谷 佳知
 1973年2月、大阪府生まれ。右投右打。外野手・内野手。背番号10(オリックス)→8(巨人)→10(オリックス)。尽誠学園高校で2年時に夏の甲子園に出場してベスト4の成績を残す。大阪商業大学では、通算打率.369を記録し、3年秋には三冠王を獲得する。
 4年生の1996年にはアトランタ五輪代表として銀メダルを獲得する。
 1997年、ドラフト2位でオリックスに入団する。プロ1年目の5月に1軍昇格すると、101試合に出場して打率.272を残す。
 2年目の1998年にはレギュラーを獲得し、打率.284、10本塁打45打点の活躍を見せる。
 1999年には打率.291、11本塁打、24盗塁を残し、ベストナインに選出される。2001年には打率.325、13本塁打、79打点、27盗塁の活躍を見せ、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞する。シーズン52二塁打は日本新記録であった。
 2002年には打率.326、5本塁打、39打点、41盗塁の活躍で盗塁王を獲得する。
 2003年には打率.350、21本塁打、92打点、189安打という自己最高の打席成績を残し、リーグ最多安打を記録する。
 2004年には打率.317、15本塁打、63打点で4年連続3割の記録を残し、4年連続でベストナインとゴールデングラブ賞に輝く。アテネ五輪では銅メダル獲得に貢献する。
 2007年にはトレードで巨人に移籍し、打率.318、10本塁打、53打点の活躍で巨人のリーグ優勝に貢献する。
 2008年には打率.295、10本塁打、45打点の活躍で巨人のリーグ2連覇に貢献する。
 さらに2009年には打率.331、11本塁打、48打点の成績で巨人のリーグ三連覇に貢献する。
 2014年には古巣オリックスに移籍。2015年限りで現役を引退した。

 卓越した打撃技術で広角に安打を打ち分け、特に右中間へ強い打球を放つ技術で全盛期には二塁打を量産し、三振も少ない巧打者だった。巨人でも勝負強い打撃でリーグ3連覇に大きく貢献した。

通算成績(実働19年)打率.297、133本塁打、741打点、167盗塁、1928安打。最多安打1回(2003)盗塁王1回(2002)シーズン52二塁打(日本記録、2001)ベストナイン5回(1999、2001〜2004)ゴールデングラブ賞4回(2001〜2004)


数々の伝説


 @シーズン52二塁打

 2001年、谷は、打撃が好調でシーズン打率.325を残すが、中でも二塁打は、驚異的なペースで量産した。
 9月23日のダイエー戦では6回表に吉武真太郎投手からセンターオーバーの二塁打を放ち、シーズン49二塁打を記録する。これは、P・クラークが1998年に残した48二塁打を超えるプロ野球新記録であった。
 谷は、その翌日の日本ハム戦で前人未到の50二塁打目を放つと、シーズン終了までにさらに2本上乗せして、シーズン52二塁打を達成する。
 谷は、現役引退時、二塁打を放つことをモチベーションとしてプレーしていたことを明かしている。


 A歴代最高成功率の盗塁王

 2002年、谷は、走塁に力を注ぎ、前年の27盗塁を大きく超える自己最多の41盗塁を決めて、盗塁王を獲得する。
 この年、盗塁を試みた回数は45回であり、うち失敗は4回しかなく、盗塁成功率は、驚異の.911を誇った。
 この盗塁成功率は、歴代の盗塁王が記録したシーズン盗塁成功率の中で、史上最高記録であった。


 Bシーズン最多安打

 2003年の谷は、137試合に出場し、シーズンを通して安打を量産し、9月には打率.424、7本塁打の活躍で月間MVPを獲得する。そして、シーズン打率は、.350を記録するとともに、シーズン189安打を放つ。
 シーズン189安打は、パリーグの右打者として史上最高記録であった。
 しかし、打率.350を残しながら、小笠原道大が打率.360を残していたため、首位打者は逃している。


 C守備の名手

 オリックス時代は、主にセンターを守り、イチロー・田口壮がいた当時は3人で鉄壁の外野陣を形成した。
 谷自身も、俊足を生かした守備でイチローが抜けた2001年から2003年までセンターで3年連続ゴールデングラブ賞を獲得する。2002年には守備率10割を記録している。
 さらに、村松有人が移籍してきてレフトに回った2004年もゴールデングラブ賞を獲得し、4年連続となった。


 D五輪と故障

 谷は、三菱自動車岡崎時代の1996年、アトランタ五輪に出場し、銀メダル獲得に貢献する。
 そして、オリックス入団後の2004年、谷は、アテネ五輪に野球の日本代表として出場し、柔道の日本代表で妻の谷亮子とともに夫婦で金メダル獲得を目指す。
 谷亮子は、女子柔道48キロ級で見事に金メダルを獲得し、公言していた「田村でも金、谷でも金」を実現する。
 谷は、野球でレフトのレギュラーとしていぶし銀の活躍を見せ、日本代表は、順調に準決勝までコマを進めた。
 しかし、準決勝のオーストラリア戦では、打線がオーストラリア投手陣に抑え込まれ、谷は、最後の打者となって0−1で敗戦する。谷は、最後の打者として二遊間へのセカンドゴロで1塁に駆け抜けた際に右足を負傷し、そのシーズン後半に大きく影響することになる。


 E巨人のリーグ三連覇に貢献

 2006年のオフ、不本意な成績に終わっていた谷は、巨人の鴨志田貴司、長田昌浩とのトレードによって巨人に移籍することになる。
 長年オリックスの看板打者として大きな功績を残した谷の放出は、世間に衝撃を与えたが、谷は、巨人で復活とも言える活躍を見せる。
 2007年は、レギュラーに座ると、主にレフトの2番打者として141試合に出場して打率.318、10本塁打、53打点の成績を残し、巨人の5年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献する。
 2008年にも打率.295、10本塁打を残してリーグ2連覇に貢献すると、2009年には打率.331、11本塁打の成績でリーグ3連覇に貢献する。パリーグから移籍した谷と小笠原道大の打撃は、3年間とも抜群の安定感を誇り、巨人の黄金時代を築いた。


 F全球団から本塁打

 谷は、プロ入りから2006年までオリックスでプレーしており、2007年に巨人に移籍したこともあって、全球団からの本塁打には最後オリックス戦が残っていた。
 谷は、2008年6月3日のオリックスとの交流戦で9回表に加藤大輔投手からレフトスタンドへ2ラン本塁打を放って、史上12人目となる全球団からの本塁打を達成する。
 谷は、オリックス時代に近鉄戦でも本塁打を放っており、13球団からの本塁打は、史上4人目の快挙となった。


 G2000本安打まであと72本で引退

 2012年にシーズン59安打を放って通算1914安打まで伸ばした谷は、順調に行けばあと2年程度で2000本安打に到達するペースだった。
 しかし、2013年、谷は、出場機会を大きく減らし、シーズン7安打にとどまる。その年のオフ、巨人を戦力外となった谷は、古巣のオリックスへ8年ぶりに復帰し、シーズン当初は、スタメン出場を果たすが、その後不振に陥り、結局2安打しか放てなかった。
 それでも、谷は、2000本安打達成に意欲を見せていたが、2015年、若手の台頭が進む中で現実的に2000本安打達成は困難と判断し、その年限りでの現役引退を決断した。通算1928安打での引退であった。
 2000本安打まで72本での引退は、歴代で2000安打に4番目に近い数字での引退となった。




(2015年12月作成)

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