田尾 安志
 1954年1月、大阪府生まれ。外野手。左投左打。背番号2(中日・西武)→8(阪神)。泉尾高校から同志社大学に進み、投手で主力打者として活躍して2度の首位打者を獲得。
 1976年、中日にドラフト1位で入団。外野手として1年目から67試合に出場し、打率.277、3本塁打で新人王を獲得する。
 3年目の1978年にはレギュラーを獲得し、11本塁打を放つ。
 1981年には打率.303、15本塁打の活躍で初の打率3割以上を記録し、ベストナインに選出された。
 1982年は打率.350でリーグ2位になり、174安打を放って最多安打も記録する。最終戦では首位打者を争う長崎啓二がいる大洋から5打席連続敬遠をされて話題となった。中日は、その試合でリーグ優勝を決めている。シーズンを通じて田尾の貢献度は高く、ベストナインにも選ばれた。
 1983年には打率.318、161安打で2度目の最多安打を記録し、3度目のベストナインにも選ばれた。
 翌1984年にも打率.310、20本塁打、166安打で3度目の最多安打を獲得するが、その年のオフに杉本正、大石友好との交換で西武へ移籍。
 西武では1985年、1986年のリーグ優勝に貢献。1986年の日本シリーズでは打率.300を残し、西武の日本一に貢献している。
 1987年に吉竹春樹、前田耕司との交換で阪神へ移籍。
 1988年に80試合出場ながら打率.300、サヨナラ本塁打3本で復活すると、1989年と1990年も2割8分台の成績を残した。 
 1991年、打率1割台に終り、現役を引退。
 2005年から1年間、新規参入球団「楽天」の監督として指揮を執った。

 バットを大きく上から下に回す独特の仕草から構え、巧みなバットコントロールで安打を量産して、中日、西武に優勝をもたらした。また、甘いマスクで全国区の人気を誇った。

通算成績(実働16年):打率.288、149本塁打、574打点、1560安打。新人王(1976)最多安打3回(1982〜1984)ベストナイン3回(1981〜1983)

数々の伝説


 @大学野球では打率歴代新記録樹立

 田尾は、同志社大学で2年生のときから投手で主力打者として活躍している。4年生のときには主将として活躍し、表彰選手にもなった。
 田尾が注目されたのは投手としてよりも打者としてである。旧関西六大学リーグで首位打者を2回獲得したからだ。
 しかも、3年生だった1974年春のリーグでは何と打率.548を残し、リーグ歴代新記録を樹立。4年生のとき、中日からドラフト1位で指名されることとなる。


 A3年連続最多安打

 田尾は、1982年から3年連続で最多安打を記録する。174安打、161安打、166安打と安定して打ち続けたのである。
 3年連続の最多安打は、長嶋茂雄、榎本喜八に続いて史上3人目の快挙だった。
 1985年、田尾は、西武に移籍する。西武では、慣れないパリーグの投手陣と西武の管理野球体制のせいで調子が上がらず、128安打に終わって4年連続最多安打はならなかった。


 Bトレードマークとなったバット回し

 田尾のトレードマークと言えば、打席に入ったときのバット回しである。右腕でバットをバッターボックスから投手の方向に振り下ろすように大きく回転させ、投手を威嚇するように構えに入る。
 その仕草のかっこよさは、少年たちの憧れとなった。愛知県に生まれたイチローは、少年時代、中日で活躍する田尾をテレビで見てファンになり、田尾のバット回しを真似るようになる。そして、イチローは、その構えをプロに入ってからも続けて自らのトレードマークにし、大リーグで活躍するようになってからも続けてアメリカの野球ファンをも魅了している。


 C敬遠攻めで首位打者を逃す

 1982年、田尾は、シーズン終盤にきても高打率をキープし、首位打者争いをしていた。
 10月16日時点で田尾の打率は.345で2位。1位の長崎啓二(大洋)は.351。
 10月17日は大洋×中日戦だった。長崎啓二は欠場し、逃げ切りでの首位打者獲得を図った。しかし、である。出場した田尾は、何と5打数4安打で打率を.3501まで上げる。あと1本ヒットを放てば、打率.3514となって.3510の長崎を逆転できるというところまできたわけだ。
 10月18日も大洋×中日戦である。この試合は、中日が勝てばリーグ優勝、負ければ巨人がリーグ優勝という極めて重要な1戦だった。
 だが、長崎は欠場した。そうなると、田尾は、大洋投手陣から勝負してもらえない。第4打席まですべて敬遠。大洋は、田尾を徹底的に全部歩かせて長崎の首位打者獲得を援護しようとしたのだ。
 スコアが8−0で中日の楽勝ムードとなった八回表、1死1塁で回ってきた田尾の第5打席も、大洋は敬遠策をとった。カウント0−3となった田尾は、怒りのあまり、無言の抗議活動に出る。敬遠球を普通にフルスイングして空振りしたのである。カウント1−3からの敬遠球も空振り。
 2−3となったところでコーチが慌てて田尾のところへ飛んできた。そこで見送るように説得された田尾は、次の敬遠球を見送り、5打席連続四球を選ぶ。この時点で長崎の首位打者は確定し、田尾は、無念の涙を飲んだ。


 D中日のリーグ優勝に貢献

 1982年、中日は、巨人と激しく首位を争った。その首位争いを1番打者として引っ張ったのがこの年、自己最高の成績を残す田尾だった。
 田尾は、この年、ほとんど好不調の波を見せることなく打ちまくり、打率.350、14本塁打を記録し、核弾頭として他球団を恐れさせた。
 しかし、巨人との首位争いは最後までもつれ、10月18日の大洋戦で勝てば優勝、負ければ2位という厳しい状況に追い込まれる。
 大洋の長崎啓二と首位打者争いをしていた田尾は、初回から歩かされる。2回に1点、3回に4点、7回に3点を奪った中日は8−0で軽く圧勝してリーグ優勝を決める。
 しかし、問題は、3回の4点と7回の3点がともに走者1塁からの田尾敬遠が足がかりになって得点が入ったということである。
 限りなく敗退行為に近い敬遠策のせいで、この試合は物議を醸した。中日のリーグ優勝が決まると、マスコミや大洋には抗議の電話が殺到したという。
 それでも、田尾がリーグ優勝に大きな貢献をしたことには変わりなかった。
 シーズンMVP獲得も期待されたが、シーズンMVPにはその年に正捕手を奪って打率.282、18本塁打を放った中尾孝義が選出された。成績から見れば田尾が選ばれてもおかしくなかったのだが、やはり不運にも首位打者を獲得できなかったことが響いたのだろう。


 Eトレードで3球団を渡り歩く

 田尾は、全盛期だった1984年のシーズン後、中日から西武へトレードされる。理由は、球団批判ともとれる発言や紛糾する契約更改、チームが敗れても自らの成績にこだわる姿勢などが球団上部から煙たがられたからだという。そのそれぞれがプロ意識の高さから表れるものであることは確かだったが、田尾は、西武でも好まれなかった。
 西武は、当時、広岡達朗監督が選手達を公私共に厳しい管理体制下に置いていたからだ。野球をやっている、というよりやらされているという環境に馴染めなかった田尾は、西武を2年間で追われることとなる。
 西武から移籍した阪神では1988年に80試合出場ながら打率.300を記録するなど、まずまずの活躍を見せた。元々、大阪生まれで阪神ファンだった田尾は、大阪の気質が最も肌に合ったようである。


 F全国区の人気

 田尾の甘いマスク、バッターボックスでの仕草、そして左右に巧みに打ち分ける技術。練習熱心で自らの言動を曲げない性格。田尾は、多くのファンに愛された。
 1980年に監督推薦で初めてオールスターゲームに出場した田尾は、1981年にはファン投票で選出され、全国区の人気を得た。
 1983年、1984年もファン投票で全セのメンバーに選ばれた田尾は、西武に移籍した1985年には23万票以上を集め、セパ両リーグでファン投票によって選出されるという記録を作る。23万票以上を集めた田尾は、大石大二郎に次いで全選手中2位の得票数だった。
 1986年にもファン投票で選出された田尾は、オールスター出場通算7回中5回がファン投票による選出となった。
 その人気は、野球解説者になってからも続き、新規参入球団に注目されることとなる。


 G日本シリーズはいつも打率3割以上

 田尾は、1982年に中日で、1985・1986年には西武で日本シリーズに出場している。そして、その3度とも、田尾は打率3割以上を記録した。
 1982年には6試合に出場して打率.304、1985年には6試合に出場して打率.318、そして、1986年にも6試合出場して打率.300である。最初の2度は、いずれも敗退したが、3度目の日本シリーズでようやく日本一を手にした。
 田尾の日本シリーズ通算打率は.308。最高峰の緊迫した戦いではなかなか高打率を残せないものだが、田尾は、3度とも安定した好成績を残している。


 H新規参入球団「楽天」の監督に就任

 引退後も、田尾は、野球評論家として全国区の人気を誇り、シドニー五輪の日本代表コーチなども務めるなど、精力的に活動する。
 その上、ハイレベルな打撃理論とセパ両リーグを渡り歩いた見識の広さには定評があった。
 それに目をつけたのが2005年からの新規参入を目指すインターネット関連企業「楽天」だった。楽天は、インターネット上に作ったショッピングモールを中心にして年々業績を伸ばしてきたIT産業の草分け的存在である。
 楽天は、2004年10月13日、田尾に監督就任を要請する。契約期間は3年。この時点では、まだライバル企業ライブドアとの新規参入争いがあり、楽天参入が承認されるかどうかは分からなかったのだが、田尾は、監督就任を快諾した。
 そして、11月2日、ついに楽天が新規参入球団として承認される。東北楽天イーグルスの初代監督田尾が誕生したのである。




(2005年1月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system