山内 一弘
 1932年5月、愛知県生まれ。旧名山内和弘。背番号8(毎日・阪神・広島)。右投右打。外野手。起工業高校では軟式野球をしていたが、社会人野球の川島紡績に入って硬式野球の投手として活躍する。 
 1952年、毎日オリオンズ(現ロッテ)にテスト生として入団。プロでは1年目から野手として育てられ、44試合出場ながら打率.336と非凡な打撃センスを見せる。
 3年目の1954年には97打点を挙げて早くも打点王のタイトルを獲得する。翌年には打率.325、26本塁打、99打点で2年連続の打点王を獲得した。この打点王は、98打点で2位だった中西太の三冠王を1打点差で阻止する結果となった。
 1957年には打率.331で初の首位打者に輝く。
 1959年には25本塁打ながら本塁打王を獲得し、この年の8月16日の大映戦では逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。
 翌1960年には打率.313、32本塁打、103打点で本塁打王と打点王の2冠王に輝き、大毎を10年ぶりのリーグ優勝に導く。その功績が認められ、この年、パリーグのシーズンMVPにも選出される。しかし、大毎は、日本シリーズでは大洋にすべて1点差で4連敗して日本一を逃した。
 1961年には112打点で4度目の打点王に輝く。
 1964年、当時としては異例となる阪神の小山正明との超大型トレードが成立し、阪神に移籍。「世紀のトレード」と話題になった。
 阪神に移っても1年目から31本塁打を放ち、主砲としての活躍で阪神をリーグ優勝に導く。日本シリーズでは2本塁打を放ったものの、南海には3勝4敗で敗れた。
 1967年10月には通算2000本安打を達成。
 1968年には広島へ金銭トレードで移籍し、そこでも打率.313、21本塁打と活躍を見せて、ベストナインに選出される。
 1970年限りで現役を引退。その後、ロッテ、中日の監督を務め、2002年には殿堂入りを果たした。
 
 公私を問わず打撃研究に打ち込んだ求道者で、多くの打者が嫌がる内角球のさばき方を究め、特に無駄のないスイングで広角に放つことができるシュート打ちは、名人の域に達していた。打点王4回が示すように勝負強さを持ち合わせていて大舞台にも強かった。

 通算成績(実働19年):打率.295、396本塁打、1286打点。2271安打。本塁打王2回(1959・60)。打点王4回(1954・55・1960・61)。首位打者1回(1957)。シーズンMVP1回(1960)。ベストナイン10回(1954〜57・59〜63・68)


数々の伝説


 @高校時代は無名の軟式選手

 山内は、起工業高校で野球をしていてエースで4番だったものの、硬式ではなく軟式であった。そのため、プロから注目されることはなく、中日の入団テストを受けたが結果は不合格。
 プロを断念した山内は、社会人野球の川島紡績に入社した。山内の才能に目を付けて獲得を決めたのは阪急の元選手だった森弘太郎監督である。川島紡績で硬式野球に転向し、森監督の下で打撃センスを開花させた山内は、都市対抗野球出場も果たした。しかし、山内は、まだプロから注目を集める存在ではなかった。
 山内は、毎日オリオンズの入団テストを受けてテスト生として入団する。契約金はゼロだったという。


 Aシュート打ちの名人

 山内は、内角に食い込んでくる右投手のシュート打ちを得意としていた。右投手のシュートと言えば、多くの選手が苦手とする球である。
 山内も、最初はシュート打ちを得意としていたわけではなかった。しかし、山内がバッティング練習をするとき、バッティング投手は、いつも内角にばかり投げてくる。真ん中から外寄りに投げてしまうと、強烈なビッチャー返しが襲ってくるからだった。
 確かに内角球を普通に打てば、レフトへ引っ張ってしまう。しかもファウルになりやすい。それを何とかセンター中心に打ち返すことを研究しているうち、山内は、打つ瞬間に左腕を伸ばさずに力を抜くコツを覚えた。すると、不思議と、試合でもファウルを打たなくなったという。
 その打ち方をマスターして以来、山内は、内角のシュートをセンターにもライトにも運べるようになったのである。


 Bオールスター男

 山内は、1954年に初めてオールスターに出場すると第2戦で延長10回にサヨナラヒットを放ってMVPに選ばれた。翌1955年第1戦にもMVPになった山内は、大舞台での勝負強さが知れ渡るようになり、「オールスター男」と呼ばれるようになる。
 1959年の第1戦でもMVPになった山内は、合計3回のオールスターMVPに輝いたのである。
 山内は、オールスターに16回も出場し、リーグを代表する好投手たちと対戦しながら通算38試合で打率.314、8本塁打、24打点という素晴らしい成績を残している。


 C敬遠に敗れた首位打者争い

 1959年のパリーグ首位打者争いは、南海の杉山光平が打率.323で首位を走り、それを追う山内が打率.319で、直接対決最終戦となるダブルヘッダーを迎えた。10月20日のことである。
 しかし、杉山は、1試合目から既に出場する気はなく、ベンチに座ったままだった。山内は、出場したものの、南海の先発祓川正敏投手はボールばかり投げてくる。山内は、それをものともせず、外してきた3球目のボールに飛びついた。打球は、センターオーバーの二塁打となった。
 山内の打率は、これで.321に上昇した。
 あせった南海は、次の山内の打席から完全にバットが届かない敬遠球で勝負を逃げた。1試合目は、二塁打のあと3打席連続敬遠四球。ダブルヘッダー2試合目も第1打席から3打席連続敬遠四球。
 6打席連続で敬遠された山内は、さすがにそれ以上野球をする気にならなかったのか、4打席目を待たずしてベンチに退いた。
 山内は、結局、打率.320で2位に終わっている。


 Dミサイル打線を引っ張ってMVP

 1960年、大毎の打線は、その確実性ある破壊力から「ミサイル打線」と呼ばれた。2番から田宮謙次郎、榎本喜八、山内、葛城隆雄と続く打線は強力で、かつ繋がりがよかった。
 この打線は、何と18連勝という記録を作り上げている。6月5日の近鉄戦で勝った後、大毎の打線は火を噴き続けた。6月29日の近鉄戦までの18試合を92得点、44失点という素晴らしい成績で乗り切り、1954年の南海に並ぶ日本タイ記録となる18連勝を達成したのである。
 ミサイル打線の中核として4番を打っていた山内は、この年打率.313、32本塁打、103打点で本塁打王と打点王の2冠に輝き、シーズンMVPにも選出された。3番を打っていた榎本は打率.344で首位打者となり、打率2位も.317で田宮、3位が山内と、大毎打線が打率ランキング1〜3位を独占した。
 もちろん、「ミサイル打線」を擁する大毎は強く、82勝48敗3分で2位に4ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たしている。


 E満塁で振り逃げし、ホームまで

 優勝した1960年の7月19日、東映戦に出場していた山内は、1−3とリードされた8回に二死満塁というチャンスで打席に立った。
 しかし、カウント2−3からあえなく三振。ところが、東映の捕手がその球を後逸した。それなのに東映の保井代理監督の指示で守っていた東映ナインは全員ベンチへ戻った。
 山内もベンチに戻りかけたものの、ベンチのナインが山内に一塁へ走るように指示したため、走った山内は、前の走者3人に続いてホームまで戻ってきた。
 ルール上では振り逃げが認められるため、4点が入ることとなった。これに対して、5−3と逆転されてしまった東映側も猛抗議する。しかし、ルールがそうなっている以上、覆るはずもなく、山内は、振り逃げして一気にホームまで戻ってくるという前代未聞の記録を作ってしまったのである。


 F二塁打の達人

 山内は、歴代3位となる通算448二塁打を記録している。しかも、1970年の現役引退時点では圧倒的な日本新記録であり、1988年に福本豊が449個目を決めて抜かれるまで記録を保持していた。
 そして、山内は、1955年・56年・59年・62年と4度に渡って二塁打王に輝いている。特に1956年は、47本の二塁打を放っており、これも当時の日本記録だった。しかも、この記録は、長い間破られず、1998年に近鉄のP・クラークが48二塁打を記録するまで何と42年間に渡って日本記録として続いたのである。
 山内自身は、特に二塁打を狙ってばかりいたのではなく、単打で終わりそうな打球でも隙あらば二塁を陥れようと常に考えてプレーした結果の積み重ねだったという。


 G世紀のトレード

 1963年、大毎は、64勝85敗の5位に沈んだ。大毎の永田雅一オーナーは、弱体化していた投手力補強のために4番打者山内の放出を決める。
 そうなると、交換相手も、他球団の顔となっている投手に絞られてくる。
 永田オーナーは、当初、中日の大エースだった権藤博を獲得しようとしたものの、中日が強硬に拒んだため断念せざるをえなかった。永田オーナーは、次に阪神で双璧の2枚看板ながら村山実投手を下回る評価しか受けていない小山正明の獲得に動いた。
 エースが2人いて、さらにホームランバッターがいなかった阪神は、その話に合意した。
 1963年の山内の成績は、打率.283、33本塁打、86打点。4番打者として申し分ない成績である。このとき、山内は、既に打点王4回、本塁打王2回、首位打者1回を獲得した大打者でもあった。
 一方、小山も、最多奪三振1回、最高勝率1回、沢村賞1回を記録し、既に176勝を挙げていた大エースである。
 この超大物同士のトレードは、日本プロ野球史上、類を見ない「世紀のトレード」と騒がれる。
 リーグを超えたトレードによって成績を大きく落とす選手は多いが、山内は、阪神1年目から打率.257、31本塁打、94打点という好成績を残し、小山も東京(前大毎)で30勝12敗、防御率2.47という好成績を残した。超一流は、どこにいても超一流だったわけである。


 H徹底した野球人

 山内の野球にかける情熱は、並の打者とはかけ離れていた。すさまじいほどの練習量と卓越した打撃理論はもちろん、私生活においても徹底していた。
 酒を絶ち、自費でマッサージ師を雇ったり、当時としては珍しいビデオ撮影での分析を行ったり、足腰のために自転車通勤をしたり、庭にバッティング練習場を作ったり。
 そんな山内の職人気質を最もよく表している逸話がある。
 1956年、毎日の主力打者だった山内は、大阪に来たときはナインが泊まる旅館とは別のところに下宿したいと申し出た。この頃、毎日が遠征で使っていた旅館は大阪の道頓堀にあった。道頓堀と言えば、関西を代表する歓楽街。
 ここへ来ると、他のナインは、街に繰り出したり、旅館から他のラブホテルを覗き見したりする。しかし、そんなことをしていると、翌日の試合に差し支えてしまう。
 山内は、それを避けるためにナインとは離れての下宿を希望したのだった。もちろん、山内の言い分は正当だから球団も簡単に許可したという。





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