山本 和範
 1957年10月、福岡県生まれ。外野手。左投左打。背番号47(近鉄)→59(南海)→29→92(近鉄)。戸畑商業高校からドラフト5位で1977年に近鉄へ入団する。
 投手として入団したものの、すぐに外野手に転向し、5年目の1980年にようやく1軍出場を果たす。
 しかし、1982年には再び1軍出場できず、その年のオフに戦力外となり、退団する。その後、アルバイトをしながら南海と交渉し、入団契約を交わす。
 南海入団1年目の1983年に51試合出場を果たすと、1984年には115試合に出場し、打率.306、16本塁打、15盗塁を残してレギュラーを獲得する。
 1985年には全試合出場を果たして125安打、15本塁打を放ち、1986年には打率.294、19本塁打、57打点の活躍で南海の中心選手に成長する。この年にはオールスターMVPを獲得し、外野手としてゴールデングラブ賞も受賞する。
 1988年には規定打席へわずかに届かなかったものの、打率.321、21本塁打、62打点の活躍を見せ、1989年には打率.308、13本塁打、19盗塁という活躍で初のシーズン3割を達成する。
 1993年には打率.301で2度目の打率3割を記録すると、1994年には打率.317、11本塁打、62打点の活躍でイチローに次ぐリーグ2位の打率を残す。
 1995年には故障の影響で打率.201に終わって、オフには近鉄に移籍したが、近鉄では移籍1年目から14本塁打を放って復活する。
 1999年は、開幕前の故障で出遅れて2軍暮らしが続いたが、引退試合では見事な本塁打を放って有終の美を飾った。
 現役を通じて優勝には縁がなかったが、オールスターには5回出場して打率.321、4本塁打という勝負強さを見せた。

 豪放そうな風貌とは異なり、野球スタイルとは基本に忠実な中距離ヒッターで守備も堅実な名選手である。本塁打も打てて打率も稼げる打撃技術を持っており、2度の戦力外から見事に復活した苦労人である。

通算成績(実動19年):打率.283、175本塁打、669打点、1400安打、102盗塁。ゴールデングラブ賞1回(1986)

数々の伝説


 @プロ入りすぐに野手転向

 戸畑商業高校で投手として活躍した山本は、高校3年生の1975年秋に巨人の入団テストに合格するものの、単位不足で卒業できず、プロ入りを断念する。
 山本は、翌1976年秋に南海からドラフト5位で指名を受け、投手として入団する。
 しかし、南海に入団してわずか1週間後、山本は、仰木彬コーチから投手失格の烙印を押され、野手に転向させられる。そして、転向した一塁手も失格となった山本は、外野手としてプロでやっていくことになる。 


 A近鉄戦力外通告から復活

 山本は、近鉄でプロ4年目の1980年にようやく1軍出場を果たしたが、結果を残せず、1軍と2軍を行き来した後、1982年には再び2軍生活に戻り、1軍出場が叶わなくなった。そして、その年のオフに戦力外通告を受ける。
 近鉄入団後、6年間で残した成績は、38打数6安打、1本塁打、打率.158という散々なものだった。

 近鉄を退団した山本は、同僚の久保康生投手の紹介でバッティングセンターに住み込みで働きながら、他球団への入団を目指した。仰木彬コーチの紹介でヤクルトという道もあったものの、南海の穴吹義雄監督が獲得を即決したため、南海に入団する。


 Bオールスター初出場でMVP

 南海で1984年にレギュラーを獲得した山本は、1986年、初めてオールスターゲームに出場する。
 その第1戦で2番打者として出場した山本は、4回に先頭打者として金石昭人投手からライト前ヒットを放って得点につなげると、5回には金石からレフトへの勝ち越し2塁打を放つ。その後も得点を重ねたパリーグは、結局、山本の2塁打が決勝打となり、6−4で勝利を収める。
 4打数2安打で決勝打を放った山本は、オールスター初出場ながらMVPに輝いた。
 山本は、翌第2戦でも本塁打を放って優秀選手賞に輝いている。


 C幻の本塁打

 1987年5月9日、山形県野球場で行われた日本ハム×南海戦で、9回に山本が放った打球はライトスタンドへ吸い込まれていき、本塁打と判定された。
 しかし、その直後、抗議が起こり、証言の結果、山本の打球は、ライトスタンドの上部にある金網の網目をすり抜けてスタンドに入っていたことが判明した。
 フェンスを超えていなければ、本塁打とならないため、同点本塁打のはずが二塁打に変更された。ダイヤモンドを既に一周していた山本は、二塁に戻されて同点本塁打は幻となった。


 Dイチローに次ぐ打率リーグ2位

 1994年、山本は、好調にヒットを重ね、シーズンを通して好調を維持し続けた。主に2番打者として出場しながら、このシーズンの犠打は1個だけで、「バントをしない2番打者」の異名をとるようになっていた。
 この年、自己最高の133安打を放ち、打率.317と自己最高の成績を残した山本は、パリーグのシーズン打率リーグ2位となる。
 それでも、首位打者争いは、蚊帳の外だった。この年は、彗星の如くイチローが出現し、シーズン210安打、打率.385というとてつもない成績を残したからである。そのため、イチローがあと1年遅れて出てくれば首位打者だったのだが、山本は、大差をつけられて目立たないリーグ2位となった。


 E登録名「カズ山本」

 1994年は、オリックスが2人の選手の登録名を「イチロー」「パンチ」という愛称で売り出し、イチローが前代未聞の活躍を見せたため、大きな注目を集める。
 そして、山本も、後半戦から対抗するように「カズ山本」という登録名で売り出す。山本は、ドラキュラからとった「ドラ」というのが愛称だったが、当時、サッカーの三浦知良が全盛期で活躍を見せていたこともあって、「カズ」という愛称で売り出すことになった。
 そして、山本は、この年、打率.317、133安打という自己最高の成績を残すことになるのである。


 Fダイエー戦力外通告から復活

 1993年から2年間は、主に指名打者として活躍を見せ、ついに2億円プレーヤーの仲間入りを果たす。しかし、1995年は、大物外国人選手ケビン・ミッチェルの加入があったため、外野手や指名打者での不安定な起用になり、守備で右肩を亜脱臼してしまう。
 その影響でわずか46試合出場で打率.201に終わった山本は、前々年にリーグ打率2位であったにもかかわらず、まさかの戦力外通告を受ける。38歳という年齢と高年俸がその大きな理由だった。

 現役続行を希望する山本に対し、古巣近鉄が獲得に動き、山本は、約3分の1の年俸ながら入団を決める。近鉄では指名打者や代打の切り札として重用され、移籍1年目には14本塁打、2年目には12本塁打を放ち、復活したのである。


 Gオールスターで2度目のMVP

 1996年、前年のダイエー戦力外から復活した山本は、オールスターゲームにファン投票で選出される。山本の苦労を知るプロ野球ファンの多くが投票したためで、山本にとって初のファン投票選出だった。
 その第1戦で山本は、6回裏、4−3と1点勝ち越した直後の1死1、3塁でバッターボックスに入る。
 山本は、藪恵壱投手の外角高めの直球を豪快に引っ張ると、広い福岡ドームのライトスタンドへ飛び込む3ラン本塁打となった。この山本の本塁打が効いて、パリーグは、7−4で勝利を収め、1打数1安打3打点の山本は、10年ぶり2度目のオールスターMVPに輝いた。
 前年までの本拠地での本塁打だっただけに、山本のヒーローインタビューは、涙涙の感動的なものとなった。


 H引退試合で決勝本塁打

 1999年、山本は、開幕前に右手首と左足を故障して出遅れ、1軍に呼ばれないまま時間だけが過ぎて行った。
 そして、9月3日には近鉄から戦力外通告を受ける。
 9月30日のダイエー戦は、山本の引退試合となった。山本は、5番打者として先発出場し、1回にはダイエーのエース工藤公康からセンター前ヒットを放つ。
 その後、試合は、緊迫した展開となり、4−4の9回表2死で山本が打席に立った。マウンド上にはセットアッパーとしてここまで14勝0敗という完璧な成績を残していた篠原貴行である。
 山本は、篠原の投球を慎重に見極めながら、4球目の真ん中高めへ入ってきた剛速球を見事なスイングでとらえる。その打球は、何と福岡ドームのライトスタンド中段に吸い込まれて行った。
 山本の本塁打により、5−4と勝ち越した近鉄は、そのまま勝利を収め、篠原にこの年唯一の黒星をつけてシーズン勝率10割の快記録を阻止したのである。




(2008年12月作成)

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