山田 久志 
  1948年秋田県生まれ。右投右打。投手。背番号25→17。能代高校2年から監督の勧めで3塁手から投手に転向。
 当初は、サイドスローだったが、高校卒業後、富士鉄釜石へ入社してアンダースローに転向。
 1969年にドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。一年目こそ未勝利に終わったが2年目に10勝、3年目の1971年には22勝をあげて防御率2.37で最優秀防御率のタイトルを獲得。チームもリーグ優勝を果たしている。
 4年目にも20勝をあげて最多勝を獲得し、チームも連続優勝日本を代表する投手に成長する。
 1975年からはチームがパリーグ4連覇、1976〜1978年までは3年連続でシーズンMVPという快挙を達成。
 1975〜1977年までは3年連続日本一となり、1977年の日本シリーズでは2勝、防御率1.80でMVPを獲得し、阪急の黄金時代をエースとして支えた。
 1984年にも14勝をあげてリーグ優勝に貢献。
 1988年は4勝に終わり、300勝を目前にして40歳で現役引退。
 1975年からの12年連続開幕投手とオールスター7勝は歴代1位である。
 2002年から2年間、中日の監督を務めた。
 2006年、殿堂入り。

 アンダースローから繰り出す140キロを超える直球とコントロールのいいカーブ、シンカーで「サブマリン(潜水艦)」の異名を持ち、阪急の黄金時代を作り上げた。特に投球の幅を広げるためにマスターしたシンカーは、その落差の大きさから「山田シンカー」と恐れられた。
 通算成績:284勝(歴代7位)166敗43セーブ。防御率3.18、2058奪三振。最多勝3回、最優秀防御率2回、最高勝率4回、シーズンMVP3回。ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞5回。
数々の伝説

@大エラーが運命の分かれ目

 1965年、能代高校で2年生だった山田は、既に三塁手としてレギュラーを任されていた。その年の夏、秋田県大会で能代高校は3回戦に進む。
 3回戦は接戦となり、9回裏に能代高校は同点ながら2死満塁という大ピンチを招く。相手打者の放ったゴロは三塁手山田の前に飛んだ。
 山田は、その球を捕ると一塁へ送球。それで延長戦に入るはずだった。
 しかし、山田の送球は、一塁手のはるか頭上を越えていく暴投。悪夢のサヨナラ負けだった。2年生のミスにより、3年生の甲子園への夢を潰してしまった、と山田は、責任を1人で背負い込み、野球をやめる決心をする。
 しかし、チームメイトの説得により、山田は1週間後に練習へ戻る。そんな山田に監督は、投手転向を言い渡した。
 監督は、山田の責任感の強さが投手に向いていることを見抜き、投手として育てることに決めたのである。大投手への道が開かれた瞬間だった。


A王との伝説の対決

 1971年、日本シリーズは、巨人と阪急の対戦となった。第3戦を迎えた時点で1勝1敗。
 阪急の第3戦の先発は、その年22勝を挙げていた山田久志だった。
 試合は、予想通り厳しい投手戦となり、山田が8回まで巨人打線を2安打に抑えていたこともあって、1対0で9回裏の巨人の攻撃となった。
 山田は、苦しみながらも2死1、2塁とし、あと1人というところで4番の王貞治が打席に入る。最後の最後に大きな山が訪れたのである。
 王は、カウント1−1からの3球目、山田の内角低めに入ったストレートをすくい上げる。打球は右翼席に吸い込まれていった。劇的な逆転サヨナラ3ランだった。
 山田がマウンド上にひざまずいた姿は、そのシリーズを象徴として大きく扱われた。
 これで勢いづいた巨人は、続く2試合を連勝して4勝1敗で日本一(V7)となっている。


B二日酔いで先発

 1972年6月19日、山田は、翌日の天気予報が大雨になっていることを確かめて六本木で明け方まで飲んで帰る。
 しかし、6月20日は、天気予報に反して快晴となった。
 二日酔いでふらふらになっていた山田は、あせって朝から1時間ほどランニングで酒を抜こうとする。そして、宿舎へ帰ってきたところを西本監督に目撃されている。
 ナイターの東映戦に先発したものの、二日酔いでは普段のような好投はできなかったが、何とか4点に抑えて5−4で勝ち投手となった。
 事情を知らない西本監督は、試合後のミーティングで「山田は今朝、みんなが寝ているうちに起きて走っていた。先発投手はそれくらいの気構えが欲しい」と話したといわれている。


C同じ年にシーズンMVPとシリーズMVP

 山田は、1977年に16勝10敗7セーブ、防御率2.66という活躍で阪急のリーグ優勝に大きく貢献。それが評価されてシーズンのMVPになっている。
 そして、その年の日本シリーズでは巨人を相手に2勝、防御率1.80という好成績を残し、シリーズMVPにも選ばれる。


D200勝目は悪夢

 1982年4月27日、山田は、この日までに通算199勝をあげて200勝まであと1勝に迫っていた。
 そして、その日はロッテ戦だった。
 試合は、期待に反して大味な試合となり、乱打戦が展開された。
 ロッテの主砲である落合は、この試合、山田から何と3本のホームランを放ち、レロン・リーも本塁打を放っている。
 しかし、山田は、阪急の強力打線に支えられて何とか通算200勝を達成している。 


E安定した成績

 山田は、大きな怪我をすることなく1970年から何と17年連続で二桁勝利を挙げている。
 しかも、1975年から12年連続開幕投手という日本記録(世界タイ記録)を残している。
 それでも年齢から来る衰えには勝てず、1987年にはオープン戦で打ちこまれて開幕投手の座を失い、その年は7勝に終わっている。


Fオールスター7勝0敗

 山田は1971年に初出場して第3戦で勝利投手になって以降、1972年第2戦、1974年第1戦、1977年第2戦、1978年第2戦、1979年第2戦、1987年第1戦と負けなしの7連勝を飾っている。これは2位の江夏の通算5勝を上回って歴代1位となっている。
 山田のオールスターの全成績は、14試合、7勝0敗、防御率3.13で、スター選手を相手にしても素晴らしい成績を残している。



Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system