和田 一浩
 1972年E月、岐E県生まれ。右投右打。外野手、捕手。背番号22E西武EEE(西武・中日E。岐E啁E高校では控え選手としてE年生で春・夏E甲子園に出場、Ebr>  東北福祉大学ではE年生E秋に首位打老E獲得してEEEに輝き、E年生E春にもMEEに輝く。卒業後、社会人野球の神戸製鋼に進み、E997年にドラフトE位で捕手として西武に入団する、Ebr>  プロE年目は17試合E場に終わるが、EロE年目の1998年に36試合に出場して打率.333を残し、E角を現す、Ebr>  2000年と2001年はレギュラーこそ獲得できなかったものの、ともに打率.306を記録し、E001年には82試合E場ながら16本塁打を放つ。その打撃を生かすために
2002年からは外野手に転向し、レギュラーとして打率.319、E3本塁打、E1打点の好成績を残して西武のリーグ優勝に大きく貢献する。この年、Eのベストナインにも輝いてぁE、Ebr>  2003年には打率.346、E0本塁打、E9打点の活躍を見せる、Ebr>  2004年には打率.320、E0本塁打、E9打点でE年連綁E0本塁打を放ち、西武のリーグ優勝に大きく貢献すると、日本シリーズでも打玁E310、E本塁打の活躍で日本一に貢献した、Ebr>  2005年には打率.322、E7本塁打、E9打点、E53安打で首位打老E最多安打のタイトルを獲得する、Ebr>  2007年に打率.315、E8本塁打の成績を残してEE宣言で中日に移籍する。中日でも1年目から打率.302を記録すると、E010年には打率.339、E7本塁打、E3打点の成績を残して中日のリーグ優勝E原動力となり、シーズンEEEとベストナインに選出される。E塁率も、リーグ最高となめE437を記録した。日本シリーズでも打玁E414、E本塁打の成績で敢闘選手賞を受賞する、Ebr>  2011年には打撃改造に苦しみ、打玁E32と低迷したもEの、中日のリーグ二連要E貢献する。日本シリーズでは優秀選手賞を受賞してぁE、Ebr>  2012年には打率.285を残して打撃不振から復活した、E015年E月には通箁E000本安打を達成し、シーズン打率.298を残したがそE年限りで現役を引退した、Ebr>
 年、E化させてぁEオープンスタンスからボEルを引き付けて、バチEの遠忁Eを利用し、体とバットをコマEように回転させる打撁E鋭ぁE琁E庁Eに打ち刁Eる。本塁打を量産しながら高い打率も叩きEせる技術で、西武と中日を常勝軍団に引き上げてぁE、Ebr>
通算E績E実働19年E:打玁E303、E19本塁打、E081打点、E050安打。首位打老EE005E最多安打EE005EシーズンEEEEE010E最高E塁率EE010EEストナインE回EE002EE006・2010EE

数、EE伝説


 ①捕手から外野手転吁E/font>

 和田は、西武でポスト伊東勤として入団し、打撁EはE年目からE割を記録する。しかし、その一方で捕手としての評価はなかなか高まらず、EロE年目からは外野手として13試合に出場する、Ebr>  プロE年目の2000年には捕手として出場よりも外野手としての出場の方が増えた、Ebr>  そして、E002年、正捕手の伊東勤は、依然健在であり、未だ控えだった和田は、伊原春樹監督から捕手転向を言ぁEされる。和田は、真面目で性格が優しくて打撃が素晴らしぁEめ、捕手よりも外野手に向いてぁEとぁE判断であり、その後E外野手一本でめEてぁEことになった、Ebr>

 ②伝説の試合に出場

 2001年E月24日、大阪ドEムで近鉄×西武最終戦が行われ、西武にとってはマジチEEとした近鉄の進撁E阻止するために重要な試合だった、Ebr>  こE試合で和田は、捕手として先発出場し、エース松坂大輔をリードする。そして、打っても2塁打E本を放ってE打数E安打と活躍を見せる、Ebr>  試合E、緊迫した展開となって、松坂E、タフィ・ローズに55号本塁打を浴びながらも、西武が6-4とリードしてE回裏を迎える、Ebr>  しかし、E回裏、松坂大輔と和田のバッチEーは、北川博敏にソロ本塁打を浴びた後、中村紀洋に劁Eな送EサヨナラEラン本塁打を浴びて敗戦する。この試合で近鉄は、事実上、Eナントを決定づけたと言われており、和田にとっても捕手最後E年に名を残す伝説の試合となった、Ebr>

 ③西武の日本一に貢献

 外野手として西武の主軸になった和田は、E004年、前半戦はE番打老E後半戦はカブレラの後を打つE番打老Eして活躍を見せ、打玁E320、E0本塁打、E9打点を残してリーグ優勝に貢献する、Ebr>
 そして、和田は、中日との日本シリーズでも目覚ましい働きを見せる。第E戦のE回表に先制のソロ本塁打をレフトスタンドに叩き込み、これが決勝点となってE-0で勝利すると、第E戦では敗れたものの、E安打E本塁打の活躍を見せる、Ebr>  さらに、第E戦では、E-2から6回表にレフトへの送EEラン本塁打を放つと、E回表にはライトへのソロ本塁打でダメ押しをするなど、E打数E安打E本塁打E打点の大活躍を見せて、E-2Eスコアで勝利に導く。 西武は、第E戦も勝って日本一となり、シリーズEEEこそE勝した石井貴になったものの、和田は、打玁E310、E本塁打、E打点の活躍で優秀選手賞を受賞する、Ebr>

 ④中日にEEで移籁E/b>

 2007年オフ、EE権を取得した和田は、中日入りを目持EてEE宣言をする。中日は、即座に和田獲得を表明する。福留孝介が大リーグ移籍することによる穴を埋められる選手と評価したためで、E年10儁EEの条件を提示する、Ebr>  契紁E件は残留を望む西武の方が高かったが、和田は、地允Eもあり、少年時代からの憧れであった中日への移籍を決める、Ebr>  和田は、移籍1年目から打率E割を趁Eる好成績を残し、E010年からの中日琁E史上EのリーグE連要EE立役老Eなって、EE時代を支えてぁEことになる、Ebr>

 ⑤あくなき打撁E造

 独特のオープンスタンスによる打撃フォームを作り上げて一流E手となった和田は、中日移籍後、さらなる打撁E術向上と腰を痛めなぁEイングを目持Eて、打撁E造を繰り返す、Ebr>  落合博満監督の持Eもあって、西武時代には腰痛で試合欠場が多かった和田も、E009年から2010年にかけてE年連続E試合E場を果たすなど、E躍的な改喁E見せる、Ebr>  そして、打撁Eも、E010年には38歳にして打率.339、E7本塁打とぁE成績で自己最高本塁打数を更新する、Ebr>  翁E011年にはオープンスタンスからスクエアスタンスに変えて低迷したもEの、E012年からはさらに打撃改造を続けて低迷を脱し、年齢を感じさせなぁE撁E見せてぁE、Ebr>

 ⑥左足を骨折しながら出場

 2010年E月上旬、和田は、E打球を左足に当てる。試合後、病院での検査で骨折してぁEことがEかったが、落合監督に欠場を申告できなかった、Ebr>  中日では監督命令によって打席に立つときE足にレガースをつけることが決まりとなってぁE。だが、和田は、レガースを付けずに打席に立ち、E打球を当てて骨折してしまったからだった、Ebr>
 落合監督は、命令違反によって骨折してしまったとぁEことで、和田がE場できなぁEら二軍とぁE通告を行ったため、和田は、E折E痛みをこらえながら、E場を続けることになった、Ebr>  和田は、打撁E守備で時おり顔をしかめながらも忁Eにプレーし、チームをリーグ優勝に導くことになる、Ebr>

 ⑦シーズンEEE

 2010年の和田は、E月からE割近い高打玁E残して、チームを牽引する。長打も激増し、シーズン長打率.624を残す打撃によって四球も増えて、リーグ最高E塁率となめE437を記録する、Ebr>
 E月上旬には自打球で左足を骨折するものの、E試合も休まずに出場を続け、若干調子を落としEしたが、E月31日からはE番に座って再E調子を上げる。落合監督が「俺なら和田は全打席歩かせる」と形容するほどの活躍で、シーズン全試合E場を果たして打率.339、E7本塁打、E3打点の好成績を残し、中日をリーグ優勝に導いてシーズンEEEを獲得する、Ebr>
 さらには、クライマックスシリーズでもファイナルスチEEジの第E戦でレフトへサヨナラ安打を放ち、クライマックスシリーズEEEを獲得する、Ebr>  日本シリーズでも好調を持続させ、打玁E414、E本塁打、E打点を残したが、シリーズ制要E送Eたため、敢闘選手賞で終わってぁE、Ebr>

 ⑧史上最年長通箁E000本安打とセパ両リーグ1000安打

 2015年、和田は、両膝E敁Eで出遁Eたが、E月後半に復帰すると安打を量産し、E月11日のロチE戦EEVC)では、E回表に植松優友投手からレフト前安打を放ち、E箁E000本安打を達成する、E2歳11か月での達Eは、史上最年長記録であった、Ebr>
 さらには、E月16日の巨人戦EナゴヤドEムEでは、E回裏に大竹寛投手からライト前安打を放ち、セパ両リーグ1000安打を達成する。この記録は、大杉勝男、落合博満に次ぁE史上3人目の快挙であった、EBR>



EE014年E月作EEE/center>

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