山崎 裕之
1946年12月、埼玉県生まれ。右投右打。内野手。背番号2。上尾高校時代、1963年春の選抜大会に出場し、注目を集める。
 1965年に、ドラフト発足前最後の自由競争で東京オリオンズ(のちのロッテ)にプロ野球史上最高契約金5000万円で入団する。
 1年目の1965年、主に遊撃手として1軍で早くも71試合の出場を果たす。
 2年目に顎を骨折して出場が減ったものの、3年目の1967年には113試合に出場し、1968年にはシーズン14本塁打を放ってレギュラーの座を固めた。
 1969年には二塁手に転向して打率.301、14本塁打を残し、初のベストナインに選出される。
 1970年には、打率こそ.247だったものの、25本塁打、75打点と長打力を発揮してロッテのリーグ優勝に貢献する。
 1971年には3年連続ベストナインに選出された。
 1974年にもリーグ9位となる打率.278を残すとともに、リーグ最多の32二塁打を放つなど活躍を見せ、ロッテのリーグ優勝に貢献する。日本シリーズでも本塁打を放つなど打率.364を残して日本一に大きく貢献した。
 1978年に打率.290を残したものの、1979年には西武に移籍。規定打席未満ながら打率.332を残す活躍を見せた。
 1980年には打率.294、25本塁打、77打点で西武の中心打者としてベストナイン、ゴールデングラブ賞獲得する。ロッテ、西武と2球団において両賞を獲得を果たしたことになる。
 1982年には打率.246、7本塁打ながら西武のリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは打率.286を残して日本一に貢献した。
 1983年には通算2000本安打を達成するとともに、打率.287、18本塁打、82打点と自己最高の打点を記録し、西武を2年連続のリーグ優勝と日本一に導いた。
 1984年は、不振に陥り、打率.228に終わって現役を引退。

 2球団で地道に安打を積み重ねた中距離ヒッターで、それぞれの球団で日本一に貢献した。柔らかい身のこなしで名二塁手としても名を残している。

通算成績(実働20年):打率.265、270本塁打、985打点、2081安打。ベストナイン5回(1969〜1971、1974、1980)ゴールデングラブ賞3回(1977、1980、1981)
数々の伝説

 @長嶋二世

 山崎は、上尾高校2年の1963年、春のセンバツ大会に出場して注目を集める。
 山崎は、長嶋茂雄が本塁打を放った埼玉・大宮球場で同じような本塁打を放ったため、野球ファンは長嶋茂雄と山崎をだぶらせた。それに加えてプロとしても充分に通用する守備力は、長嶋の再来を予感させたのである。
 「長嶋二世」として、世間の注目を集めた山崎は、プロ球団の熾烈な獲得競争に巻き込まれることとなる。 


 A史上最高の契約金5000万円

 1964年は、ドラフト制度発足前年で、自由競争が許された最後の年だった。各球団は、有望選手に大金を積み上げて獲得を画策していたが、中でも豪快だったのが永田雅一オーナー率いる東京オリオンズだった。
 永田は、小山正明と山内一弘の世紀のトレードを成功させ、後には陸上短距離選手の飯島秀雄を走塁用に入団させるなど、プロ野球界に話題を振りまき続けた人物である。
 東京は、長嶋二世の呼び声が高い山崎に何と5000万円もの契約金を積み上げる。長嶋や王でさえ2000万円に満たない契約金で入団していると推定されるのに、5000万円とは破格の金額だった。この山崎の飛び抜けた契約金がドラフト制度発足を早めたとも言われる。
 山崎は、入団後、チームの中心打者に成長し、通算2000本安打を達成する名選手となったが、永田は、経営する大映の負債のため、1971年に球団経営から撤退することになった。


 B1イニング2本塁打を2回達成

 1980年8月7日の近鉄戦の7回、山崎は、ソロ本塁打を放った後、打者一巡して回ってきた満塁のチャンスで満塁本塁打を放ち、1イニング2本塁打を記録する。この山崎の活躍により、西武は、1イニング25塁打という日本新記録を樹立する。
 さらに、1983年9月1日の日本ハム戦の8回、山崎は、ソロ本塁打を放った後、打者一巡して回ってきた満塁のチャンスでまたも本塁打を放ち、2度目の1イニング2本塁打を記録した。
 1イニング2本塁打を記録したのは、大島康徳に次いで、史上2人目の快挙だった。
 当時、日の出の勢いだった西武だけに、一度畳み掛けると止まらない打線のすさまじさが分かる記録である。


 C同じ月に6試合連続二塁打の日本記録とサイクルヒット

 1971年の山崎は、3年連続のベストナインに輝いているが、その他にも2つの快記録を達成している。
 7月29日から8月3日にかけて、山崎は6試合連続で二塁打を放った。これは、連続試合二塁打の日本記録だった。
 そして、そのわずか11日後の1971年8月14日、山崎は、東映戦でサイクル安打を達成する。この年、山崎の三塁打は3本であったが、そのうちの1本をサイクルヒットに結びつけるという勝負強さを見せつけたのである。


 DオールスターでMVP

 1973年、山崎は、二塁手としてファン投票で選出され、4回目のオールスターに出場を果たす。山崎は、それまで3回出場し、1970年の第2戦では本塁打を放ってもいたが、MVPとは無縁だった。
 1973年第3戦は、緊迫した投手戦となる。セリーグが1回表に1点を奪ったもののパリーグも4回裏に1点を奪い返し、1−1のまま9回裏を迎えたのである。
 パリーグは、絶妙のコントロールを誇るセリーグの好投手安田猛を攻め立て、2死満塁のチャンスをつかむ。そこで回ってきたのが山崎だった。
 山崎は、安田の直球に対し、バットを折りながらもレフト前ヒットを放つ。パリーグは、3塁ランナーが返って2−1でサヨナラ勝ちを収めた。
 当然の如く、MVPにはサヨナラヒットを放った山崎が輝いた。


 Eロッテで日本一に貢献

 1974年の日本シリーズは、ロッテ×中日となった。山崎は、四番打者として全試合に出場を果たす。
 ロッテは、第1戦で敗れたものの、第2戦では1−5とリードされる展開から山崎が6回に本塁打を放ったのをきっかけに猛反撃を開始し、8回に逆転して1勝1敗とし、流れをつかんだ。
 3勝2敗で迎えた第6戦では、3打数3安打の固め打ちをするとともに、9回には四番打者ながら走者を進める犠牲バントを成功させ、弘田澄男の決勝打を呼んだ。
 このシリーズでの山崎の成績は、打率.364、1本塁打、3打点。MVPこそ打率4割の弘田に譲ったものの、ロッテの日本一に大きく貢献した。


 F西武で黄金時代の基礎を築く

 ロッテで2度のリーグ優勝と1度の日本一に導くなど、活躍を続けてきた山崎だったが、1978年のオフに突如、西武へ移籍することになる。山崎と成重春生が西武の古賀正明、倉持明と2対2で交換トレードとなったのである。
 山崎は、西武でも欠かせぬ戦力として移籍1年目に規定打席未満ながら打率.332を記録すると、翌年には打率.294、25本塁打でベストナインとゴールデングラブ賞に輝き、2球団で両賞を受賞するという快挙を達成した。
 山崎が入団後、西武は、根元陸夫監督の下で強豪チームに成長し、広岡達朗が監督になった1982年と1983年には2年連続でリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも、1982年には2番打者としての役割をこなして日本一に貢献し、1983年には第4戦で駄目押しの本塁打を放って、チームを勢いづけるなど、西武の2年連続日本一に大きく貢献した。
 西武は、その後、日本一が当たり前という常勝チームとなっていく。


 Gタイトルとは無縁の通算2000本安打達成

 山崎は、1968年に初めてシーズン100安打を放って以降、14回にわたってシーズン100安打以上を記録する。途中で打率が2割3分台に低迷したり、故障で欠場したりもしたが、ほぼ安定して成績を残し、レギュラーの座を守り続けた。
 山崎は、1983年9月17日のロッテ戦で通算2000本安打を達成したが、現役を通じてタイトルには無縁だった。本塁打の最高本数は、1970年と1980年の25本。打点は、1983年の82、打率は1969年の.301が最高であり、特に目立つ記録はない。
 敢えて目立つ記録を挙げるなら、1974年に32二塁打、1983年に30二塁打で、2回シーズン最多二塁打を記録していることくらいだろう。
 それでも、積み重ねた2081安打、1099打点、371二塁打などの記録は、他の大打者にひけをとらない超一流の実績である。





(2006年7月作成)

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