牛島 和彦
 1961年4月、奈良県生まれ。右投右打。投手。背番号17(中日)→27(ロッテ)。浪商高校で1978年春、1979年春夏の甲子園に出場し、1979年春には準優勝に輝く。ドラフト1位で1980年に中日へ入団。
 1年目に9試合に登板してプロ初勝利を挙げると、2年目には51試合に登板して2勝ながら防御率2.77を残して頭角を現す。
 3年目の1982年にはストッパーとして7勝4敗17セーブ、24SP、防御率1.40という好成績を残して球界を代表するストッパーに成長する。この年、中日は見事に8年ぶりのリーグ優勝を果たし、牛島はその原動力となった。
 1983年に10勝8敗14SPで初の2桁勝利を記録すると、翌1984年には3勝6敗29セーブ、32SPでセーブ王に輝いた。
 1986年にも3勝5敗16セーブ、19SPという好成績を残していたが、その年のシーズンオフに落合博満との世紀のトレードでロッテに移籍する。
 ロッテでは守護神としての活躍にさらに磨きがかかり、1987年は2勝4敗24セーブ、26SP、防御率1.29という好成績で最優秀救援投手のタイトルを手にするとともに2度目のセーブ王にも輝いた。
 1988年には1勝6敗25セーブ、26SPで3度目のセーブ王を記録する。
 翌1989年には先発投手に転向し、12勝5敗、防御率3.63の成績を残して役割を充分に果たした。しかし、その年のシーズン終了前に右肩を痛め、2年間のリハビリ生活を送ることになる。
 1992年4月、オリックス戦で先発完投し、924日ぶりの白星を手にする。
 1993年、右肩痛の影響でシーズン2勝に終わり、その年限りで現役を引退。
 2005年から横浜の監督として指揮を執る。

 高校時代から話題になった好投手で、切れのいい直球と鋭いフォークボールを武器にして頭脳的な配球で打者を牛耳り、セ・パ両リーグでセーブ王に輝いた。

 通算成績(実働14年):53勝64敗126セーブ、154SP、防御率3.26。最優秀救援投手1回(1987)セーブ王3回(1984・1987〜1988)
数々の伝説

 @ドカベン香川とともに甲子園のヒーロー

 牛島は、浪商時代の1978年春、1979年春夏に甲子園へ出場している。バッテリーを組んでいたのは香川伸行。香川は、漫画「ドカベン」に出てくる山田太郎と風貌がそっくりだったことから、一躍人気者となった。牛島も、香川に負けず劣らず、女子中高生に絶大な人気を誇った。
 香川も、牛島も、実力は超高校級で、甲子園に旋風を巻き起こした。1979年春には初戦の愛知戦を6−1で破ると、高知商に3−2、川之江に4−3、東洋大姫路に5−3と、強豪校を次々に接戦で破って決勝に進んだ。決勝の箕島高校戦も接戦となる。しかし、牛島は、連戦の疲れから箕島打線につかまって逆転を許し、7−8で敗れて準優勝に終わった。
 夏の甲子園でも浪商は、上尾を3−2、倉敷商を4−0、広島商を9−1、比叡山を10−0で破り、準決勝に進む。初戦の上尾高校戦で牛島は、起死回生の同点本塁打を放ち、香川は、倉敷商戦から比叡山戦まで3試合連続本塁打を放った。準決勝では強打の池田高校打線を相手に牛島は2点に抑えたものの、味方打線が沈黙し、0−2で敗れている。
 甲子園での活躍により、プロからも高い評価を得た2人は、牛島が中日からドラフト1位、香川が南海からドラフト2位という指名を受けて入団する。


 Aドカベン香川とともにプロで活躍

 プロで最初に頭角を現したのは香川だった。香川は、1年目から50試合に出場し、プロ初打席本塁打を放つなど、打率.282、8本塁打という活躍を見せた。
 一方、牛島は、2勝にとどまり、香川がプロ生活では一歩リードする形となった。
 しかし、3年目の1982年には牛島は7勝4敗17セーブ24SPで一躍、中日の守護神として脚光を浴び、球界を代表するストッパーとしての地位を築き始める。香川は、打率.240、8本塁打というぱっとしない成績だった。
 それでも4年目の1983年には2人そろって活躍を見せる。牛島が10勝14SPを残せば、香川が打率.313、15本塁打の好成績を残してベストナインに選ばれたのだ。
 その後、香川は、1986年から1987年にかけて2年連続2桁本塁打を記録するなど、捕手としてはまずまずの成績を残した。牛島も、3度のセーブ王に輝くなど、投手として超一流の成績を残した。
 プロ生活では牛島の方が圧倒的に素晴らしい成績を残してはいるが、香川も、メディアの露出度と人気では牛島をしのぐほどで、ともにプロ野球界に大きな足跡を残したのである。


 B仁村徹との縁

 1979年の夏の甲子園で対戦した上尾高校のエースは、好投手仁村徹だった。浪商打線は、仁村に抑え込まれ、8回まで0行進が続いた。
 牛島は、上尾高校打線を2失点に抑えてはいたが、仁村の好投の前になすすべなく敗色濃厚だった。
 しかし、9回、浪商は、香川が安打を放ち、牛島に打席が回る。牛島は、勝利目前の仁村のカーブを叩き、大飛球がレフトポール際へ飛んだ。打球はそのままスタンドまで届き、起死回生の同点本塁打となった。勢いに乗った浪商は、延長戦の末、上尾高校を破る。
 仁村は、東洋大学を卒業後、1984年にドラフト2位で中日に入団して牛島と再会する。その頃、牛島は、既に中日でリリーフエースの地位を築いていた。
 仁村は、1984年10月の阪神戦に中継ぎでプロ初登板を果たし、初勝利を挙げる。その試合の最後を締めたのが牛島だった。仁村は、投手としてはその1勝しかできず、打者に転向して1988年には規定打席未満ながら3割以上を記録して優勝に貢献するなど、渋い活躍を見せる。
 そして、牛島も、仁村も、中日で活躍した後、ロッテへ移籍し、ロッテで選手人生を終えている。


 C中日リーグ優勝の立役者

 1982年、牛島は、球威に衰えが見え始めた鈴木孝政に代わってストッパーの座に就いた。ここぞという場面で完璧な投球を見せる牛島の才能に近藤貞雄監督が目をつけたのである。
 この年、中日は、熾烈な優勝争いに加わる。巨人、中日のどちらが優勝してもおかしくないという混戦だった。牛島は、守護神として投げまくり、53試合に登板して防御率1.40とほぼ完璧なまでに相手チーム打線を抑え込んだ。
 セリーグの混戦はシーズン最後まで続き、9月終了時点では巨人が首位に立っていたが、中日は、その後、追い上げてシーズン最終戦となった10月18日の大洋戦に勝ってようやく優勝を決める。中日の最終成績は、64勝47敗19引分け。2位の巨人が66勝50敗14引分け、3位の阪神が65勝57敗8引分けと2位・3位のチームの方が勝利数は多いという珍現象だった。優勝は勝率で決まるため、引分けの数がものを言って中日は優勝を手にしたわけだが、その原動力はその年シーズン11引分けを記録した牛島のリリーフだった。牛島は、シーズン成績こそ7勝4敗17セーブだが、引分けで投げ終えた11試合やタイスコアのまま次の投手につないだその他の試合の付加価値を見出せば、リーグ優勝最大の立役者と言っても過言ではないだろう。


 D世紀のトレード

 1986年12月23日、その年の三冠王とチームのリリーフエースがトレードされる、という前代未聞の発表があった。ロッテの落合博満内野手と中日の牛島和彦投手・上川誠二内野手・平沼定晴投手・桑田茂投手を1対4で交換という「世紀のトレード」である。
 これは、当初、ロッテの交渉相手だった巨人が原辰徳、中畑清を出し惜しんで、交渉がまとまらないのに目をつけた中日の新監督星野仙一がリリーフエース牛島と正二塁手上川を放出してまで落合獲得に動いたのである。
 牛島は、この決定に強い衝撃を受け、2日間にわたって口を閉ざした。相思相愛で入団した中日から突然の放出通告は、あまりにも酷ではあった。しかし、星野監督らの懸命の説得により、牛島は、ロッテのリリーフエースとして働く決意をする。
 そうしてロッテに移籍した牛島の1987年のピッチングは、文句のつけようがないものだった。2勝4敗24セーブ、26セーブポイント、防御率1.29で最多セーブ、最優秀救援投手に輝いたのである。
 一方、1987年の落合博満は、セリーグへの適応に苦しみ、無冠に終わっている。

 
 E伝家の宝刀フォークボール

 牛島は、高校時代から落ち着き払ったマウンドさばきと、監督からの伝令さえ追い返す度胸を持ち、好投手としての素質を備えていた。
 それに加えて、牛島をプロで成功に導いたのが、フォークボールだった。現在では抑え投手の必須条件とも言えるフォークボールだが、当時はフォークボールを自在に操れる投手はほとんどいなかった。
 ストライクゾーンの出し入れが巧く、頭脳的な投球が持ち味の牛島にとって、落差の大きいフォークボールは鬼に金棒だった。牛島は、投球カウントをフルに使った配球で、フォークボールを時には見せ球として、時には最後のウィニングショットとして、というピッチングで抜群の安定感を見せた。
 当然、奪三振も多く、優勝した1982年には77回2/3で75奪三振、最優秀救援投手に輝いた1987年には55回1/3で59奪三振と、ほぼ1イニングに1個の割合で三振を奪っている。


 Fセ・パ両リーグでセーブ王

 1984年、牛島は、3勝6敗29セーブの好成績を残し、セリーグの最多セーブを記録した。しかし、24セーブながら10勝を挙げた阪神の山本和行が34セーブポイントを残したため、最優秀救援投手は逃している。
 牛島は、ロッテに移籍した1987年に2勝4敗24セーブでパリーグの最多セーブを記録するとともに26セーブポイントで最優秀救援投手にも輝く。牛島は、1988年にも25セーブを挙げて2年連続セーブ王となった。
 セパ両リーグでのセーブ王は、あの江夏豊以来、史上2人目の快挙だった。


 G完投で復活

 牛島は1989年のシーズン終了前に右肩を痛めて以降、激しい右肩痛に悩まされ、2年間、勝利から見放される。一時は全くボールを投げられない状態であったという。そこから懸命のリハビリにより、徐々に状態は回復の兆しを見せる。
 1992年4月、ようやく球威が戻った牛島は、マウンドで躍動する。4月7日のオリックス戦に先発した牛島は、全盛期の投球が蘇り、9回を10奪三振126球という好投で924日ぶりの白星を手にしたのだ。その年は、右肩の様子を見ながら3勝、防御率2.67という成績を残す。
 しかし、翌年、右肩痛の悪化に悩まされ、その年限りで現役を引退することになった。


 H横浜の監督に就任

 引退後、野球解説者として活躍していた牛島だが、2005年から横浜ベイスターズの監督を務めることになった。3年連続最下位に沈み、先発投手の勝ち頭が7勝で2桁勝利投手ゼロという惨状から脱却するため、投手陣の立て直しを託されたのである。
 現役時代に頭脳的な投球を見せて抑えでも先発でも活躍し、引退後は的を射た理論的な解説で人気のある牛島だけに投手陣育成の手腕に期待が高まっている。
 また、テレビ番組で共演した「とんねるず」の石橋貴明をエクゼクティブ・アドバイザー(EA)に招くという新しい試みにより、人気面の立て直し体制も万全である。





(2005年3月作成)

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