渡辺 久信
 1965年8月、群馬県生まれ。右投右打。投手。背番号41(西武)→21(ヤクルト)。前橋工高で1年生のときに夏の甲子園に出場した。1984年、ドラフト1位で西武に入団。
 2年目に8勝8敗11セーブという好成績を残して頭角を現す。
 1986年には16勝6敗1S、防御率2.87を挙げて最多勝を獲得。178奪三振で最多奪三振のタイトルも獲得した。日本シリーズでも先発にリリーフにフル回転し、2勝を挙げる活躍で日本一に貢献した。
 1988年には15勝7敗、1990年には18勝10敗で、1年おきに最多勝を獲得する活躍ぶりを見せた。そして、1990年の巨人と対戦した日本シリーズでは第1戦で見事な完封勝利を飾り、西武が4連勝で日本一となる足がかりを作った。
 1991年にはシーズン7勝だったものの、広島との日本シリーズでは第3戦で9回を5安打完封してシリーズ男の本領を発揮した。
 西武は渡辺が全盛期だった1985年から1994年までの10年間に9度リーグ優勝を果たし、6度日本一に輝いている。
 1996年はシーズン6勝だったものの、6月にオリックス戦でノーヒットノーランを達成した。
 1997年には不振に陥って未勝利に終わり、1998年にヤクルトへ移籍したが、1勝に終わってその年限りで現役を引退した。
 引退後、台湾のプロ野球で、コーチ兼エースとして見事な復活を遂げ、3年間活躍した。
 2008年から西武の監督に就任し、1年目からチームを日本一、さらにアジア一に導いた。

 長身から長い腕をしなやかに振り下ろす本格派右腕として、躍動感溢れるピッチングで西武の黄金時代を作り上げた。伸びと切れのある速球が低めに決まり始めると、誰も手がつけられなかった。

通算成績(実働15年):125勝110敗27セーブ、防御率3.67。1609奪三振。最多勝3回(1986・1988・1990)最多奪三振1回(1986)ベストナイン1回(1986)ゴールデングラブ賞1回(1990)最優秀勝率1回(1986)

数々の伝説



 @甲子園を逃した高校最後の夏

 前橋工高では、1年生のときに夏の甲子園に出場したものの、その後は甲子園には手が届かない年月を過ごすことになった。
 そして、迎えた高校最後の夏。決勝戦まで勝ち進んだ渡辺は、連投の疲れで自慢の剛速球が走らなくなっていた。そのせいで、コントロールを乱した渡辺は、押し出しの四球で決勝点を奪われて敗れる。
 しかし、渡辺の素質を西武は見逃さなかった。その秋のドラフトで西武は、渡辺を1位指名するのである。


 A最多勝3度

 西武の黄金時代を支えたのは、清原和博・秋山幸二・デストラーデといった強力な打線や辻発彦・平野謙・伊東勤らの鉄壁な守備陣、そして渡辺・工藤公康・郭泰源らの豊富な投手陣という完璧なチーム構成だった。
 その中でも、渡辺は、投手陣の大黒柱として3度の最多勝に輝いた。1986年の16勝に続き、1988年に15勝、1990年には18勝を挙げてタイトルを獲得する。いずれの年も、西武は、リーグ優勝を遂げている。
 また、圧倒的な球威を持っていたせいで奪三振も多く、タイトル獲得は1986年の1度ながら、シーズン100奪三振以上が8回にものぼっている。防御率も、タイトルこそ獲れなかったものの、2位が3回。西武の黄金時代は、渡辺とともにあった、と言っても過言ではないだろう。


 B日本シリーズで6連勝

 1986年の広島との日本シリーズは、第1戦で引き分け、最後は3勝3敗1引き分けで第8戦までもつれ込むという名勝負となった。
 渡辺は、第4戦で負け投手となったものの、第6戦で6回1失点と好投して勝ち星を挙げると、第8戦にも好リリーフで勝ち投手となる活躍で盛り返した。西武は、この渡辺の活躍もあって引分けの後の3連敗から4連勝という離れ業で逆転日本一となる。渡辺は、ここから日本シリーズ男として連勝街道をひた走ることになる。

 中日との対戦となった1988年にはついに第1戦に先発という栄誉を受けて強竜打線を封じ込め、7回1失点で勝利投手となった。西武は、5−1で圧勝し、4勝1敗で日本一となった。

 圧巻は、1990年の日本シリーズだろう。またしても、第1戦で先発した渡辺は、巨人打線を9回3安打無失点とほぼ完璧に抑え込み、打線の方ではデストラーデの3ラン本塁打が出て5−0で圧勝した。
 その勢いのまま、西武は全試合で4点差以上をつけて破竹の4連勝を飾り、歴史に残る圧倒的日本一を達成するのである。

 1991年も第3戦で広島の北別府学との投げ合いを制して9回を5安打無失点に抑え、1−0で勝利投手となった。渡辺は、この時点でシリーズ5連勝となり、日本タイ記録を達成した。
 そして、1993年に第3戦で先発した渡辺は、7回2/3を2失点に抑え、7−2で勝ち投手となる。前人未到のシリーズ6連勝の達成だった。
 残念ながら、そのシリーズの第7戦で先発した渡辺は5回2/3を3失点で負け投手となって連勝は止まった。

 しかし、1994年には10.8を制してきた巨人を第1戦で5回1/3を3安打無失点と抑え込み、11-0というスコアで勝利投手となっている。
 渡辺は、まさに西武黄金時代のエースであり、日本シリーズに出てくるたびに好投する「日本シリーズの顔」ともいうべき存在だった。


 Cブライアントに痛恨の一発を浴びる

 1989年10月12日、この日の近鉄×西武戦は、ただの試合ではなかった。ダブルヘッダーで、しかも優勝を大きく左右する試合だったからだ。
 その1試合目は、壮絶な試合となった。西武が先制して4点をリードしたものの、近鉄もブライアントの2打席連続ホームランなどで追いつき、7回を終わった時点で5−5の同点となっていた。
 西武は、8回表から先発の郭泰源をあきらめて、既にこの年15勝を挙げていた渡辺を送り込む。先頭打者は2打席連続本塁打中のブライアント。
 渡辺は、そのブライアントに自慢の剛速球で勝負を挑んだ。が、乗りに乗っているブライアントは、渡辺の渾身のストレートを完璧なスイングでとらえる。打球は、絵に描いたようにライトスタンド上段へ。3打席連続本塁打だった。渡辺は、ショックで膝まずいたまま動けなくなった。
 そのまま6−5で勝った近鉄は、2試合目もブライアントが2戦にまたがっての4打数連続本塁打などで14−4で西武を破り、優勝をほぼ確実にした。
 そして、この年の近鉄優勝は、1985年から1994年までの10年間で唯一西武がリーグ優勝を逃した年として人々に記憶されることとなる。
「渡辺がブライアントに打たれた本塁打が優勝の行方を決めた」
 後にそう語られることになるこのシーンが渡辺自身、現役時代を通じて最も印象に残っているという。


 D延長戦のため逃したノーヒットノーラン

 1990年5月9日、日本ハム戦に先発した渡辺は、9回まで日本ハム打線をノーヒットノーランに抑えた。しかし、運悪く、味方の西武打線も沈黙。0−0のまま延長戦に入ってしまう。
 渡辺は、10回も無安打に抑えた。ところが、西武も得点が入らない。渡辺は、ついに11回1死から小川にヒットを浴びて、ノーヒットノーランは消えた。それでも、渡辺は、幸い2−0で勝利投手となった。
 だが、悲運は、悲運のまま終わらなかった。渡辺は、6年後に正真正銘のノーヒットノーランを達成して、この悲運を伝説の前兆に変えてしまうのである。


 E正真正銘のノーヒットノーラン
 
 1996年6月11日、西武球場でのオリックス戦に先発した渡辺は、打たせてとる絶妙のピッチングでオリックス打線を封じ込んだ。3回には味方打線が爆発して大量8点を奪って楽勝ムードになる。
 この日の渡辺は、適度に球が荒れていた。5四球を許したものの、渡辺は、最後まで崩れなかった。奪三振こそ3個だけだったものの9−0で完封勝利を挙げ、1本のヒットさえ許さなかった。6年前に達成できなかった夢をあっさり達成してしまったのである。
 パリーグ史上25人目のノーヒットノーランだった。


 F台湾で復活

 1998年にヤクルトを退団した渡辺は、元チームメイトの郭泰源に招かれて、台湾プロ野球チーム「年代勇士」のコーチとして海を渡る。そこで渡辺は、監督から現役続行を勧められて、試合で投げることを決意する。1999年の渡辺は、台湾プロ野球のコーチ兼任投手となった。
 渡辺は、その台湾でよみがえる。登板するたびに好投を続け、いつしかエース級にまでのし上がっていた。そしてシーズン成績は、何と18勝7敗、防御率2.34。最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得し、201奪三振は、最多奪三振であるとともに台湾新記録だった。
 渡辺は、圧倒的な支持を受けて、その年のシーズンMVPに選ばれる。渡辺は、翌年も15勝を挙げ、3年目は2勝に終わって台湾プロ野球で引退し、日本に戻っている。
 台湾での3年間の通算成績は、35勝22敗4セーブ、防御率2.62である。


 G西武で監督1年目に日本一

 渡辺は、台湾で選手兼任コーチを経て2004年からは西武の2軍コーチ、2005年からは2軍監督となり、2008年にはついに西武の1軍監督に就任する。
 デーブ大久保をコーチとして招き、失敗を恐れない思い切った打撃・走塁で中村剛也、片岡易之、中島裕之らの能力を発揮させた。また、涌井秀章、岸孝之、帆足和幸、グラマンらの投手陣も安定した投球を見せ、76勝64敗4分でパリーグ優勝を手にした。
 さらに、クライマックスシリーズではオリックス、日本ハムを撃破し、日本シリーズでも巨人に2勝3敗から2連勝して日本一に輝き、完全優勝を果たした。その後、アジアシリーズでも台湾の統一ライオンズを破ってアジア一に輝き、前年パリーグ5位から一気にアジア一にまで押し上げた。
 渡辺は、西武の若い打撃陣や投手陣を一気に成長させてアジア一に登り詰めた功績を認められ、正力松太郎賞を受賞した。
 



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