若林 忠志
 1908年3月、アメリカ生まれ。右投右打。投手。背番号18・30・1(阪神)→33(毎日)。マッキンレー高校時代に捕手から投手に転向して、社会人野球のハワイ朝日軍のメンバーとしても活躍する。1928年にハワイ大和軍のメンバーに選ばれて親善野球のために来日して好投。その素質に目をつけた法政大学の計らいで横浜の本牧中に入り、法政大学へ進学。法政大学ではチームを3度のリーグ優勝に導いた。卒業後、川崎コロンビアに進み、1936年、結成直後の阪神に入団した。
 1936年のプロ野球創設当初からエースとして投げ、年間10勝を挙げる活躍を見せる。翌年には年間17勝を記録する。1937年秋から1938年にかけて右肩を痛めたが、1939年には完全復活を遂げる。48試合に登板し、28勝7敗、防御率1.09という成績を残して最優秀防御率と最優秀勝率に輝いたのである。
 その後、1942年にも26勝12敗、防御率1.60を残している。この頃になると、第二次世界大戦は激化してきたが、若林は、1943年も奮闘して24勝を挙げる。
 そして、1944年には22勝4敗、防御率1.56で最多勝と2度目の最優秀防御率、最優秀勝率に輝く。この年、阪神は27勝6敗2分で優勝し、若林はシーズンMVPを獲得する。
 戦後、再び阪神に戻り、1947年には26勝12敗で2度目のシーズンMVPに選出されている。11月にはプロ通算200勝を達成した。
 1949年にも15勝を挙げたものの、2リーグに分立した1950年には毎日へ移籍し、4勝に終わった。しかし、毎日はパリーグで優勝を果たし、若林は、この年に初めて開催となった日本シリーズで好投してシリーズ白星第一号となった。
 1953年限りで現役を引退。
 1964年、殿堂入り。
 
 七色の変化球を駆使する技巧派投手として打たせてとるピッチングで凡打の山を築き、プロ野球草創期の阪神と毎日の優勝に貢献した。

 通算成績(実働16年):237勝144敗、防御率1.99 最優秀防御率2回(1939・1944)最優秀勝率2回(1939・1944)最多勝1回(1944)シーズンMVP2回(1944・1947)
数々の伝説

 @高額契約金第一号

 大日本東京野球倶楽部(巨人)に遅れること1年、1935年12月10日に大阪野球倶楽部(阪神)が発足する。
 既に巨人は、六大学野球の有望選手を多数獲得し、沢村栄治や中島治康といった卓越した実力を持つ選手を中心に強力なチームとなっていた。
 そんな中で阪神は、発足当初から巨人に対抗できるチーム作りを念頭に置くこととなる。まず阪神が必要としたのはチームのエースとなれる好投手だった。そこで阪神が目をつけたのが法政大学でリーグ戦3度の優勝に導くなど、大エースとして活躍を見せた若林である。
 ところが、若林は、プロ入りの条件として当時としては破格の契約金1万円を要求する。どうしても若林を獲得したかった阪神は、阪急との争奪戦の末、契約金1万円で契約に成功する。
 鳴り物入りで入団した若林は、その期待にたがわぬ活躍を見せて阪神の大エースとなっていくのである。


 A七色の変化球

 ハワイ出身の若林は、当時の日本では見られなかった多彩な変化球を駆使した。ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックルを絶妙に使い分けて、打たせてとるピッチングを展開した。このうちシンカーとナックルは、当時の日本ではまだ誰も投げておらず、日本のプロ野球で初めて投げたのが若林だったという。
 若林は、沢村のような剛速球と大きなカーブで押すタイプとは異なり、200勝以上挙げたにもかかわらず、奪三振は1000と少ない。だが、頭脳的な投球術で打者を翻弄し、防御率1点台のシーズンが7回と抜群の安定感を誇った。


 B家族に内緒でプロ野球復帰

 1945年8月、第二次世界大戦は、終わりを告げる。プロ野球も、1946年には復活した。
 若林は、戦後、妻の実家がある宮城県石巻で水産会社を経営して生計を立てていた。野球は、石巻日和クラブというチームでやっていたようだ。しかし、若林は、どうしてもプロ野球選手をあきらめることができなかった。
 1946年秋のある日、若林は、野球界復帰に反対していた夫人に何も告げず、ひそかに宮城県から東京の後楽園に出向いた。迎え入れてくれた阪神に、若林は、復帰を決意し、その年、4勝を挙げて復活を遂げた。


 C先発した39試合を全て完投

 1943年の若林は、52試合に登板しているが、そのうち先発が39試合だった。若林は、その39試合すべてに完投し、23勝11敗5分を記録する。リリーフで登板した試合を間に挟んでいるため、連続試合完投ではないが、先発した試合すべてに完投しながら防御率は1.06という驚異的な好成績だった。
 当時、日本は、第二次世界大戦が激化して戦線が拡大しており、国民総動員体制に入ろうとしていた。その影響で、日本兵は降伏せずに最後まで戦い抜く、という指令が、そのまま野球にも適用され、投手は降板せずに最後まで投げ切ることが美徳とされた。若林が残した1943年の39完投、1944年の24完投という2年連続シーズン最多完投は、時代が生んだ記録だった。
 1947年にも31完投を記録した若林は、現役通算263完投という歴代7位の記録を残した。


 D戦前と戦後にMVP

 戦争が激化していた1944年、若林は、阪神の監督兼任選手として獅子奮迅の活躍を見せる。試合数は制限され、わずかに35試合行われたのみだったが、若林はそのうち31試合に登板し、22勝4敗、防御率1.56という驚異的な成績を残した。14試合連続登板という記録も樹立した。
 阪神は、27勝6敗で2位の巨人に大差をつけて優勝を果たす。チーム勝利数の8割以上を1人で稼いだ若林は、当然のようにシーズンMVPを獲得した。
 そして、戦後の1947年、若林は、またしても監督兼任選手として26勝12敗、防御率2.09の好成績を残して阪神(当時のチーム名は「大阪」)の優勝に貢献する。26勝のうち10試合が完封勝利だった。
 戦前と戦後の両方でシーズンMVPを獲得した選手は、川上哲治と若林の2人だけしかいない。


 E日本シリーズの白星第一号

 プロ野球は1950年にセ・パの2リーグ制になった。初めて開かれることになった日本シリーズは毎日×松竹となった。
 その第1戦に若林は先発した。どうしても投げたかった若林は、約1ヶ月前から監督に第1戦の先発を直訴したのだという。
 若林は、松竹打線を9回まで1失点に抑えたものの、松竹の先発大島も同じく1失点の好投を見せたため、試合は延長戦に入った。
 毎日は、延長12回に2点を勝ち越し、若林は裏の反撃を1点に抑えて3−2で勝った。
 若林は、記念すべき第一回日本シリーズで最初の白星を挙げた。毎日は、4勝2敗で初代日本一に輝いている。


 F2リーグ分立時代とともに毎日へ移籍

 阪神で大エースとして通算200勝以上を稼ぎ、名実ともに看板選手であり、監督兼任でもあった若林だが、1949年オフに2リーグ制への分立が決まり、急展開を迎える。
 1950年に入って、毎日が若林を引き抜きに来たのである。若林は、毎日への移籍を決め、それがきっかけになって別当薫、呉昌征、土井垣武らの主力選手までもあとに続いた。のちに毎日事件と呼ばれる騒動である。
 この移籍の裏には、人気を二分する阪神の看板選手藤村富美男との確執があったという説もあるが、結果的に若林らの阪神選手が毎日に移籍して、毎日は最強チームとなった。1950年のパリーグを制した毎日は、日本シリーズでも松竹を破って日本一の座につき、2リーグ制の成功を確固としたものにしたのである。


 Gファンクラブと虎のマーク

 若林は、阪神でエースとして活躍しながら監督としても結果を残した。だが、若林の功績は、それだけではない。現在でいうファンクラブの組織「タイガース子供の会」をプロ野球で初めて発案し、それを実行に移したのである。若林は、球団の広報誌さえも自ら作成と配布に携わった。
 さらに、現在でも使われている虎のマークは、若林が母校マッキンレー高校の校章を元に案を作成して球団へ持ち込み、球団が採用に踏み切ったのだという。
 こうした野球界への数々の尽力が1964年に野球殿堂入りという形で結実するのである。


 H28歳でプロ入りし44歳で引退

 若林は、1908年3月生まれである。そのため、日本のプロ野球が開始された1936年には既に28歳になっていた。
 そのため、若林の勝利のほとんどは、30代に挙げたものである。それでも全盛後半の1945年は試合がなく、シーズン途中に復帰した1946年も実働に入れるのはためらわれるほどだ。つまり、一番活躍できたはずの2年間を棒に振ったことになる。
 そして、2回目のシーズンMVPを獲得した1947年は、実に39歳という高齢だった。さらに驚くべきことに41歳の1949年にシーズン15勝を挙げている。
 若林が引退したのは、44歳になっていた1953年。この事実を見るにつけ、あと10年早くプロ野球が創設されていれば、もし第二次世界大戦がなければ、という想像をしたくなる。その2つが実現していれば、金田正一級のとてつもない通算記録が生まれていたにちがいないからである。





(2005年7月作成)

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