豊田 清
 1971年2月、三重県生まれ。右投右打。投手。背番号39(西武)→38(西武)→20(西武・巨人)→33(広島)。鈴鹿高校から同朋大学に進み、愛知大学野球リーグで2部から1部への昇格に貢献。1993年、ドラフト3位で西武に入団する。
 1995年に1軍登板を果たすと、1996年には先発として5勝5敗の成績を残し、頭角を現す。
 1997年には10勝6敗、防御率2.93の成績を残してリーグ優勝に大きく貢献するが、9月に肘を傷めて離脱した。
 1998年は9月に復帰し、4勝2敗でリーグ優勝に貢献する。
 1999年は、10勝4敗、防御率3.89で2年ぶりの2桁勝利を挙げるが、2000年は、5勝9敗に終わる。
 翌2001年からリリーフに転向し、5勝3敗、28セーブ、防御率2.83の成績を残して抑えとして歩み始める。
 2002年には6勝1敗38セーブ、防御率0.78という驚異的な成績を残してリーグ最多セーブを挙げ、最優秀救援投手となる。
 2003年にも2勝3敗、38セーブ、防御率1.24で2年連続の最多セーブと最優秀救援投手に輝く。
 2004年には5勝1敗11セーブ、防御率0.98を残す。
 2005年には3勝1敗19セーブ、防御率3.97の成績を残して、シーズンオフに巨人へ移籍。巨人では移籍1年目に1勝4敗13セーブの記録を残す。
 その後は、主に中継ぎとして活躍し、2007年には20ホールド、2008年には26ホールドを記録して巨人のリーグ2連覇に貢献する。
 2009年には2勝2敗5セーブ、15ホールド、防御率1.99で巨人のリーグ3連覇と日本一に大きく貢献する。
 2011年には広島に移籍し、2勝1敗7ホールド、防御率3.08の成績を残したものの、現役を引退した。

 長身から投げ下ろす剛速球と切れ味鋭いスライダー、フォークボールを自由自在にコントロールできる制球力を持ち、全盛期は9回に出てきてはいつも3者凡退で抑えるため、「皆殺しの豊田」との異名をとった。

通算成績(実働17年)65勝50敗157セーブ81ホールド、防御率2.99、859奪三振。最優秀救援投手2回(2002・2003)

数々の伝説


 @先発として2桁勝利

 同朋大学から初のプロ野球選手として西武に入団した豊田は、2年間の下積みを経て3年目の1995年にプロ初登板を果たすと、1996年には初勝利を挙げ、1997年には先発ローテーションに定着して23試合に先発し、10勝6敗、防御率2.93の好成績を残す。
 この年記録した3完封は、リーグ最多であり、抜群の安定感でチームをリーグ優勝に牽引したが、この年の9月に右肘痛のため、戦線を離脱し、その後のシーズンを棒に振ってしまった。


 Aリリーフ転向

 豊田は、1999年に2度目の2桁勝利を挙げるなど、先発投手として順調に見えたが、2000年は被安打が増え、5勝9敗と低迷してしまう。
 そして、2001年4月、抑えの森慎二が制球難から不振に陥ったため、代役として抑えを任されることになる。
 これは、1球1球を全力で投げ、手を抜くことを知らない豊田の長所を生かすため、東尾修監督をはじめとする首脳陣が白羽の矢を立てたのだった。
 豊田は、この年、抑えとして5勝3敗28セーブ、防御率2.83の好成績を残し、その後、抑えとして活躍していくことになる。


 B2年連続最優秀救援投手

 抑えに定着した豊田は、150キロを超える剛速球を持ちながら絶妙の制球力もあるという珍しい投手で、直球を軸にスライダーと鋭く落ちるフォークボールを武器に、セーブを積み重ねていく。
 集中して1球1球に魂を込めて投げるうえに、四球を出さないため、3者凡退で抑える試合が多く、ファンは『皆殺しの豊田』という異名を付けた。
 特に2002年は、6勝1敗38セーブ、防御率0.78という文句のつけようのない圧倒的な成績を残して最優秀救援投手となる。
 しかも、57回1/3を66奪三振、与四球はわずか3、うち敬遠1という無類のコントロールを見せつけている。


 C日本シリーズ3セーブと胴上げ投手

 豊田は、2004年の中日との日本シリーズで西武の守護神として日本一に導く活躍を見せる。
 第1戦で2−0の9回裏を無失点に抑えてセーブを挙げると、第3戦では乱打戦となった10−8の9回表にマウンドに上がり、無失点に抑えて2セーブ目を挙げる。
 さらに、2勝3敗と追い詰められた第6戦でも4−2とリードした9回裏にマウンドに上がり、無失点に抑えて3セーブ目を記録する。日本シリーズ3セーブは、シリーズタイ記録である。
 第7戦でも豊田は、セーブのつかない7−0の9回裏に登板し、2点を失ったものの、日本一を決めて胴上げ投手となった。


 DFA宣言で優勝請負人として巨人移籍

 2005年オフ、豊田は、FA宣言を行い、巨人への入団を決める。当時の巨人は、不振にあえいでおり、豊田は、巨人の清武代表、原辰徳監督から熱烈な誘いを受け、優勝請負人としての評価をもらった。
 常に優勝を求められる巨人だけに、戦力も豊富で、豊田は、移籍1年目のシーズン前半に抑えの座を明け渡すことになったが、中継ぎとしてまずまずの活躍を見せ、2006年は1勝4敗13セーブ7ホールドという成績で終える。巨人の成績も低迷し、リーグ優勝を逃して4位に沈むことになった。


 E巨人のリーグ3連覇に貢献

 豊田は、巨人で抑えとして活躍できなかったものの、中継ぎに回ってからは、安定感のあるセットアッパーとして貴重な働きを見せる。
 2007年に47試合に登板して4セーブ20ホールドを記録して抑えの上原につなぐ役割を果たしてリーグ優勝に貢献すると、2008年には26ホールドでクルーンにつなぐ役割を果たし、リーグ2連覇に貢献する。
 2009年には5セーブ15ホールド、防御率1.99という安定感抜群の活躍を見せて、巨人をセリーグ3連覇に導いた。
 さらに、2009年の日本シリーズでは日本一を決めた第6戦でホールドを挙げる活躍を見せ、巨人の7年ぶりのシリーズ制覇に貢献した。


 F守護神降臨のポーズ

 豊田と言えば、マウンドに上がって投球練習後に、センターの方を向いて直立不動で胸に手を当てながら祈りをささげるようなポーズが有名である。 このポーズは、精神面の弱さを指摘されていた豊田がその克服のために始めたもので、バックを守る選手たちへの感謝も込めたと言われている。
 西武の守護神時代には、安定感抜群の投球で試合を締めくくるため、ファンの間では「守護神降臨のポーズ」として親しまれた。


 G惜しまれながら引退

 豊田は、巨人を戦力外となったものの、広島が獲得に動き、広島の中継ぎとして2勝1敗7ホールド、防御率3.08の好成績を残す。
 しかし、9月に右足の内転筋を傷めて、充分な走り込みができなくなった。広島は、2012年も戦力として契約の意思を示していたが、豊田は、走り込みができなくなったら終わり、という信念を貫き、自ら現役引退を決断した。球団に現役引退を申し入れたのがあまりにも急であったため、広島の松田オーナーもその引退を惜しみ、メディアには電撃引退として報じられた。





(2014年6月作成)

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