宇野 勝
 1958年5月、千葉県生まれ。遊撃手。右投右打。背番号43・7(中日)→2・49(ロッテ)。銚子商業高校で1976年に夏の甲子園に出場し、4回戦で敗退。1977年ドラフト3位で中日に入団。1979年に12本塁打を放ってレギュラーの座をつかみ、25失策で初の失策王に輝く。
 1981年には25本塁打を放って球界を代表するスラッガーに成長するとともに、伝説のヘディング事件を起こし、全国区のスターとなった。
 1982年には自己初の30本塁打を放つとともに、26失策で4年連続の失策王に輝いている。チームのリーグ優勝に大きく貢献したことは言うまでもない。
 1984年には8月に15本塁打を量産し、最後に掛布との壮絶な10連続四球の応酬の末、37本塁打で本塁打王を獲得する。好調だった8月には2日から14日まで10試合連続打点を記録している。
 1985年には遊撃手として史上最高となるシーズン41本塁打を記録するもののバースの54本塁打に敗れて2位に終わった。
 1988年は、落合博満との強力なクリーンアップで打率.277、18本塁打を残してチームのリーグ優勝に貢献し、7度目の失策王に輝いた。1989年には打率.304、25本塁打で初の3割台を記録した。
 11本塁打に終わった1992年のオフにロッテに移籍。
 1994年限りで現役を引退した。

 豪快なスイングで特大の本塁打を量産してそれまでの遊撃手のイメージを大きく覆す一方、スケールは大きいが失策の多い守備で観客を沸かせた。ヘディング事件やユニフォーム忘れ事件など、愛敬あるキャラクターで「ウーやん」と呼ばれ、全国的な人気を誇った。
 
 通算成績(実働18年):打率.262、338本塁打、936打点。1620安打。1306三振。270失策。本塁打王1回(1984)ベストナイン3回(1982・1984・1987)


数々の伝説


 @世紀の珍プレー

 1981年8月26日、後楽園球場での巨人戦の先発はエースの星野仙一だった。巨人は、前年から159試合に渡って連続得点を記録している。1年以上に渡って完封負けがない、という恐るべき強力打線である。
 星野は、意気込んでいた。自らがその記録を止めてみせる、と。
 星野は、初回から気迫みなぎる投球で好投し、6回まで巨人打線を2安打無失点に抑える。完封ペースである。
 しかし、7回裏2死1塁から事件は起きる。
 巨人の山本功児が星野から放った打球は、ショート後方に上がった平凡なフライになった。このとき、星野は、3アウトを確信してベンチに戻りかけている。
 しかし、ショートを守っていた宇野勝は、おぼつかない足どりで後退していた。そして、何とか捕球態勢に入ったものの、あろうことか打球をおでこに当ててしまう。宇野のおでこで跳ねた白球は、小さな放物線を描いて、カバーに来ていたレフト大島康徳の上を抜けていった。
 ボールがすさまじい勢いで左翼ポール際まで転々とする間に、1塁走者は悠々ホームイン。
 巨人の連続得点記録阻止がならなかった星野は、ホームベース付近でグラブを叩き付けて怒りをあらわにした。打者の山本は、走りに走って本塁を狙ったが、本塁でアウトになった。
 試合は、星野が9回を3安打1失点に抑え、2−1で勝った。1失点は、宇野のエラーのせいであり、自責点はゼロ。もし宇野のヘディング事件がなければ、星野が巨人の連続試合得点阻止という記録を作っていたことは間違いない。その記録は結局、同じ中日の小松辰雄が175試合で止めるまで続くことになった。
 宇野のヘディング事件は、その後、テレビ番組でプロ野球珍プレー大賞に選ばれ、珍プレーの面白さを日本中に広めることとなった。宇野のヘディングと星野の巨人連続得点記録阻止失敗のインパクトは、今や伝説となり、20世紀最大の珍プレーとまで呼ばれるまでになっている。


 A通算7度の失策王

 宇野の失策は、あのヘディング事件に限らず、当時の野球ファンの間でも有名であった。それでも、レギュラーを奪い取ったパンチ力は並外れており、遊撃手ながら少々の失策には目をつぶられることになる。そして、毎年コンスタントに失策を重ね、通算失策数は実に270。これは、近年のプロ野球選手としては圧倒的な失策数である。
 1979年に失策27で初の失策王に輝くと、その年から4年連続失策王。1年置いて2年連続失策王を獲得するなど、通算7度の失策王に輝いている。毎年オフに行われる珍プレー・好プレーのテレビ番組では、宇野の失策の特集が組まれるほどであった。
 簡単なゴロをトンネルしたり、はじいたりすることが多く、そのせいでショートだけでなく、セカンドやサード、さらには外野にまで回されたこともあった。
 ちなみに三振王も通算2度獲得している。


 Bユニフォーム忘れ事件

 1982年4月24日に横浜球場で行われた大洋戦を前にした宇野は、着替えをしていてユニフォームの上着だけがないことに気づいた。宇野は、ユニフォームをナゴヤ球場のロッカーに置き忘れてきていたのだ。7番のユニフォームを持っている者は他に誰もいない。そこで近藤貞雄監督が仕方なく審判団に飯田幸夫コーチの77番を着けることで話を持ちかけ、さらに大洋の関根潤三監督の許可を得て試合に出られることになった。
 その試合で宇野の第1打席は2回2死1塁という場面で回ってきた。77番のユニフォームで打席に立った宇野は、相手チームや観客から激しい野次を受ける。普通なら穴に入りたくなるような状況なのに、宇野がそしらぬ顔で放った打球はレフトスタンドに突き刺さっていた。投げた門田富昭投手だけでなく、見ていた誰もが驚いた2ラン本塁打である。試合は、3−3で引き分け、宇野の本塁打は貴重な一発となった。
 ユニフォーム忘れは、学生時代もあったようで、銚子商業高校時代、県大会に間違えてユニフォームと全く同じ色のパジャマを持っていってしまった、という伝説があるが真偽は定かではない。


 C10打席連続四球

 1984年の本塁打王争いは宇野と掛布雅之(阪神)がトップの37本塁打で並んで最終の直接対決2連戦を迎えた。阪神と中日の投手陣は、本塁打を恐れて双方が敬遠し合い、共に10打席連続四球という日本記録を残した。もちろん、タイトルは、2人が分け合うという結果になった。
 この記録は、1988年に首位打者を争っていた松永浩美がロッテ投手陣に11打席連続敬遠されたため、抜かれている。


 D走者追い抜き事件

 1984年5月5日の横浜球場での大洋戦で4点を先制された中日は3回表、1点を返し、なおも満塁のチャンスを作り、本塁打が出れば逆転という場面にまで持ち込んだ。
 ここでバッターは宇野。欠端光則投手から放った打球は浅いライトフライ。3人のランナーは、ライトに捕球されると思い、ベースから離れない。しかし、宇野は、全力で走っている。
 そこで思いがけないプレーが起きる。ライトの高木由一が落球したのだ。それを見た3人のランナーは慌ててスタートを切ったが、時既に遅し。全力疾走していた宇野は、落球を見てスピードを落とさず2塁を目指した。気づいたときには、1塁ランナーの大島康徳を追い抜いていた。走者追い抜きはもちろんアウト。珍プレーとしてテレビで扱われたことは言うまでもない。


 E遊撃手歴代1位のシーズン41本塁打

 1984年、37本塁打で本塁打王を獲得した宇野は、1985年には年間41本塁打を記録し、前人未到の遊撃手40本塁打以上を達成した。そして、この記録は、現在も遊撃手歴代1位の記録として輝いている。
 しかし、この1985年は、阪神タイガースが日本一になった年。ランディ・バースがシーズン54本塁打という快記録を残したため、惜しくも2位に終わり、タイトルを逃している。


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