山崎 隆造
 1958年4月、広島県生まれ。右投左右打。外野手・内野手。背番号23→1。崇徳高校で3年次に春のセンバツ大会に出場し、全国制覇を果たす。夏の甲子園では3回戦で敗退するが、ドラフト1位で1977年、広島に入団する。
 プロ2年目の1978年に1軍の公式戦に初出場を果たし、スイッチヒッターに転向する。1979年、1980年は、出場試合が少ないものの、広島のリーグ優勝、日本一に貢献し、1980年にはシーズン17盗塁を残す。
 1983年に背番号1をもらい、外野手でレギュラーを獲得して打率.305、26盗塁の好成績を残す。
 1984年には全試合出場を果たし、打率.319、39盗塁の好成績を残して広島のリーグ優勝、日本一に大きく貢献する。この年の6月から7月にかけては26試合連続安打を記録し、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出される。
 1985年には打率.328、10本塁打、46打点、35盗塁という自己最高の成績を残す。
 1986年にも打率.275、23盗塁でリーグ優勝に貢献する。
 1989年には6年連続全試合出場を記録する。
 1991年には打率.301を残して6年ぶりに打率3割を記録し、選手会長としてもチームを牽引してリーグ優勝に貢献する。
 1993年限りで現役を引退した。

 走攻守が揃った万能プレーヤーで、主に2番打者として器用に犠打や内外野もこなしながら安打や盗塁を量産し、機動力を駆使する広島野球の看板選手として活躍した。

通算成績(プロ17年、実動15年):打率.284、88本塁打、477打点、228盗塁、217犠打。ベストナイン3回(1984〜1985・1991)ゴールデングラブ賞4回(1984〜1985、1987〜1988)

数々の伝説


 @春の甲子園で全国制覇

 1984年、山崎は、崇徳高校で春のセンバツ大会に出場する。遊撃手で1番打として甲子園に登場した山崎は、初戦の高松商業高戦で同点打と決勝打を放つ活躍で11-8の勝利に貢献し、チームは波に乗る。そして、2回戦の鉾田一高に4−1、福井高に4−0で勝ち、準決勝に進む。
 準決勝の日田林工高戦では、山崎が1回に安打を放って塁に出るとその後、先制のホームを踏み、3回には四球で塁に出て盗塁を決めた後、2点目のホームを踏む。4回にはタイムリー安打を放つなど、全3得点に絡む活躍で3−1と勝利を収める。
 決勝でも投打がかみ合い、小山高に5−0で圧勝し、全国制覇を果たす。

 山崎は、この年、夏の甲子園にも出場し、2回戦では2安打を放って、東海大四高に勝利するが、3回戦では1安打に終わり、長崎海星高に0−1で敗れている。


 Aスイッチヒッターに転向

 超高校級の選手としてドラフト1位で入団した山崎だったが、プロの壁は厚く、プロ2年目の1978年にようやく1試合だけ1軍出場を果たす。そんなとき、古葉監督は、山崎にスイッチヒッターとなることを勧める。
 前年にはチームメイトの高橋慶彦がスイッチヒッターに転向して成功を収めようとしていた。
 山崎は、自らの俊足も生かせるスイッチヒッターへの転向を決める。
 翌1979年には24試合に出場し、打率.264、8盗塁を残して道を切り拓き、1983年には打率3割を記録するまでに成長を見せた。


 B日本シリーズで流れを引き戻す

 1979年の近鉄との日本シリーズは、江夏の21球による奇跡的な日本一達成で有名だが、山崎は、第3戦で重要な働きを見せている。
 広島が第1戦に勝った後、近鉄が第2戦をとって1勝1敗で迎えた第3戦は、終盤まで2−1で近鉄がリードする展開となる。
 7回裏に先頭打者で打席に入った山崎は、近鉄の山口哲治投手から右中間への2塁打を放つ。これをきっかけに近鉄投手陣は乱れ、内田順三の同点打とギャレットの決勝打が飛び出し、3−2で勝利を収める。
 その後、シリーズは、第7戦までもつれるが、広島が苦しみながらも4勝3敗で日本一に輝くのである。


 C野球人生を揺るがす大怪我

 スイッチヒッター転向後、徐々に実力をつけていた山崎、1981年3月8日、まさかの悪夢が襲う。
 この日、外野手としてオープン戦に出場した山崎は、打球を追ってレフトのフェンスに激突。コンクリート製だったこともあって、膝から激突した山崎は、右膝の皿が粉々になる複雑骨折という選手生命を左右するほどの重傷を負う。
 その年は、リハビリに費やしてシーズンを棒に振った山崎は、1982年、86試合に出場して14盗塁を決めるなど、故障の影響を感じさせないプレーで見事な復活を遂げるのである。


 D1984年の日本一に貢献

 1984年の広島は、開幕12連勝というロケットスタートを成功させ、快進撃を続ける。1番高橋慶彦、2番山崎、3番衣笠祥雄、四番山本浩二と続く打線は、迫力満点であり、投手陣も山根和夫、小林誠二、北別府学、大野豊らが安定した力を発揮した。広島は、2位中日に3ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。
 山崎は、外野手と二塁手を兼任しながら打率.319、39盗塁、犠打20を残して優勝に貢献し、走攻守にわたる活躍でベストナインとゴールデングラブ賞にも輝く。また、山崎は、6月6日から7月14日まで26試合連続安打を記録し、これは、当時歴代8位タイの記録でもあった。
 
 阪急との日本シリーズでは3勝3敗でもつれ込んだ第7戦で、山崎は、活躍を見せる。7回裏に2−2の同点からレフトへ2点タイムリー安打を放ち、それが決勝点となって日本一となったのである。


 Eレギュラー定着前に背番号1

 1982年、山崎は、86試合に出場して打率.240を残したにすぎなかったが、1983年、大久保美智男投手が着けていた背番号1を継ぐことになる。大久保が結果を残せていなかったこともあるが、山崎に対する期待がいかに大きかったかをうかがい知ることができる。
 背番号1を背負った山崎は、レギュラーに定着し、打率.305、26盗塁を残して広島の看板選手への道を歩み始める。
 その後、山崎は、1993年限りで現役を引退し、背番号1は、天才打者前田智徳に引き継がれ、輝きを放ち続けて行くことになる。


 F選手会長として奇跡の逆転優勝

 1991年は、混戦の中、6月頃から中日が中心となる展開で、広島は、7月には首位中日に7.5ゲーム差をつけられてしまう。しかし、9月に入ると中日が失速し、2位広島にチャンスが生まれる。
 前年から選手会長となっていた山崎は、選手だけのミーティングを開き、「津田のために優勝しよう」と、闘病生活を送る炎のストッパー津田恒実に励みとしてもらうため、涙ながらに各選手へ奮起を訴えかけた。そこから、広島は、一丸となって優勝に突き進み、9月10日からの中日3連戦で3連勝し、首位に躍り出て、10月13日には阪神に勝ってリーグ優勝を決める。
 この年、山崎は、打撃でも打率.301を残し、6年ぶりの打率3割を達成し、広島の優勝に大きく貢献するのである。


 G大舞台では結果を残せず

 山崎は、走攻守が揃った日本屈指の名選手であったが、意外なほどプロ野球の大舞台では結果を残せていない。
 日本シリーズは、1979年に初出場して以降、1991年までの間に5回出場しているが、成績は、全30試合の通算打率が.172で盗塁もわずかに2個である。1979年や1984年には効果的な一打を放っているものの、それ以外ではほとんど活躍できなかったのである。
 また、オールスターゲームでも、1984年、1987年、1991年と3回出場しているが、通算打率は.100である。
 この信じ難い成績について、本人は、気が小さく、大舞台では極度に緊張してしまったため、と回顧している。




(2009年2月作成)

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