山本 和行
 1949年6月、広島県生まれ。左投左打。投手。背番号25。1966年に夏の甲子園に出場している。高校卒業後、亜細亜大学に入学し、通算33勝を記録。1972年にドラフト1位で阪神タイガースに入団。
 入団当初は、主に先発・中継として起用され、1年目から3勝5敗というまずまずの成績を残す。
 2年目は0勝に終わるが、3年目は6勝をマークした。
 5年目の1976年から主にリリーフとして起用されるようになると一気に才能が開花し、6勝3敗18セーブ、24セーブポイント、防御率2.92という好成績を残した。この年は、6月に満塁本塁打を放ってチームの3試合連続満塁本塁打という記録に貢献している。
 1977年は9勝5敗9セーブ、16セーブポイント、防御率3.71ながら最多セーブのタイトルを獲得。
 1980年には再び先発として活躍し、15勝11敗2セーブを残した。
 1982年にはまたもリリーフに転向し、15勝8敗26セーブ、40セーブポイント、防御率2.41という驚異的な成績で最優秀救援投手のタイトルを手にした。シーズン40セーブポイントは日本新記録だった。
 1984年に10勝8敗24セーブ、34セーブポイントを記録して2度目の最優秀救援投手に輝くと、大リーグ挑戦を希望した。しかし、周囲の慰留により断念。
 1985年も阪神の守護神として5勝6敗11セーブ、16セーブポイントを記録したものの、首位争いを繰り広げるチーム状況の中、9月の練習中にアキレス腱断裂の大怪我を負って戦線を離脱する。しかし、阪神タイガースは、リーグ優勝、日本一となった。
 1986年には11勝3敗15セーブ、25セーブポイントで鮮やかに復活。
 1988年、投手コーチ兼任で0勝3敗に終わると、その年限りで現役を引退。
 現役を通じての登板数700は、現在でも阪神の通算最多登板数である。

 投げる瞬間まで同じフォームで同じ握りという直球とフォークボールを武器に多くの三振を奪い、先発でも抑えでも好成績を残した。全盛期に大リーグ入りを希望しながら断念したのは残念だが、その分、阪神の優勝に貢献した。
通算成績(実働17年):116勝106敗130セーブ、190SP、防御率3.66。1252奪三振。セーブ王(1977)最優秀救援投手(1982・1984)
数々の伝説


 @巨人以外への入団を希望

 山本は、亜細亜大学2年生のときにフォークボールをマスターし、エースとして大学通算33勝を挙げる活躍を見せた。4年生のときにはシーズン70奪三振というリーグ記録も打ち立てる。
 プロの各球団も、ドラフトの目玉として山本に注目した。ドラフト会議の前、希望球団を聞かれた山本はこう答えている。
「巨人以外のセリーグの球団を望んでいます」
 ドラフトは、山本の希望通りになった。巨人の永遠のライバル球団、阪神タイガースが山本を1位で指名したのである。
 山本は、巨人が嫌いだったわけではなかった。ONがいる強い巨人に対して投げたかったのだ、という。


 Aフォークボールを武器に守護神に

 山本は、広島商高時代は速球派だった。高校時代は、それで充分通用していたのである。
 しかし、大学に入ると、やはり速球だけで押すピッチングには無理があり、監督からカーブの習得を勧められた。
 ところが、山本のカーブはほとんど曲がらなかった。試合では全く使い物にならないので、今度はフォークボールをマスターすることにした。
 フォークボールをマスターすると、山本は、面白いように勝てた。
 プロに入ってからもこのフォークボールを磨くことに余念はなく、投げる直前まで直球の握りをしていて投げる瞬間にフォークボールの握りに変える、というフォークボール投法を開発して阪神の守護神に登りつめるのである。


 B史上初の40セーブポイント

 1980年、山本は、先発投手として15勝11敗の成績を残し、小林繁と並んでチームの勝ち頭となった。翌年も12勝した山本は先発としてもエース級の働きをしていた。
 しかし、1982年、新監督となった安藤統男は、山本をリリーフに再び転向させることを決める。リリーフエースの重要性を考えてのことだった。
 既にリリーフ経験のある山本は、守護神としていきなり15勝8敗26セーブ、40セーブポイント、防御率2.41という素晴らしい成績を残す。40セーブポイントは、1976年の鈴木孝政が作った32セーブポイントの日本記録を大きく超える日本新記録だった。
 そして、このリリーフ転向が3年後に大きく実を結ぶのである。


 Cチーム3試合連続満塁本塁打の2試合目

 1981年6月23日、山本は、広島戦に登板し、4回には自ら満塁本塁打を放った。すぐ前の6月19日の大洋戦で、阪神のチームメイト藤田平が初回に満塁本塁打を放っていたため、阪神としては2試合連続満塁本塁打となった。
 この投手山本の本塁打が次の試合で記録を呼ぶ。翌24日の広島戦で、岡田彰布が初回に満塁本塁打を放って3試合連続としたのである。
 チーム3試合連続本塁打達成は、1950年の中日以来の日本タイ記録だった。
 

 Dタフ

 山本は、先発も中継ぎもクローザーもできる万能投手だった。しかも、どれだけでも連投ができる、というタフさも持ち合わせていた。
 1975年には10試合連続登板というセリーグ記録も樹立している。この当時は、投げる機会があれば、どれだけでも連投という時代だった。山本は、5連投、6連投なら当たり前のようにこなし、その中で10連投が生まれたのである。
 1976年には何と全試合数の半分を超える67試合に登板し、最優秀救援投手を獲得した1982年にも63試合に登板している。40試合以上投げたシーズンは通算8回にも登っている。山本の通算登板数は何と700。この記録は、阪神の通算登板数歴代1位に輝いている。


 E大リーグ挑戦を熱望

 1984年のオフ、山本は、契約更改で突如、大リーグ挑戦を希望する。このシーズンの山本は、34セーブポイントで最優秀救援投手に輝いていた。押しも押されぬリーグナンバー1のリリーフエースである。
 当時、大リーグ挑戦を口にすることはタブー視されていた。どうせ日本人は大リーグで通用しない、と思われていたし、外国への移籍が日本球界への裏切りととらえられた時代だったからだ。並の投手ならまだしも、山本は、リーグを代表する投手だから尚更である。
 そのため、球団も周囲の人々もファンも家族も皆、慰留した。
 一方、山本は、既に大リーグ式の練習法や調整法を取り入れて、大リーグで投げることを目標にしていたのである。
 しかし、そのような革新的な思想は、日本では受け入れられなかった。山本は、周りの説得に屈して大リーグ挑戦を断念する。
 皮肉にも、この大リーグ挑戦断念が翌年、奇跡と呼ばれた阪神優勝を生み出すのである。


 F優勝に貢献するも……

 1985年、山本は、開幕当初から守護神として素晴らしい働きを見せる。中西清起投手とのダブルストッパー体制でチームの危機を救い、阪神は次々と勝利をものにしていった。
 しかし、9月1日、山本は、大洋戦で2回を無失点に抑え、5勝目を挙げたのを最後に一軍から姿を消す。次の登板に向けてナゴヤ球場で練習中、左足のアキレス腱を断裂してしまったからである。
 9月1日までの山本の成績は5勝6敗11セーブ、16セーブポイント、防御率2.70という素晴らしい成績だった。
 優勝を目の前にしての故障により、山本は、胴上げ投手になる可能性さえあったにもかかわらず、優勝の瞬間に一軍にいることすらできなくなったのである。


 G日本シリーズで特別に胴上げ

 アキレス腱断裂で戦列を離れた山本は、日本シリーズにも出場することはできなかった。一軍に帯同することもできず、ずっと二軍生活を余儀なくされていたのだ。
 しかし、山本は、どうしても日本一の瞬間に参加したい理由があった。それは、入院している母親に日本一となる自らのユニフォーム姿を見せたかったからだ。
 山本は、吉田義男監督にその希望を伝える。一軍にいないだけにベンチ入りは認められなかったが、吉田の粋な計らいによって、山本の願いは叶えられた。日本シリーズの第6戦、山本は、ユニフォームを着てベンチ裏で待機する。
 そして、試合終了の瞬間、山本は、ベンチを通り抜けてグラウンドに飛び出したのである。山本は、胴上げに参加したばかりでなく、吉田義男監督、バース、掛布雅之、ゲイル、川藤幸三に次いで6番目に胴上げされる、という栄誉まで受けた。


 H復活

 1986年、アキレス腱断裂から復帰した山本は、怪我が嘘だったかのような投球を見せる。49試合に登板し、11勝3敗15セーブ、25セーブポイントという好成績を残した。しかも、防御率が1.67という完全復活だった。それでも、阪神は、打撃陣が前年のような爆発力を見せられず、3位に落ちてリーグ2連覇を逃した。




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