田中 幸雄
 1967年12月、宮崎県生まれ。右投右打。内野手、外野手。背番号37→6。都城高校で2年春、夏と甲子園に連続出場し、活躍する。1986年、ドラフト3位で日本ハムに入団する。
 1年目は14試合出場にとどまったものの、2年目には112試合に出場し、9本塁打を放つ。
 3年目の1988年には遊撃手のレギュラーとして全試合に出場を果たし、打率.277、16本塁打の活躍を見せる。この年、初のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得している。
 1990年には打率.287、18本塁打の活躍で2度目のベストナインとゴールデングラブ賞を受賞する。
 1991年にもゴールデングラブ賞を獲得するが、1992年、右肩の故障により、1試合出場に終わる。
 しかし、1993年に復活を果たすと、1994年には打率.286、27本塁打、87打点という成績を残して打点でリーグ2位となる。
 翌1995年には、打率.291、25本塁打、80打点の成績で初の打点王に輝き、3度目のベストナイン、4度目のゴールデングラブ賞も獲得する。この年、遊撃手の連続守備機会無失策339のパリーグ記録も樹立している。
 1996年にも22本塁打、82打点の活躍で3年連続80打点以上を記録し、4度目のベストナインと5度目のゴールデングラブ賞にも選出される。1998年にはビッグバン打線の核弾頭として24本塁打を放ち、チームを前半戦首位に立たせるほどの活躍を見せる。1999年にも23本塁打を記録し、毎年、安定した成績を残して長年にわたって日本ハム打線の中核に座り続ける。
 2002年には17本塁打で10年連続の2桁本塁打を達成する。2003年以降は出場機会が減ったものの、チームリーダーとして2006年には日本ハムの日本一に貢献する。
 2007年5月、通算2000本安打を達成し、宮崎県の県民栄誉賞を受賞する。
 2007年限りで現役を引退。

 守備の負担が大きい遊撃手でありながら、本塁打を放てるスラッガーとして豪快なバッティングで日本ハム打線の中核を長年務め、現役後半はチームの精神的支柱として活躍した。
通算成績(実動22年):打率.262、287本塁打、1026打点、2012安打。打点王1回(1995)ベストナイン4回(1988,1990,1995〜1996) ゴールデングラブ賞5回(1988,1990〜1991,1995〜1996)
数々の伝説

 @高校野球で活躍も甲子園でKKコンビに2度敗退

 田中が都城高校2年生の1984年春、チームは、好投手田口竜二を擁して甲子園に出場する。田中は、2番遊撃手として出場し、初戦の和歌山工業戦ではスコア2−2の延長11回表にライトオーバーの決勝3塁打を放つ。さらには、2回戦の神港学園戦でも田中は、1−1の同点から決勝タイムリーを放つなど、3打数3安打の活躍で勝ち進んだ。
 都城高校は、準決勝まで勝ち進んだものの、桑田真澄・清原和博のKKコンビがいたPL学園に延長11回0−1、外野手のエラーによる衝撃的なサヨナラ負けを喫して甲子園を後にする。
 さらには、夏の甲子園でも3回戦で再びKKコンビのPL学園と対戦する。田中は、桑田から安打放ったものの、PL学園の圧倒的な強さの前に1−9で、またしても敗れてしまうことになる。
 田中は、3年生になってからは甲子園出場を逃しており、ついにはPL学園への雪辱を果たすことはできなかった。


 Aチームメイトに同姓同名

 田中が日本ハムに入団したとき、チームメイトに田中幸雄という同姓同名の投手がいた。1959年生まれで、電電関東からドラフト1位で1982年に入団し、1軍でまずまずの活躍を見せた。特に1985年6月9日にはノーヒットノーランを達成している。
 その翌年の1986年に野手の田中幸雄が入団する。投手と野手だけに、1軍の試合に同姓同名選手が2人揃って出場することもある。そのため、投手の田中幸雄は「田中幸」、野手の田中幸雄は「田中雄」という苦しい表記でしのぐことになった。チーム内では身長差で高い方の投手田中が「オオユキ」、低い方の野手田中が「コユキ」と呼ばれるようになったという。
 1987年には投手の田中幸雄が28試合に登板、野手の田中幸雄が112試合に出場と極めて紛らわしい状況に陥った。そのため、ファンでない人々の中には、同一人物が投手と野手の両方をやっていると勘違いする者もいた。
 しかし、そんな漫画に出てくるような選手がいるはずはなく、れっきとした別人であり、投手の田中幸雄は、1989年に0勝に終わり、通算25勝36敗16セーブという成績を残して退団している。
 その後、野手の田中幸雄は、日本を代表する遊撃手として1990年代の日本ハムを牽引することになるのである。


 Bイチローと同点で打点王

 1995年のパリーグは、投高打低が目立ったシーズンだった。打率3割以上を記録した選手は4人、30本塁打以上の選手は0人という有様である。
 そのせいか、打点王争いも、突出した打者が不在の混戦となる。田中は、首位打者を独走するイチローやロッテの主砲初芝清と熾烈な争いを繰り広げる。結局、田中は、イチロー、初芝と並んで80打点でシーズンを終え、初の打点王に輝いた。
 この年、田中は、打率.291でリーグ5位、本塁打も25本で3位に入るなど、好投手が揃った当時のパリーグで気を吐いた。
 

 C連続守備機会無失策339の遊撃手パリーグ記録樹立

 田中は、1992年に故障で1年間を棒に振るまで遊撃手として3度ゴールデングラブ賞を獲得する名手だったが、復活した1993年と1994年は守備の負担の少ない外野手としてプレーする。
 そして、ようやく1995年に本来の遊撃手の定位置に戻ることになる。前年は一度もショートを守っていなかったにも関わらず、田中の守備は全く錆び付いていなかった。何と1995年6月7日から9月21日まで3ヶ月以上に渡って339守備機会連続無失策を記録したのである。これは、遊撃手としてのパリーグ新記録であり、田中は、この年から2年連続でゴールデングラブ賞も受賞している。


 D史上3人目の全打順で本塁打

 全盛期の田中は、主砲としてチームを牽引したが、度重なる故障もあって様々な打順を経験することになる。
 DH制のあるパリーグだけに1番から9番までの打順を野手がこなせるため、田中は、全打順をこなした。そして、 1997年8月12日のロッテ戦で放った本塁打により、1番から9番までのすべての打席で本塁打を放ったという全打順本塁打記録を作った。
 全打順で本塁打を放ったのは、古屋英夫、松永浩美に次いで史上3人目の快挙だった。


 Eシドニー五輪日本代表として活躍

 2000年のシドニー五輪は、IOCがプロ解禁の方針をとったことにより、日本代表は、初めてプロ・アマ混成チームで挑むことになった。
 その記念すべき大会に、32歳の田中は、日本代表メンバーに選出される。チーム最年長選手としての出場だった。
 予選リーグを4勝3敗で4位通過した日本は、準決勝でキューバに0−3で敗れ、さらに3位決定戦でも韓国に1−3で敗れてメダルを逃す。しかし、田中は、予選リーグも含めて2本塁打を含む31打数10安打、打率.323と好調で、3位決定戦ではスコア0−3の9回に一矢報いるタイムリーヒットを放っている。


 F新庄伝説の試合で追い抜かれ事件

 2004年9月20日、日本ハム×ダイエー戦が行われる札幌ドームは、普段以上の盛り上がりを見せていた。それもそのはず。18、19日は、史上初のストライキで試合が中止になっていたからだ。
 試合は、打撃戦のシーソーゲームとなる。序盤に2−8とダイエーにリードを許すも、6回には9−8と逆転に成功する。しかし、ダイエーも、自慢の猛打線が火を噴き、日本ハムは9−12と再びリードを許す。
 試合は、最後までもつれ、9回裏に日本ハムが3連打で追いつき、2死2、3塁という場面で田中は代打に起用される。
 次の打者は、新庄である。ダイエーは、田中との勝負を避け、敬遠を選んだ。しかし、これが裏目に出て、新庄は、リリーフエース三瀬幸司投手の初球を左中間スタンドへ運んだのである。
 サヨナラ満塁本塁打で16−12。そうなるはずだった。しかし、1塁ランナーの田中は、1・2塁間で新庄を迎えて抱き合い、新庄が走ってきた反動で体の向きが入れ替わってしまった。前のランナー追い抜きは、アウトである。新庄のサヨナラ満塁本塁打は幻と化し、サヨナラヒットに格下げとなってスコアも13−12となった。
 それでも、この試合は、ストライキ明けの大乱打戦であったうえに、新庄のサヨナラ満塁本塁打がサヨナラ単打になったということで、一段と記憶に残る試合となった。


 Gリーグ優勝と日本一でチームメイトから胴上げ

 2004年、田中は、先発メンバーとしての起用が激減する中、球団からは移籍容認の話もあった。しかし、田中は、生涯日本ハムファイターズでプレーすることを発表し、「ミスターファイターズ」の評価が一気に高まっていく。
 2006年の田中は、不調で出番は少なかったものの、主将としてチームをまとめ上げ、日本ハムのシーズン1位に貢献する。そして、10月12日のプレーオフ第2ステージではサヨナラ勝ちでリーグ優勝が決まった後、田中は、ヒルマン監督と同じようにチームメイトから胴上げをされた。
 さらに、日本シリーズでも田中は、1打席のみの出場だったが、10月26日の日本シリーズ第5戦で日本一を決めた際にはヒルマン監督よりも先に胴上げをされたのである。長年にわたってチームを牽引し、40歳になってもチームの精神的支柱として、ついに念願を叶えた功績をチームメイトが称えたのだった。


 Hプロ22年目で通算2000本安打達成

 2006年には、打率.174と低迷したものの、田中は、日本ハムの顔として現役を続行した。
 そして、2007年5月17日、かつての本拠地である東京ドームで行われた楽天戦に先発出場した田中は、四回に山村宏樹投手からライナーで一二塁間を破るライト前ヒットを放ち、通算2000本安打を達成する。プロ22年目、2205試合目での達成は、大島康徳の2290試合に次ぐスローペースだった。それだけ様々な打順や代打での出場、度重なる故障との闘いといった苦労を重ねてきた結果が伺える。
 田中の2000本安打達成の4日後、宮崎県の東国原英夫(そのまんま東)知事は、田中に県民栄誉賞を贈ることを発表した。宮崎県史上3人目の受賞だった。





(2007年7月作成)

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