田宮 謙次郎
 1928年2月、茨城県生まれ。左投左打。外野手(最初は投手)。背番号28→6→22(阪神)→9→22(大毎)。下館商から日本大学に進み、首位打者獲得とノーヒットノーラン達成で注目を集め、阪神に投手として入団する。
 1年目の1949年にいきなり11勝7敗、防御率4.56の好成績を残す。
 2年目には3月に9回2死まで完全試合という好投をしたものの、完全試合を逃す。その後、肩を故障して、その年は1勝に終わる。
 3年目に0勝に終わると4年目の1952年に打者転向を決断。その年は、打率.247に終わったものの、打者転向3年目の1954年にはレギュラー外野手として打率.300、30盗塁を記録する。
 1956年には打率.300、11本塁打、25盗塁で初の2桁本塁打を記録するとともに、33二塁打と長打率.498は、リーグトップだった。この年、初のベストナインにも輝いている。
 1957年に打率.308、37盗塁を残し、長打率も.500で2度目のリーグトップを記録する。
 1958年には打率.320、11本塁打、62打点の好成績を残して初の首位打者を獲得するとともに3年連続のベストナインに選出される。そして、その年のオフ、10年選手制度を行使して大毎へ移籍する。
 大毎でも移籍1年目に32二塁打でパリーグ最多を記録すると、2年目の1960年には打率.317でリーグ2位の好成績を残し、大毎のリーグ優勝に大きく貢献する。日本シリーズでも打率.357の活躍を見せたものの、チームは4連敗を喫して日本一を逃す。
 1961年には打率.328、11本塁打、71打点という自己最高の成績を残し、5度目のベストナインに選出される。
 1962年にも打率.308で通算7度目の打率3割を達成する。
 1963年、打率.278を残したものの、アキレス腱を痛めたことにより現役を引退する。
 2002年、殿堂入り。

 プロ入り当初は投手だったが、プロ入り4年目に打者に転向し、屈指のアベレージヒッターとして阪神、大毎打線を牽引した。特に大毎では脅威の2番打者としてミサイル打線の一角を担い、リーグ優勝に貢献している。

通算成績(実働15年):打率.297、106本塁打、597打点、1427安打、190盗塁。首位打者1回(1958)ベストナイン5回(1956〜1958、1960〜1961)
 (投手:実働4年):12勝12敗、防御率4.85
数々の伝説

 @大学時代に投げてはノーヒットノーラン、打っては首位打者

 田宮の野球に対する情熱と才能は、学生時代から並外れていた。下館商業学校では野球部がなかったため柔道部にいながら、自ら野球チームを作って県大会に出場するほど想いは熱かった。
 そして、日本大学に進学して本格的に野球に取り組んだ田宮は、投打ともに優れた成績を残す。1947年秋には打率.425で東都大学リーグ首位打者を獲得し、中央大学相手に児玉光彦との継投ながらノーヒットノーランを達成する。
 当時、日本大学で捕手をしていたのが、のちに指導者として西武やダイエーの黄金時代に至る礎を築いた根本陸夫であり、2人は、後年、共に野球殿堂入りを果たすことになる。まさに伝説のバッテリーである。


 A1日の差で阪神に入団

 大学野球で投打にわたって活躍する田宮をプロが放っておくはずがなかった。1948年秋のリーグ戦終了後、阪神が獲得に動いた。当時は、ドラフトもなく、自由獲得競争の時代である。田宮は、まだ大学3年生で、卒業まであと1年を残していたものの、阪神が無理に中退させてまで入団させようとしたのだ。
 阪神の熱意により、田宮は、1949年1月8日、阪神と3年契約を結ぶ。巨人が田宮の入団交渉に訪れたのは、その翌日だった。
 関東育ちで巨人ファンだった田宮だが、既に阪神と契約を結んでいるから、と最後まで筋を通して阪神に入団することになる。もし、巨人がもう1日早く入団交渉に訪れていれば、巨人は、V9はもっと伸びていたにちがいない。


 Bあと1人で完全試合を逃す

 1950年3月16日、田宮は、国鉄戦に先発する。この日の田宮は、好調で国鉄打線を手玉にとっていく。あまりにも打てそうにない国鉄は、セーフティーバントなどの作戦を使ったもののヒットが出ない。田宮は、8回まで無安打無失点無四球。つまり、パーフェクトの内容で終えたのである。
 9回も簡単に2死をとり、完全試合の期待が高まった。しかも、プロ野球史上、ノーヒットノーランは達成したことのある投手はいるものの、完全試合を達成した選手はまだいなかった。もし、完全試合を達成すれば史上初の快挙となる。
 しかし、田宮は、最後の打者となるはずの中村栄に、バント警戒で前進していた三塁手頭上をふらふらと越えるヒットを浴びた。次の打者は三振に打ち取って完封したものの、史上初の完全試合を逃した田宮は、その後、肩を壊してこの年は、その試合に勝っただけのシーズン1勝に終わる。そして、この勝利が田宮のプロ生活での最終勝利となったのである。


 C打者に転向して3年目で3割

 田宮は、肩を壊して以降、めっきり勝ち星から見放される。1951年にはシーズン0勝に終わり、1952年になっても勝てる気配がなかった。
 しかし、元々、大学野球で首位打者を獲得するほど、打者としての素質もあった田宮は、打者転向を決断する。
 そして、最初に行ったのが減量だった。松木謙治郎監督から10キロ減量を指示された田宮は、断食道場に入る。当時83キロの巨体は、投手としてはよかったものの、打者としては重すぎたため、2週間断食をして70キロに落とすという荒行をしたのである。
 その後、松木監督との二人三脚で打撃を磨いた田宮は、打者1年目は、94試合に出場して打率.247だったものの、転向3年目にはレギュラー外野手として打率.300を記録したのである。


 D長嶋茂雄との首位打者争いを制す

 1958年、田宮は、シーズンを通して好調を維持し、新人だった巨人の長嶋茂雄と激しい首位打者争いを繰り広げる。
 その年、長嶋は、ルーキーとは思えない活躍を見せ、本塁打、打点でもタイトル争いを繰り広げていた。そして、本塁打王、打点王を手中に収める。
 そのうえ、首位打者まで獲得してしまえば、空前絶後の記録になるであろう、新人で三冠王という快記録が作られてしまう。
 それを阻止したのが田宮である。打率.320で長嶋の打率.305を上回り、見事に首位打者を獲得したのである。打率のみ2位に終わった長嶋は、結局、1度も三冠王を獲得することができずに現役を終えている。


 E10年選手制度により大毎へ移籍

 1958年、初の首位打者を獲得した田宮は、阪神とボーナスの交渉に入る。当時、10年間同一球団に在籍すると、移籍の自由、もしくはボーナスという2つの権利を選択できる10年選手制度があった。
 田宮は、阪神と交渉したものの、阪神が当初、あまりにも低い額を提示したため、交渉は難航する。そして、マスコミや世論を巻き込んで騒動となり、ついには交渉が暗礁に乗り上げることになった。
 結局、阪神は、田宮との契約をあきらめ、田宮は、阪神を追い出されるような形で大毎に移籍することになった。ボーナスをもらうつもりが、いつのまにか移籍の自由を行使することになってしまったのである。この10年選手制度による田宮の移籍は、現在のFA制度による移籍と同様のものだが、現実は、放出に近いものだった。
 田宮は、ボーナス受給での残留が希望だっただけに、田宮にとっては不本意な移籍だった。今ほど選手の権利が強くなかった当時、10年選手制度が認める移籍の自由はほとんど行使されることなく、形骸化していた。行使したのは金田正一、土井垣武といったごく一部の名選手だけである。しかし、FA制度が定着した今となっては、田宮の10年選手制度行使は貴重な前例となっている。


 F大毎のミサイル打線で18連勝と優勝

 1960年、西本幸雄監督を迎えた大毎は、82勝48敗3分の成績で南海に4ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。
 この年の大毎は、投手力、打撃力ともに他チームを圧倒していた。投手では小野正一が33勝を挙げたのをはじめ、中西勝己、若生智男らが安定した活躍を見せた。また、打線では田宮が2番に座って3番榎本喜八、4番山内和弘、5番葛城隆雄と強力な選手が揃い、榎本が打率.344、田宮が打率.317、山内が打率.313を残してパリーグの打率1位から3位までを独占するほどだった。この打線は、「ミサイル打線」と呼ばれ、6月5日から6月29日まで勝ち続けるというシーズン18連勝という日本タイ記録を打ち立てている。田宮は、優勝決定試合でも決勝打となる先制のソロ本塁打を放ち、存在感を見せつけた。
 また、この年、田宮は、パリーグのベストナインにも選出され、セパ両リーグでのベストナインを達成している。


 G3割7回のアベレージヒッター 

 田宮は、1954年に初めて打率3割を達成すると、1956年、から3年連続、1960年から3年連続で3割を達成する抜群の安定した打撃を見せた。ホームランバッターではないにもかかわらず、1955年には藤村富美男の後を受けて阪神の四番打者の座に就いている。
 規定打席に達した1954年から1962年までの9年間で首位打者1回、2位2回、3位1回と首位打者争いの常連だったのに加え、8回もリーグベスト10に名を連ねた。
 引退した年でさえ、打率.278を記録しており、生涯通算打率.297というプロ野球史上屈指のアベレージヒッターだった。



(2007年8月作成)

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