数々の伝説
@関西六大学リーグで数々の記録
1969年、関西大学に入学した山口は、持ち前の剛速球で1年目から活躍を始める。プロ入団後、数々の強打者も手を焼いた剛速球を大学生が打てないのは当然のことだった。
山口の投球は、学年が上がるたびに凄みを増していった。1971年秋には同志社大学戦でノーヒットノーランを達成。1972年には歴代最多となる年間18勝を挙げている。
1971年春から1972年秋までは何と21連勝というとてつもない記録を打ち立てている。その中には6試合連続完封、68イニング連続無失点という不滅の記録がある。大学通算勝利も46勝。これも、関西六大学リーグ新記録であった。
全身をダイナミックに使って投げるフォームは、阪神で活躍する村山実を彷彿とさせたため、山口には「村山二世」という愛称が付けられた。
A新人王
ドラフト1位で阪急に入団した山口は、新人ながら前評判が高く、当初から10勝以上を期待されていた。山口は、下馬評にたがわぬ投球を見せ、203イニングを投げて先発に抑えに大活躍を見せた。細かいコントロールこそなかったものの、力で押し続ける豪快な投球でそれをカバーした。
ほとんど直球だけでパリーグの強打者を封じ込め、12勝13敗1S、防御率2.93、149奪三振という成績を残した。その活躍により、阪急は、見事に3年ぶりのリーグ優勝を果たす。
山口は、その年の新人王に選ばれた。これは、阪急にとって球団初の新人王だった。
B日本シリーズMVP
1975年にリーグ優勝を果たした阪急は、短期決戦の日本シリーズで山口をフル回転させる。1戦目から登板して3−3で引き分けると、3戦目には7−4で勝利投手となった。チームは、その勢いのまま4勝2引分けと広島を圧倒し、日本一に輝いた。
山口は6戦のうち5戦に登板して1勝2セーブ、防御率2.16と強打の広島相手に好投し、シリーズMVPに選ばれている。
セリーグでは体験したことのない重い剛速球を見せつけられた広島の選手たちは、しきりに「速すぎて球が見えない」と嘆いていたと言われている。
C160キロ近い剛速球
山口のプロ入団時の剛速球は、多くの強打者にも衝撃を与えたほど、重くて速かった。170センチという小さな体を最大限に使って投げ込む高めのストレートは「三日前から振らないと打てない」とまで形容されたという。
その剛速球の素晴らしさを物語る伝説は多く、高めの直球には球審が目をつぶっていた、日本シリーズで対戦した山本浩二のバットが球と大きく離れて空を切っていた、キャッチャーミットが破裂するような音を立てていた、投げたときに右手の親指が左足に当たってひどい突き指をした、などなど。
常時、150キロ以上の球を投げ、好調時には160キロ近い球を投げていたと言われている。山口の剛速球を目の当たりにした人々の中には「日本のプロ野球史上、最も速い球を投げていた」と断言する者は多い。
ただ、残念なことにスピードガンがプロ野球に持ち込まれたのは、1978年の広島が最初で、本格的に使われ始めたのは1979年から。このとき、山口は、既に腰を痛めて全力投球できない状況に追い込まれていた。
スピードガンがあと数年早く出ていれば……。山口は、日本で最初の160キロを投げた投手として名前を残していたかもしれないのである。
D太く短い野球人生
1978年、ヤクルトとの日本シリーズに備えて打撃練習中、山口は、腰を痛めてしまう。ピッチングをすると激痛を伴うというもので、山口は、持ち前の剛速球を投げられなくなってしまった。
1979年の成績は1勝6セーブ。腰痛は回復に向かって行ったが、左アキレス腱を痛めるなど、調子を崩し、自慢の剛速球は戻らないままだった。
山口は、軟投派として生き残ることを望まず、常に剛速球を取り戻すことに力を注いだ。しかし、その意欲とは裏腹に1979年以降、1勝、1勝、0勝と低迷が続く。
投手生命を賭けた1982年には1勝を挙げたものの、ついに剛速球は戻らず、その年限りで現役を引退した。プロで剛速球を投げたのはわずか4年だったが、人々に強烈な記憶を残した野球人生であった。
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