田代 富雄
 1954年7月、神奈川県生まれ。右投右打。内野手・外野手。背番号26。藤沢商業高校からドラフト3位で1973年、大洋に入団する。
 1976年に1軍で89試合に出場し、8本塁打を放つと、1977年には三塁手のレギュラーに定着し、全試合出場を果たして打率.302、35本塁打、88打点の活躍でチームの主力打者に成長する。
 1978年は27本塁打、104打点で100打点の大台に乗せる。1979年には開幕戦で1試合3本塁打を放つ活躍を見せ、チームの2位躍進に貢献する。
 1980年には打率.297、36本塁打、94打点と自己最高の本塁打数を記録する。
 1981年には30本塁打を放って2年連続30本塁打以上を記録。
 1982年には27本塁打、1983年にも28本塁打を放ってチームを3位に押し上げるなど、1980年から6年連続20本塁打以上、1977年から10年連続2桁本塁打の記録を残し、大洋の主砲として活躍を見せる。
 1986年の左手首骨折後は出場機会が減ったものの、1988年には44試合で打率.297、1990年にも51試合出場で打率.293を残すなど、勝負強さを発揮する。
 1991年、12試合出場に終わり、現役を引退するが、引退試合の現役最終打席で満塁本塁打を放った。

 オバQと呼ばれた独特の風貌から豪快なスイングで全盛期は本塁打か三振かという究極のバッティングを見せたスラッガーである。その弾道の美しさと飛距離は天性のものであり、長く大洋の主砲として活躍した。

通算成績(実動16年)打率.266、278本塁打、867打点、1321安打、1081三振。

数々の伝説


 @2軍で2冠王獲得

 田代は、藤沢商業高校時代、甲子園出場経験がなく、無名の存在だった。しかし、地元の大洋が田代の打撃力に目を着け、ドラフト3位で入団する。
 田代が頭角を現したのは、プロ3年目の1975年にイースタンリーグで打率.300、39打点を残して首位打者と打点王の2冠王に輝いてからである。
 田代は、プロ4年目の1976年にようやく1軍出場を果たす。球団は、田代をまだ2軍で育てるつもりだったが、コーチになっていたクリート・ボイヤーの後押しもあり、1軍に定着したのである。この年、田代は、シーズン8本塁打を放って主砲への道を歩み始める。


 A5試合連続本塁打

 田代の名前を有名にしたのは、1977年4月5日から4月10日まで5試合連続で放った本塁打である。
 この年は、開幕からレギュラーとして出場し、4月2日に広島との開幕戦でいきなり本塁打を放つと、4月5日の巨人戦で新浦寿夫から2号本塁打を放ち、5日から7日までの巨人3連戦を3戦連発で終える。そして、4月8日のヤクルト戦で5号本塁打を放ち、続く4月10日のヤクルト戦で会田照夫から6号本塁打を放つまで5試合連続本塁打を記録する。さらに、4月だけで何と11本塁打を放って月間MVPまで獲得したのである。
 この年、田代は、シーズン35本塁打を放っており、これは、大洋のシーズン本塁打記録を塗り替える快挙だった。


 B美しい本塁打

 田代は、豪快なスイングで遠くに飛ばすという天性の打撃センスを備えていたが、それにも増して優れていたのは、打球の弾道の美しさである。
 田代の本塁打は、高々と舞い上がり、美しい放物線を描いて長い滞空時間を経てからレフトスタンドへ舞い降りるものが多かった。
 そのため、田代の本塁打にあこがれるファンが多く存在した。また、田代の飛距離は、チーム内でも群を抜いていたため、練習用グラウンドの外野には田代のために防護ネットを張っていたという。


 C無冠の主砲

 田代は、プロで優勝を経験することができなかった。個人としても、2軍ではタイトルを獲得したものの、1軍ではタイトルを獲得していない。ベストナインやゴールデングラブ賞も獲得できなかった。
 つまり、現役を通じて無冠だったのだが、それは、王貞治や山本浩二、掛布雅之らと時代が重なったことが大きな要因である。特に1980年の田代は、36本塁打、94打点と活躍を見せたものの、山本浩二が44本塁打、112打点の活躍を見せたため、田代は、本塁打、打点ともにリーグ2位に終わっている。


 D外国人選手のバットで本塁打

 1983年3月、田代は、巨人とのオープン戦に先発出場する。しかし、第1打席から第3打席までは簡単に凡退する。
 第4打席に入るとき、田代は、いつもと違ってバットボーイから渡されたバットで打席に入る。
 田代は、何の疑問も持たずに打席に入り、ライトスタンドへ本塁打を放つ。だが、そのバットは、田代自身のものではなく、チームメイトの外国人選手トレーシーのバットだった。
 田代は、そのバットがあまりにもしっくり来たため、トレーシーのバットを譲り受け、それを公式戦でも引き続き使用することになった。


 E三振王3度

 田代の全盛期は、本塁打か三振かという典型的なスラッガーだった。
 そのため、本塁打王こそ獲得していないものの、3度のリーグ三振王に輝いている。
 1977年には118三振、1980年には104三振、1982年は102三振と100三振以上したシーズンはいずれも三振王である。
 また、1979年10月21日から10月25日まで5試合連続試合併殺打を記録し、日本記録を樹立する。そういった負の記録もまた、田代がチームの主砲として活躍した証である。


 F故障の影響による下降

 田代は、1980年代に入っても、1980年から6年連続20本塁打以上するスラッガーとして、大洋の中心選手だった。
 しかし、1986年6月18日、広島戦に1塁手として先発出場した田代は、打者の正田耕三と衝突し、左手首骨折の重傷を負う。これをきっかけに田代の打撃は、下降線をたどり、翌年には5本塁打、翌々年には1本塁打にまで落ち込む。
 結局、田代は、故障の翌年から1度も2桁本塁打を放てず、故障の5年後には引退することになるのである。


 G引退試合で逆転満塁本塁打

 1986年の故障以降、田代は、シーズンを通して活躍することはなくなっていたが、本塁打に対するこだわりは捨てていなかった。
 1991年、現役引退を決めた田代は、引退試合となる10月10日の阪神戦に4番打者として先発出場する。
 試合は、大洋が1回に1点を先制し、3回に入る。田代の打席は、2死満塁というチャンスで回ってきた。
 そこで、田代は、葛西稔投手のカーブを豪快に振り抜くと、打球は、高々と舞い上がって美しい放物線を描いて左中間スタンド中段に突き刺さる満塁本塁打となったのである。これは、田代の通算278号本塁打であり、この本塁打を放った後、ベンチに下がっているので、現役最終打席が満塁本塁打という快記録となった。
 試合は、田代の豪快さに導かれたかのように10-4で大洋が打ち勝ち、引退試合に花を添えた。




(2008年7月作成)

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