高津 臣吾
 1968年11月、広島県生まれ。投手。右投右打。背番号22(ヤクルト)→10(ホワイトソックス・メッツ)→11・22(ヤクルト)→33(ヒーローズ)。広島県の広島工高で1986年の春・夏と2度甲子園に出場するも、このときは二番手投手で登板はなく、野手として出場。亜細亜大学でも小池秀郎に次ぐ二番手投手ながら活躍を見せて、ドラフト3位でヤクルト入り。
 1・2年目は、目立った活躍をしなかったが、守護神となった3年目の1993年に6勝4敗20セーブ、防御率2.30を残して才能が開花。チームも2連覇を果たしている。
 1994年には8勝4敗19セーブ、防御率2.86でセーブ王と最優秀救援投手のタイトルを獲得する。
 その後、肘の故障で1998年には不調に陥ったものの、1999年に復活して1勝1敗30セーブ、防御率2.18を挙げてセーブ王と最優秀救援投手のタイトルを獲得。
 2001年には0勝4敗37セーブ、防御率2.61で3度目のセーブ王と最優秀救援投手に輝いている。チームもリーグ優勝し、日本シリーズでも2セーブを挙げる活躍で日本一に貢献する。
 2002年4月には史上2人目の通算200セーブを達成する。
 2003年には佐々木主浩の持つ229セーブ、269セーブポイントの日本記録を両方塗り替え、4度目のセーブ王と最優秀救援投手となった。
 2004年には大リーグ移籍を果たし、ホワイトソックスの一員として6勝4敗19セーブを残す活躍を見せる。2005年途中にはメッツへ移籍。
 2006年には日本の古巣ヤクルトに復帰し、セットアッパーからクローザーまでこなして13セーブを挙げ、日米通算300セーブを達成する。
 2007年限りでヤクルトを退団したが、2008年6月には韓国プロ野球のヒーローズと契約し、1勝0敗8セーブ、防御率0.86の好成績を残す。これにより、日米韓の3カ国で勝利とセーブを記録するという快挙を達成した。
 2009年にアメリカのマイナーリーグでプレーした後、2010年には台湾プロ野球の興農ブルズに入団し、抑えとして1勝2敗26セーブ、防御率1.88の好成績を残す。これにより、日米韓台の4カ国で勝利とセーブを挙げるという前人未到の記録を達成した。
 2011年には独立リーグの新潟アルビレックスBCで0勝2敗16セーブ、防御率2.16の成績を残した。
 2012年には新潟アルビレックスBCの選手兼任監督となり、その年限りで現役を引退した。

 右のサイドスローでややアンダースロー気味に投げ込む切れのある直球と緩急を付けた宝刀のシンカーでヤクルトの不動の守護神としてヤクルトの黄金時代を築いた。その後も大リーグ・韓国プロ野球・台湾プロ野球でいずれもクローザーとして活躍を見せた。

 通算成績:(日本15年)36勝46敗286S289SP。防御率3.20。セーブ王4回(1994・1999・2001・2003)最優秀救援投手4回(1994・1999・2001・2003)
(大リーグ2年)8勝6敗27S、防御率3.38。
(韓国1年)1勝0敗8S、防御率0.86。
(台湾1年)2勝2敗26S、防御率1.88。
(日米通算)44勝52敗313S、防御率3.22。
(日米韓台通算)46勝54敗347S、防御率3.11。
数々の伝説

 @アマチュア時代は常に二番手

 高津は、広島工業高校時代、1986年のセンバツと夏に甲子園に出場。しかし、2度とも投手としては控えであった。そのため、野手として2番打者で出場する。打者としては、甲子園で目立った活躍をすることなく、亜細亜大学に進学。
 しかし、そこにはプロ注目の左腕、小池秀郎投手が同級生にいて、高津は、またも2番手投手の道を歩むことになる。
 それでも、高津の独特のサイドスローは、プロの目に留まり、小池が世間の注目を集める中、ドラフト3位でヤクルトに入団。
 頭角を現すのはさらに2年後のことである。


 A最優秀救援のタイトルを3度獲得

 高津は1994年・1999年・2001年と3度に渡って最優秀救援投手のタイトルを獲得している。これは、5度このタイトルを獲得している江夏豊・佐々木主浩・赤堀元之に次ぐ記録である。
 特に1998年には肘の故障で不調に陥り、2勝3敗3セーブしか挙げられなかったにもかかわらず、翌1999年に1勝1敗30セーブを挙げてカムバックしてのタイトルが目立っている。
 

 B日本シリーズでも好記録

 高津の投球に翻弄されるのは、セリーグの打者ばかりではない。高津は、2001年までに1992年の西武戦・1993年の西武戦・1995年のオリックス戦・1997年の西武戦・2001年の近鉄戦と4度の日本シリーズに登板しているが、パリーグを制覇してきた打線に対して11試合に登板し、8セーブ、10セーブポイントを挙げている。しかも計16回3分の2を投げて10安打、19奪三振というほぼ完璧な投球内容を見せている。これらのセーブ・セーブポイントは、日本シリーズの歴代記録を更新中である。
 1993年第2戦から1995年第5戦まで6試合連続セーブポイントを達成したがこれも日本記録である。
 また高津がリリーフ投手としての道を歩み始めるきっかけとなったのは1992年の日本シリーズ西武戦でのリリーフ起用が起点となっていると言われている。
 

 C宝刀シンカー

 入団当初は注目されていなかった高津は、野村克也監督の「100キロのボールでも抑えられる」との教えから才能が開花。高津を日本を代表するクローザーにまでさせたのは、独特の癖球に加えた110キロ台の速いシンカーと100キロ台の遅いシンカーのコンビネーションだった。
 宝刀のシンカーは、切れ味が鋭く、落ち幅も大きいため、クローザーに必要な奪三振が容易に奪える。そのため、サイドスローながら長年にわたって名ストッパーの地位を守り続けているのである。 


 Dオールスターで投手イチロー×代打高津

 1996年のオールスター第2戦でパリーグが7−3とリードし、9回2死ランナーなしで次の打者が松井秀喜となったところで、パリーグの仰木彬監督は、西崎幸広を降板させて投手イチローを告げる。イチローは、野手として史上初の救援登板を果たすことになった。
 しかし、セリーグの野村克也監督は、松井の意向を確かめたうえで、代打に投手の高津を告げる。これは、松井のプライドに配慮してのものだったが、期せずして投手イチローの相手は、打者高津となった。
 高津は、カウント2−2からイチローの高めのストレートを叩いてショートゴロに終わり、夢の対決は、イチローに軍配が上がった。
 この一連の出来事は、試合後、投手イチロー×打者松井を見たかったプロ野球ファンの間で賛否について物議を醸した。


 E通算200セーブと日本記録更新

 2002年4月28日、阪神戦に登板した高津は、セーブを記録。これが通算200セーブ目となった。この記録は、日本で通算229セーブを挙げて大リーグに移籍した佐々木主浩に次いで史上2人目の記録である。
 そして、2003年4月16日の阪神戦で佐々木主浩が樹立した229セーブに追いつくと、その後も記録を伸ばし続け、6月7日の阪神戦で佐々木の269セーブポイントにも肩を並べる。6月20日の横浜戦には3−2と1点リードの9回表に登板し、無失点に抑えてついに日本新記録となる通算270セーブポイントを達成した。


 F史上2人目の日米通算300セーブ

 2006年10月7日の広島戦でヤクルトは、8回裏に3点を奪って4−3と逆転し、高津は9回表に登板する。この年、終盤になってクローザーに定着していた高津の通算セーブ数は、299になっていた。日本で通算260セーブを挙げた後、大リーグでも27セーブを挙げ、再び帰国して12セーブを積み重ねていたのである。
 高津は、四球と安打で2死1、3塁のピンチを招くものの、最後の打者を2塁ゴロに打ち取り、シーズン13セーブ目、日米通算300セーブを挙げた。
 この記録は、日米通算381セーブを挙げた佐々木主浩に次いで史上2人目の快挙達成となった。

 G日米韓台で勝利とセーブを記録

 2007年オフ、ヤクルトを自由契約となった高津は、大リーグへ再挑戦をしたが、夢はかなわず、韓国プロ野球のウリ・ヒーローズに入団する。2008年は、ヒーローズでクローザーとして1勝0敗8セーブの好成績を残し、日米韓で勝利とセーブを記録した投手となった。
 さらに2010年には、台湾の興農ブルズに入団し、クローザーとして1勝2敗26セーブの好成績を残す。これにより、日米韓台の4カ国のプロ野球で勝利とセーブを記録するという前人未到の快挙を達成した。しかも、いずれの国でもクローザーを務めており、高津は、4カ国を股にかけてプロ野球界に多大な貢献を果たした。



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