山本 浩二 
 1946(昭和21)年、広島県生まれ。右投右打。外野手。背番号27→8。旧名:山本浩司。廿日市高校から法政大学を経て1969年に広島カープにドラフト1位で入団。
 1年目からレギュラーに定着し、7年目の1975年に打率.319で初の首位打者を獲得する。
 その年、チームも球団創設以来初の優勝を成し遂げ、打率.319、本塁打30、打点84の成績を評価されて、シーズンMVPに選ばれる。
 以後、「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれ、「鉄人」衣笠祥雄とともに広島の黄金時代を作り上げた。
 1977年に44本塁打を放って始めて40本台に乗せると、翌年にも44本塁打を放って初の本塁打王を獲得する。
 1980年にも打率.336、44本塁打、112打点という好成績で本塁打王と打点王の二冠に輝くとともに2度目のシーズンMVPを獲得。チームも近鉄を破って2年連続日本一となった。1981年も打率.330、43本塁打、103打点を残して本塁打と打点の2年連続二冠王を達成する。
 1983年には36本塁打で4度目の本塁打王になるとともに、サイクルヒットも記録した。
 1986年、27本塁打したものの惜しまれながら現役を引退。
 1989年に広島の監督に就任し、1991年にはリーグ優勝を果たす。1993年に退任したが、2001年から再び広島の監督を5年間務めた。

 右にも左にも本塁打が打てる広角打法のホームランバッターとしてチームを引っ張るとともに、守備でも軽快な動きと強肩でファンを魅了した。 
 現役時代を通してリーグ優勝5回、日本一3回に大きく貢献している。

通算成績:打率.290、2339安打(歴代12位)、536本塁打(歴代4位)、1475打点(歴代9位)
本塁打王4回(1978、1980、1981、1983)。打点王3回(1979〜1981)。首位打者1回(1975)。ベストナイン10回(1975、1977〜1984、1986)
ゴールデングラブ賞10回(1972〜1981)
数々の伝説

 @一般部員から3羽ガラスへ

 山本は、廿日市高校から1965年、法政大学に入学するが、エリートコースの「合宿組」には入れず、一般部員としてスタートすることとなった。
 最初は、投手として入部したものの、すぐに野手に転向。
 それでも、努力によって異例の中途「合宿組」入りを果たし、富田・田淵とともに「法政3羽ガラス」と呼ばれるまでになった。
 そして、ドラフトでは広島カープの1位指名を受けて入団し、1年目からレギュラーとなっている。


 A○○コールと鳴り物応援のはしり

 「ミスター赤ヘル」として広島の攻撃を引っ張るようになってから、球場では山本が打席に立つたびに「浩二!浩二!」というファンからの大声援が起こるようになった。
 マスコミは、それを「浩二コール」と名付けて広めたため、その後、球場でファンから名前で大声援を受けるときは「○○コール」と呼ばれるようになったと言われている。
 また、昔の応援は、現在のような派手な応援はなく、声での応援のみしか行われていなかった。トランペットなどの楽器(鳴り物)による応援は、山本の打席で行われたのが最初だと言われている。

 
 B激闘の末に初の首位打者

 1975年、山本は、初の首位打者を狙いながら、同時に球団創設初優勝をかけてシーズンを闘っていた。
 1975年10月15日、後楽園で一足先に広島東洋カープ念願の初優勝が決定。それは創設26年目のことだった。
 それから五日後、阪神―中日戦で、打率.319で首位打者争いのトップを行く山本をわずか9毛差で追っていた井上(中日)が、最終戦の最終打席で死球。この打席で安打を打てば逆転で首位打者だった井上は、審判に「当たってない」と抗議したといわれている。
 しかし、判定は覆らず、山本が初の首位打者となった。


 C本塁打王・打点王は30歳を超えてから

 山本は、首位打者こそ29歳だった1975年に獲得しているが、本塁打王は31歳になった1978年が最初である。
 しかも、山本は30歳となったその前年からシーズン本塁打を40本台に乗せ、以後5年連続40本塁打以上という大記録を達成した。
 打点王は、最初の本塁打王をとった翌年の1979年が最初で32歳のときである。
 そして、37歳となる1983年に36本塁打で4度目の本塁打王に輝いている。
 そして、40歳となる1986年に歴代4位となる通算536本塁打まで積み上げていった。人々は、この遅咲きの大スラッガーを大器晩成と称えた。


 Dぎっくり腰で逆転本塁打

 1975年8月7日、山本は、ヤクルト×広島戦の試合前の練習中にぎっくり腰になり、試合への欠場を古葉竹識監督に願い出た。
 しかし、古葉監督は、それを聞き入れず、4番センターでスタメン出場。
 腰の激痛で、バットを満足に振れない山本は、ほとんどバットを振らなかった。
 一時、広島が5−0とリードしたため、山本は再度交代を申し出たがそれも聞き入れられなかった。
 ところが、試合は混戦に突入し、7回終了時点に7−6でヤクルトがリードを奪っていた。
 そして、8回、広島はホプキンスの3塁打で同点に追いつき、ランナーを3塁に置いて山本に打席が回ってきた。
 山本は、仕方なしに腰の痛みをこらえて、石岡投手の外角直球を軽くミート。その打球は、驚くべきことに右翼席まで飛んでいき、9−7とする逆転本塁打となった。


 E現役最後のホームランは貴重な一発

 1986年、広島×西武の日本シリーズ第1戦、西武の投手はエースの東尾修だった。
 9回裏、1点差を追う場面で打席に立った山本は、東尾の勝負球である外角低めに流れるスライダーを読みきって極端に大きく踏み込んだ。明らかなボール球ではあったが、真芯で捕らえて右翼席へ美しくアーチを描き、同点本塁打となった。
 山本自身、生涯最高の本塁打と自賛している。


 F歴代1位のオールスター14本塁打

 山本は、オールスターで14本もの本塁打を放っている。これは、王貞治の13本をしのいで歴代1位の記録である。
 リーグ優勝した1975年のオールスターでは第1戦で2打席連続本塁打を放ってMVPに輝いた。さらに1979年のオールスター第3戦では2回に本塁打を放った後、5−5で迎えた9回裏にサヨナラ2ラン本塁打を放って、MVPに輝く。しかし、1983年の第1戦は、2本塁打したものの、セリーグが敗れたため、惜しくもMVPは逃している。
 オールスターは、超一流投手が揃うにもかかわらず、山本の通算成績は、何と打率.316、14本塁打、27打点である。


 G腰痛と闘い、右翼打ちの名手に

 山本浩二は、法政大学時代から腰痛が持病となっていた。
 1975年にはそれがひどくなり、自らは休養を求めたが古葉監督に許されず、出場を続けた。
 そうした中で、山本は、腰にできるだけ負担をかけずに球を遠くに飛ばす打法を習得。
 これにより、これまでの豪快に引っ張るのがホームランバッターという常識をくつがえす右翼への流し打ち本塁打の名手となった。
 そして、広角打法を習得したことにより、本塁打ばかりでなく打率も上昇し、この1975年に初の首位打者を獲得。
 以後、打率を残せる広角打法のホームランバッターという新しい打者像を作り上げていくことになる。



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