山崎 武司
 1968年11月7日、愛知県生まれ。右投右打。一塁手・外野手・捕手。背番号22(中日)→5(オリックス)→7(楽天・中日)。愛工大名電高校では、高校通算56本塁打を放ち、1987年、中日にドラフト2位で捕手として入団する。
 プロ入り3年目の1989年9月に1軍で初安打を放つ。この年、二軍で本塁打王・打点王の二冠王に輝く。
 1990年にも二軍で本塁打王・打点王の二冠王に輝き、1991年にはプロ初本塁打を放つ。
 1995年には一軍で66試合に出場し、打率.291、16本塁打を放って頭角を現す。
 1996年には一軍のレギュラーに定着して打率.322、39本塁打、107打点を記録して初の本塁打王に輝く。
 翌年は19本塁打に終わったものの、1998年には27本塁打、86打点を記録し、16勝利打点でリーグ最多勝利打点を記録する。
 そして、1999年には打率.246、28本塁打、75打点で中日をリーグ優勝に導く。
 2000年には打率.311、18本塁打を記録し、2001年には25本塁打を記録する。
 2002年には打率.192、2本塁打に終わり、オリックスへ移籍する。オリックスでは1年目の2003年に22本塁打放ったものの、2004年には4本塁打に終わり、オフの球団再編により、楽天の選手となる。
 楽天では1年目の2005年に25本塁打を放つと、2006年から監督となった野村克也の下で打撃を進化させ、2007年には43本塁打、108打点という自己最高の成績を残して本塁打王と打点王の二冠王に輝く。
 2009年には41歳で39本塁打、107打点と言う驚異的な成績を残し、楽天を球団創設初の2位に押し上げる。
 2010年も28本塁打を放ったが、2011年に11本塁打に終わると、古巣の中日に移籍する。
 中日では、代打の切り札として活躍したものの、2013年、現役を引退。

 豪快に見えながら、バットに乗せて打球を遠くに運ぶ技術に優れ、中日時代はパワーを生かして本塁打を量産した。その後、楽天では、野村克也監督の下で配球を読む技術を身に付けて30代後半からさらに本塁打を量産するようになったスラッガーである。

通算成績(プロ27年、実働25年)打率.257、403本塁打、1205打点、1834安打。本塁打王2回(1996、2007)、打点王1回(2007)、ベストナイン3回(1996、2007、2009)最多勝利打点1回(1998)


数々の伝説


 @中学時代は相撲で全国大会

 中学時代の山崎は、野球部と相撲部の両方に所属しており、いずれもレギュラーとして活躍していた。野球では全国大会出場を逃すが、相撲では愛知大会で優勝して全国大会に出場しており、中学卒業時には大相撲界から数々のスカウトがあった。
 しかし、山崎は、愛工大名電高校へ進学して野球を続けることを選択し、高校でも全国大会出場は果たせなかったが、高校通算56本塁打の記録を引っさげて中日にドラフト2位で入団することになる。


 Aガルベスと激しい乱闘

 1996年5月1日、巨人戦に出場した山崎は、5回裏の打席で、巨人の巨漢投手ガルベスと対戦する。
 しかし、ガルベスの投球は、山崎の頭めがけて一直線の剛速球だった。山崎は、かろうじてよけたものの、怒りは収まらず、すぐに立ち上がると、ガルベスの方へ突進する。ガルベスも、山崎の方へ歩いていき、応戦するそぶりを見せる。そして、ガルベスが山崎に放ったパンチを契機に乱闘となり、中日ベンチと巨人ベンチから選手たちが飛び出して、一般のファンまで乱入する騒ぎとなった。結局、山崎とガルベスは、退場処分となり、その乱闘の激しさから、その後も、テレビ番組で頻繁に取り上げられることとなった。


 B松井秀喜を破って本塁打王

 1996年、レギュラーに定着した山崎は、シーズン前半から打ちまくり、シーズン中盤まで打率・本塁打、打点の3部門でトップを走る活躍を見せる。オールスターゲームにも初出場を果たし、シーズンを通して調子を持続させて、打率.322、39本塁打、107打点という目覚ましい成績でベストナインを獲得する。また、この年は、巨人の松井秀喜とチームメイトの大豊泰昭と激しい本塁打王争いを繰り広げ、松井と大豊の38本塁打を1本上回る39本塁打を放った山崎が初の本塁打王を獲得した。
 107打点も、ルイス・ロペスの109打点にわずか2打点及ばない2位の成績であり、打率も、パウエルの.340に及ばなかったものの、リーグ4位だった。


 C伝説の万歳サヨナラ本塁打

 1999年9月26日、中日は、ナゴヤドーム最終戦で阪神を迎え撃ち、8回裏まで2−1とリードする。しかし、9回表に守護神宣銅烈がマーク・ジョンソンにまさかの逆転3ラン本塁打を浴び、2−4とリードを許してしまう。
 後のない中日は、9回裏にレオ・ゴメスと立浪和義の連続ヒットにより、1死1、2塁のチャンスをつかむ。そこで打席に入ったのが山崎だった。山崎は、福原の直球を見事にとらえて、打った瞬間にそれと分かるレフトスタンドへの逆転サヨナラ3ラン本塁打となった。
 この前日、山崎は、スタメンを外されており、本塁打を放った後、バッターボックス上で派手な万歳のボーズを決めると、一塁へ走っている途中で一塁ベンチを指差し、吠えるなど、球場全体を興奮のるつぼに巻き込んだ。
 山崎が本塁打を放った後、ホームベース上で万歳をする場面は、現在でも1999年の中日を語るとき、リーグ優勝を決定的にした名シーンとして、必ずメディアで放映されるほどである。


 Dリーグ優勝を決めた試合で骨折

 1999年9月30日、マジック1で迎えたヤクルト戦で、一塁手としてスタメン出場していた山崎は、守備のときに走者真中満と接触して左手首を骨折してしまう。中日は、この試合を5−4で勝ってリーグ優勝を果たしたが、山崎は、その日から残りシーズンを棒に振ることになった。
 しかも、日本シリーズにも間に合わず、1試合も出場できなかった。その後、オリックス、楽天、中日と渡り歩きながらも、チームは日本シリーズ進出を決められず、山崎は、現役期間中に1度も日本シリーズに出場していない。


 E不遇の時代

 山崎は、下積生活が長く、1軍のレギュラーを獲得したのがプロ9年目の1995年であり、レギュラーとして初めて規定打席に達したのはプロ10年目だった。
 しかし、レギュラーに定着して以降、プロ16年目となる2002年からも不遇の時代を過ごすことになる。この年、監督に就任した山田久志は、山崎が開幕から不振に陥ると2軍降格を言い渡し、1軍復帰後もチャンスに凡退すると山崎を批判し、山崎の出番は激減してしまう。
 結局、この年、26試合の出場に終わった山崎は、平井正史とのトレードでオリックスへ移籍することになる。
 移籍したオリックスでは2003年には22本塁打を放ったものの、2004年には不振に陥り、監督との確執もあって、シーズン4本塁打に終わる。シーズン終了後には戦力外となったものの、新規参入球団の楽天ができたことにより、楽天と契約して復活への道を歩み始めることになる。


 F楽天で二冠王

 2005年、田尾安志監督の下で主砲を任されることになった山崎は、25本塁打を放って創設初年度の楽天を盛り立てる。楽天は、最下位を独走したものの、2006年には野村克也が監督になり、楽天は、徐々に力をつけていく。
 そして、山崎も、野村監督の指導によって、配球を読む打撃スタイルを確立させ、2007年には本塁打を量産して5月には月間MVPを獲得し、前半戦は日本記録を更新しそうな勢いで打ち続ける。
 そして、8月27日には40本塁打に到達し、最終的には43本塁打、108打点で本塁打王と打点王の二冠王に輝く。39歳での二冠王は、40歳で二冠王に輝いた門田博光に次ぐ歴代2位の最年長記録となった。


 Gオールスターでセパ両リーグMVP

 2000年に中日でオールスターゲームに出場した山崎は、第2戦に5番指名打者で出場すると、1回表に松坂大輔から先制の2点タイムリー安打を放つ。さらに、第2打席、第3打席でもセンター前安打を放ち、4打数3安打2打点の大活躍を見せる。試合も、セリーグが12−4で圧勝したため、MVPを獲得する。
 2008年には山崎は、楽天の選手としてオールスターゲームに出場する。第1戦ではベンチスタートだった山崎だが、9回裏に4−4の同点に追いついて、1死1、2塁のチャンスで代打として打席に入る。
 そして、阪神の久保田智之投手の速球を狙いすまして振り抜くと、ライトの頭の上を超える。2塁走者は、悠々と生還して5−4のサヨナラ勝ちとなり、サヨナラ安打を放った山崎は、一振りでMVPを獲得した。
 オールスターゲームでのセパ両リーグMVP達成は、史上4人目の快挙だった。




(2013年11月作成)

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