山本昌
 1965年8月、東京都生まれ、神奈川県出身。旧登録名及び本名:山本昌広(1986〜1995)。左投左打。投手。背番号34。日大藤沢高校からドラフト5位で中日に入団。
 入団後2年間は1軍登板がなく、3年目と4年目は登板したものの0勝に終わる。
 5年目の1988年にドジャースへ野球留学し、アイク生原の下でスクリューボールや投球術を習得し、帰国した8月から5連勝し、5勝0敗、防御率0.55で中日のリーグ優勝に貢献する。
 翌1989年に9勝を挙げると、1990年には初の2桁勝利となる10勝を挙げて中日の主力投手となる。
 1993年には17勝5敗、防御率2.05、5完封、勝率.773で最多勝と最優秀防御率、最多完封、最高勝率の4冠に輝く。
 1994年にも19勝8敗で2年連続最多勝を記録し、チームを伝説の10.8にまで導いた。また、ベストナインに輝くとともに、14完投を評価され、沢村賞も獲得する。
 1997年にはチームが最下位に沈んだにも関わらず、18勝7敗で球団史上初となる3度目の最多勝を記録し、159奪三振で初の最多奪三振のタイトルも手にする。
 1999年は8勝5敗だったものの、防御率2.96でリーグ3位を記録し、チームのリーグ優勝に大きく貢献する。翌年にも11勝、防御率2.61で防御率リーグ2位を記録する。
 2004年には3年ぶりの2桁勝利となる13勝6敗、防御率3.15で防御率リーグ2位の成績を残し、チームのリーグ優勝の原動力となった。
 2006年9月9日の広島戦では通算2000奪三振を達成し、9月16日の阪神戦では史上最年長のノーヒットノーランを達成するなど、重要な局面で好投し、チームをリーグ優勝に導いた。
 2008年8月4日の巨人戦で1失点完投勝利を収め、プロ野球史上24人目の通算200勝を達成した。この年は、2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げた。
 2010年9月には巨人戦で完封勝利を挙げ、45歳0か月の史上最年長完封記録を樹立。この年、5勝1敗の成績でチームのリーグ優勝に貢献した。
 2014年9月には阪神戦に先発して勝利投手となり、最年長勝利投手記録を64年ぶりに更新した。
 2015年10月には50歳で先発登板を果たすものの、その年限りで現役を引退した。

 球速は130キロ台半ばながら切れの良い直球と宝刀のスクリューボール、カーブなどのコンビネーションで打たせて取る投球術を持つ投手である。膝を高く上げる変則的なフォームながら球筋は本格派であり、中日の球団記録の多くを塗り替えようとしている大投手である。

通算成績(プロ31年、実働29年):219勝165敗5セーブ、防御率3.45、2310奪三振。最多勝3回(1993〜1994、1997)最優秀防御率1回(1993)最多奪三振1回(1997)最高勝率1回(1993)ベストナイン2回(1994、1997)沢村賞1回(1994)ノーヒットノーラン1回(2006)

数々の伝説

 @4年半もの下積み生活

 高校時代の山本は、甲子園出場経験がなく、全国的には無名の投手だった。1984年にドラフト5位で中日に入団しているが、当時の首脳陣が下した評価は、即戦力にならない投手というものだった。
 体は大きな左腕ではあるが、球速が130キロ台半ばと遅く、お世辞にも綺麗には見えない変則的な投球フォーム。
 山本は、プロ入り後2年間、全く1軍の試合に登板することなく、シーズンを終える。3年目の1986年も、1軍で1試合に登板したものの本塁打を浴びて2/3回を2失点、防御率27.00という不本意な形でシーズンを終える。さらに、4年目の1987年には3試合に登板したものの、計1回2/3を3失点で防御率は16.20だった。
 そんな山本が一気に開花するのは、その翌年8月のことである。


 Aドジャース留学とスクリューボール習得

 1988年、山本は、アメリカのドジャースへ野球留学を果たす。山本は、186センチの長身で手足が長いが、球が遅く、変則フォームである。星野仙一監督は、そんな山本を「自分では指導することができない」とさじを投げたのだ。ならば、長身で手足が長いのだから、そういう選手が多いアメリカで教育してもらおうということで山本は、ドジャースへ行くことになったのである。
 そのドジャースのファームで覚えたのが伝家の宝刀となるスクリューボールだった。
 チームメイトの野手が遊びで投げているスクリューボールの切れ味に感心した山本は、その握りをじっくり観察して、夜の試合で試しに投げてみた。すると、打者をいとも簡単に打ち取れる。
 そこで、山本は、ドジャース国際担当のアイク生原(生原昭宏)との二人三脚でスクリューボールの完成を目指し、さらには鋭いカーブもマスターした。アイク生原にピッチング技術を叩き込まれた山本は、ドジャースのファームで登板しては好成績を残す。そして、1Aのオールスターゲームにも出場し、ついには大リーグのホワイトソックスから誘いを受ける。
 しかし、それに驚いた中日は、誘いを断り、日本に呼び戻す。
 山本は、8月の帰国後、1軍でいきなり活躍を見せ、8試合に登板して2完封を含む5勝0敗、防御率0.55で、まさに救世主としてリーグ優勝に貢献する。そこから山本は、大エースへの道を歩み始めることになる。


 B投手4冠

 1993年、4月から順調に勝ち星を積み重ねた山本は、1年を通して好調を維持し続け、チームを優勝争いに参戦させる。その結果、17勝5敗、防御率2.05、勝率.733、5完封という驚異的な成績が残った。投手の2本柱として活躍していた今中慎二と並んで最多勝を獲得し、さらに最優秀防御率、最高勝率、最多完封を合わせて4冠を獲得した。
 チームは、惜しくも2位に終わっているが、もし優勝していれば、MVPも可能な好成績だった。
 この年の9月8日、山本は、打撃練習の球を避けようとして転倒し、右鎖骨を骨折して戦線を離脱している。もし、そんなアクシデントがなければ、優勝と共に20勝を達成していた可能性すらあったのである。


 C10.8へ導く好投と沢村賞

 1994年、山本は、自己最多の19勝を挙げて2年連続の最多勝を記録する。投球回もリーグ最多の214回であり、完投した試合は14にのぼった。8月30日から10月まで怒涛の7連勝で巨人を震え上がらせた。
 特に素晴らしかったのが首位巨人を震え上がらせた10月6日の阪神戦である。先発して好投を見せ、10−2で完投勝利を挙げたのである。この勝利により、69勝60敗となった中日は、この日敗れて69勝60敗となった巨人に同率首位で並ぶ。そして、勝った方がリーグ優勝となる史上初の同率首位最終試合決戦、いわゆる「伝説の10.8」が実現した。
 山本は、2日前に先発完投していたこともあって10.8には登板せず、もう1人のエース今中が先発したが、惜しくも3−6で敗れ、奇跡のリーグ優勝はならなかった。
 山本は、その年のリーグ最多の完投数や勝利数を評価され、沢村賞に選出されている。


 Dイニング最多暴投

 山本昌と言えば、針の穴を通すほどのコントロールの持ち主である。直球も変化球も、コーナーぎりぎりに投げ分けることができる。
 だが、1996年7月4日の阪神戦で、山本昌は、信じ難い記録を作ることになる。抜群の制球力を誇る山本が1イニングに3暴投をしてしまったのだ。これは、セリーグ記録であるとともに、日本タイ記録でもあった。
 この年は、別段制球に乱れがあったわけではなく、154回2/3を投げて四球は38個とまずまずの成績を残している。
 にもかかわらず、1イニング3暴投をして日本記録になってしまったところに、野球の不思議さがある。


 E改名後、チームが最下位でも2冠

 山本は、1991年に同姓の山本保司内野手が中日に入団してから「山本昌」と呼ばれるようになった。すると、その翌年には13勝、1993年には最多勝を獲得する。
 1995年には故障もあって2勝5敗と不振に終わったため、今度は登録名を本名の「山本昌広」から「山本昌」に変える。すると、1996年には7勝、そして1997年には18勝を挙げて最多勝を記録した。
 チームは、この年、ナゴヤドーム元年の広い球場対策に苦しんで59勝76敗の最下位に低迷したが、山本だけはその広い球場を味方につけて18勝7敗、防御率2.92、159奪三振を記録し、最多勝と最多奪三振の2冠に輝いた。防御率も、リーグ2位という好成績で、ベストナインにも選出された。通算3度目の最多勝は、球団史上初となる快挙だった。
 山本は、この改名効果のゲンを大切にし、その後、同姓選手がいなくても、ずっと登録名を「山本昌」で通している。ちなみに大投手にしては大きな背番号34も、変更を拒み続け、自らと苦楽を共にした背番号を大切に背負い続けている。


 F夏に強いタフネスぶり

 山本は、40歳を超えても体力に衰えを見せなかった。それどころか、完投はおろか完封さえできる。
 大抵のベテラン投手は、夏になると疲れを見せ始めるが、山本は、夏になると汗をかくので体に切れが出て逆に調子を上げる。
 加えて若い頃から130キロ台半ばの直球でやってきたため、年齢による速球の衰えとは無縁の野球生活を送れる。
 球速がない分だけ、若い頃から球持ちの長く、打者を幻惑する変則的な投球フォーム、そしてコントロールや球の切れを磨き続けてきた。常に精力的な走りこみも行っているという。
 そのため、山本は、40代に入ってからも大崩れすることも、衰えを見せることなく、若い頃のピッチングをさらに進化させ続けている。


 G史上最年長の41歳1ヶ月でノーヒットノーラン

 2006年9月16日、山本は、ナゴヤドームでの阪神との首位攻防戦に先発する。首位を走る中日にとって優勝に向けた最大の天王山とも言える試合だった。
 この日の山本は、130キロ台半ばの直球の切れが良く、スクリューボールやスライダーも随所で冴え渡り、阪神打線に的を絞らせない。4回には赤星憲広を三塁ゴロエラーで出塁させるものの後続を断ち、安打を許さない。
 チームも1回にソロ本塁打で1点、4回にも2ラン本塁打で2点を追加し、3−0で9回表を迎える。
 9回を迎えても山本の投球リズムは、変わらなかった。打たせて取るピッチングで淡々と2アウトを取り、最後の打者赤星も三塁ゴロに打ち取ってノーヒットノーランを達成する。9回をわずか97球で、無安打無四死球1失策5奪三振。安打も四死球も許さなかった準完全試合でもあった。
 プロ23年目で41歳1ヶ月を迎え、既に通算188勝を挙げていた山本にとって、意外にもこれが初めてのノーヒットノーランだった。しかも、それまでのプロ野球最年長記録だった佐藤義則の40歳11ヶ月を更新する史上最年長での快挙達成でもあった。


 H史上最年長の42歳11ヶ月での通算200勝達成

 2008年8月4日、山本は、通算200勝をかけて本拠地ナゴヤドームでの巨人戦に先発する。その日は、くしくも球団創設9000試合目に当たる記念試合だった。
 山本は、初回こそ簡単に1点を失うものの、2回表1死3塁のピンチを絶妙のカーブでスクイズ失敗を誘い、併殺で切り抜けると、2回裏にはデラロサがソロ本塁打を放ち、同点に追いつく。
 3回裏には中村紀洋のレフト前タイムリーで2−1、5回裏には井端弘和のソロ本塁打などで3点を奪い、5−1とリードする。
 山本は、3回以降、本来の投球を取り戻し、3回から6回まで無安打に抑える。
 ナゴヤドームの大声援の中、9回もマウンドに上がった山本は、巨人の4番打者をライトフライに打ち取り、5−1でプロ野球史上24人目となる通算200勝を完投で達成する。内容は、9回4安打1失点で通算77度目の完投勝利だった。山本は、マウンドに集まった中日ナインから胴上げされ、4度宙に舞った。
 42歳11ヶ月での通算200勝達成は、史上最年長であり、完投勝利も、史上最年長だった。

 I巨人戦で史上最年長完封勝利

 2010年、山本は、シーズン前半を故障で棒に振ったが、8月7日に復帰後は無傷の3連勝を飾る。そして、迎えた9月4日の巨人戦では、序盤から巨人の重量打線を小気味よく打ち取っていき、4回までで3−0とリードを奪う。
 山本の投球は、終盤になるとさらに調子を上げ、5回から7回まで完璧に抑えると、9回に迎えたピンチも振り切って9回を散発6安打4奪三振、111球で見事な完封勝利を挙げる。
 これは、若林忠志が1950年に記録した42歳8カ月を大きく上回る45歳0カ月での史上最年長完封勝利だった。


 J阪神戦で史上最年長勝利

 2014年9月5日、この年の山本は、シーズン前からの調整がうまくいかず、49歳0か月となるこの日がシーズン初登板となった。
 この日の出場によって、山本昌は、浜崎真二が作った48歳10か月の最年長出場記録を塗り替えたが、それだけでは終わらなかった。
 初回から安定した熟練の投球で阪神打線を封じ、毎回ランナーを背負うものの5回を5安打無失点に抑えた。中日打線も、4回に2点を奪うと6回と7回にも2点ずつを加えて6−0で勝利する。
 勝利投手となった山本は、浜崎真二が作った48歳4か月の最年長勝利投手記録を64年ぶりに9か月更新する快挙を達成した。





(2008年8月作成)

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