状況である。
 それでも、阪神リードで9回2死になれば、矢野がマスクをかぶる予定になっていた。
 試合は、3−1と阪神がリードして9回表に藤川球児がマウンドに上がる。しかし、藤川は、無死から2人の打者を四球で歩かせてしまい、打席には四番打者の村田修一が立った。
 藤川は、村田を追い込んだものの、外角高めに入った甘いストレートをレフトスタンドに叩き込まれ、3−4と逆転された。まだ優勝の可能性が残る阪神は、矢野を出すわけにもいかず、矢野は、出場しないまま試合に敗れ、阪神も、優勝の可能性がなくなった。




(2013年1月作成)

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