山下 大輔
 1952年3月、静岡県生まれ。右投右打。内野手。背番号20→1。清水東高校から慶応大学に進んで1年生からレギュラーで活躍する。1974年ドラフト1位で大洋に入団。
 1年目は打率.181に終わるが、2年目にレギュラーを獲得し、打率.248を残した。
 1976年には打率を.276に上げ、初のゴールデングラブ賞(当時はダイヤモンドグラブ賞)を獲得した。
 1977年から1978年にかけて2年がかりで322守備機会連続無失策の日本記録を樹立。1977年には18本塁打を放ち、長打力も発揮し始める。
 1981年には打率.278、16本塁打、52打点を残して攻守に渡って活躍したことが認められ、ベストナインに選出されている。翌年も打率.277、18本塁打を記録する。
 1985年にはセカンドへコンバートされたが、そのすばらしい守備は変わることがなかった。
 1987年限りで現役を引退。
 1998年には横浜のヘッドコーチとしてチームを38年ぶりの優勝に導いた。2003年から2年間横浜の監督を務めた。

 無駄のない動きと柔軟なフットワーク、そして巧みなグラブさばきで完璧な守備を見せ、ゴールデングラブ賞の常連となった。グラブトスやジャンピングスローなどで華麗な見せ場を作ることもあったが、打球に対して攻めながらもエラーをしない洗練された名手であった。守備に隠れてはいるが、打撃もシャープ、小技も堪能でチャンスメイクに長けた選手だった。

 通算成績(実働14年):打率.262、129本塁打、455打点。1378安打。ゴールデングラブ賞8回(1976〜1983)ベストナイン1回(1981)

数々の伝説

 @ルーキーなのにベンツでキャンプ入り

 慶応大学で通算打率.325を残し、甘いマスクで六大学野球のスターだった山下は、ドラフト1位で大洋に指名されて鳴り物入りで入団する。
 1年目の春、地元の静岡で行われた草薙キャンプに山下は、ベンツで登場する。驚いたのは首脳陣や先輩選手たち。
 「新人のくせに」と憤る者もいれば、「さすがは慶応ボーイ」と妙に感心する者もいたという。ただ、そのベンツは、山下自身のものではなく、父の愛車だったという。
 そのため、山下本人は、ただ父の車を借りて乗ってきただけ、という感覚だったらしい。


 A手本は元大リーガーのボイヤーと先輩遊撃手

 アマチュア時代の山下は、守備があまり好きではなかったという。だから自分でもうまいとは思っていなかったそうである。アマチュア時代も、守備が飛び抜けて評価されているわけではなかった。
 優れた野球センスを持ち、慶応大学では名声をほしいままにしていた山下も、プロ入りしてみると、打撃では全くプロのレベルには歯が立たなかった。1年目は打率.181。
 大きな挫折を味わった山下は、何とかプロでレギュラーをつかもうと守備を磨く決意をする。手本にしたのは大リーグで実績を残してきた三塁手ボイヤーと遊撃手米田慶三郎のチームメイト2人だった。ボイヤーの華麗なダイビングやグラブさばき、そして米田の滑るような動きを自らもマスターするために、山下は彼ら2人を研究した。ときには足場をならす仕草までも真似たという。
 その努力は2年目に結実する。守備で遊撃手のレギュラーを奪ったのである。


 B遊撃手連続守備機会無失策

 遊撃手は、守備位置の中で最も負担が大きいと言われている。広い守備範囲が求められると同時に、一塁から最も遠い内野として強肩でなければ務まらない。そんな守備位置で山下は、1976年7月11日の広島戦から1977年4月5日の巨人戦まで連続205守備機会に渡って無失策を続けた。
 これは、ショートの連続無失策セリーグ記録だった。日本記録は218。南海の小池兼司が樹立したこの記録にあと一歩及ばなかった。
 だが、山下の記録は、そこで終わることがなかった。自らの作った記録をその年の8月から再び塗り替え始めるのである。


 C遊撃手連続守備機会無失策日本記録

 再び山下の連続守備機会無失策記録への旅が始まったのは、1977年8月28日の広島戦である。
 それ以降、山下は、エラーの仕方を忘れてしまったかのように打球を捕り続けた。しかも、山下は、どんな難しい球でも必ず全力で追い、エラーを恐れることはなかった。
 1977年をそのまま無失策を継続して終えた山下は、1978年5月6日のヤクルト戦でエラーするまで実に322回の連続守備機会を無失策でしのいだ。その間の記録は、刺殺149、補殺173。
 これは、南海の小池兼司が1968年に作った連続218回という日本記録を104も更新する大記録だった。


 D守備の達人

 山下は、1976年に初めてゴールデングラブ賞を獲ってから8年間に渡って、誰にもその賞を奪われることなく、獲り続けた。しかも、ショートという最もハードな守備位置で。
 山下は、守備について、達人の域に達したかのような言葉を残している。
「吸い寄せられるように打球の方へ動ける」
 地面に対して平行に体を移動し、柔軟なフットワークで流れるような守備を見せた山下は、まぎれもなく歴史に残る名手だった。


 Eコーチとして優勝、そして監督就任

 山下は、1987年限りで現役を引退したが、そのとき球団からは将来の指導者の座を約束されている。大洋は、山下の貢献度を高く評価していたのである。その後、山下は、野球をさらに深く掘り下げるため、アメリカに渡り、自費でアメリカの野球を見て回る。
 そして、1993年に横浜(旧大洋)のコーチに就任する。1998年にはヘッドコーチとして権藤博監督の右腕となり、横浜を38年ぶりの優勝に導いた。
 2000年限りでコーチから退いていたものの、山下監督待望論は消えることはなかった。
 そして、2003年、ついに山下は、横浜の監督に迎え入れられることとなる。




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