高橋 慶彦
 1957年3月、北海道生まれ。右投左右打ち。背番号40→2(広島)→5(ロッテ)→2(阪神)。東京都の城西高校では投手として甲子園に出場。1974年に夏の甲子園に出場し、1勝を挙げる。ドラフト3位で1975年、広島に入団。
 1年目の1975年はセンターを守っていたが、その年の終わりにはショートへコンバート。1軍での試合出場はなかった。
 3年目の1977年にスイッチヒッターに挑戦して、ようやく58試合に出場し、打率.292、14盗塁を記録して頭角を現す。
 1978年にはレギュラーとして打率.302、7本塁打で初の打率3割以上を残し、ベストナインにも選ばれている。10三塁打は、その年のリーグ最多三塁打だった。
 1979年には打率304、55盗塁で初の盗塁王に輝き、広島の走攻守の要に成長する。チームも高橋の活躍に刺激されるように4年ぶりのリーグ優勝を果たす。この年、日本新記録となる33試合連続安打を達成している。日本シリーズでも打率.444、1本塁打を記録し、4勝3敗で近鉄を破る原動力となってシリーズMVPを獲得した。
 1980年にも打率.307、38盗塁で2年連続の盗塁王を獲得し、チームを2年連続優勝に導いた。169安打はリーグ最多安打で11三塁打は3年連続のリーグ最多三塁打だった。日本シリーズでも近鉄を2年連続で破って日本一になっている。
 1983年は打率.305、70盗塁を決めるとともに24本塁打を放ってパンチ力も開花させた。しかし、松本匡史が76盗塁を記録したため、盗塁王のタイトルは逃している。
 1984年には打率.303、23本塁打、71打点、30盗塁といずれも高い数字を残してリーグ優勝に大きな貢献をした。さらに日本シリーズでは打率5割の好成績を残し、阪急を4勝3敗で破って日本一になった。
 1985年には自己最高の73盗塁で3度目の盗塁王に輝く。
 1986年にも21本塁打、39盗塁で4年連続20本塁打以上を記録して5度目のベストナインに選ばれ、チームをリーグ優勝に導いている。
 1989年、打率.267、13盗塁に終わるとトレード要員となり、高橋・白武佳久・杉本−高沢秀昭・水上善雄の交換でロッテへ移籍。ロッテでは不調に陥って1年のみで遠山昭治とのトレードにより、セリーグの阪神に移籍した。
 しかし、打撃の調子は戻らず、1992年は、オープン戦始球式で受けた死球による骨折の影響で19試合出場に終わり、現役を引退。

 甘いマスクで人気を博し、走攻守にわたって高いレベルのプレーを見せたスイッチヒッターで、広島黄金時代の機動力の象徴となった。連続試合安打日本記録を塗り替えるバッティングセンスや攻撃的な守備、走塁の美しさなど、多彩な魅力を持ち合わせた華のある選手だった。

通算成績(プロ18年、実働17年):打率.280、163本塁打、604打点、1826安打、477盗塁(歴代5位)。盗塁王3回(1979・1980・1985)最多安打1回(1980)ベストナイン5回(1978〜1980・1983・1986)

数々の伝説



 @投手として甲子園に出場

 高橋は、城西高校時代、東東京代表として甲子園に出場している。高橋は、初戦で佐世保工業高校(長崎)を相手に先発する。好投した高橋は、9回を2安打無失点に抑え、3−0で勝っている。しかし、2戦目では郡山高校(奈良)に2−5で敗れた。ところが、高橋は、他の高校生のように泣き崩れたりしなかった。
 笑顔を見せながら、早く帰りたかったことを打ち明けたのである。他の選手とは一線を画すかっこよさを身につけた高橋が全国に知れ渡った瞬間だった。


 A日本記録となる33試合連続安打

 1979年6月6日、中日戦の第3打席に土屋正勝投手からセンター前ヒットを放ったのが始まりだった。高橋は、この日から毎試合ヒットを放ち続ける。
 無安打の試合がないまま、6月が終わって行った。
 7月に入っても高橋のバットが湿る気配は全くない。まるで打ち出の小槌を振るように、相変わらず毎試合ヒットを放ち続けるのだ。
 打ち続ける高橋は、7月29日の大洋戦で猛打賞を記録し、ついに長池徳二の作った32試合連続安打に並んで7月31日の巨人戦を迎えた。
 高橋は、その第1打席で新浦寿夫投手からレフト前ヒットを放って、いとも簡単に33試合連続安打の日本記録を達成する。
 しかし、そんな高橋に試練が襲う。その試合の2回表の守備で1塁ランナーと交錯し、左足を故障して退場をよぎなくされたのだ。何とか復帰した8月8日の試合では阪神の江本孟紀に抑えられて無安打に終わり、連続試合安打は33で途切れることになった。
 33試合中の記録は、139打数57安打で打率.410。
 連続試合安打の記録が高まる中、高橋ほどの俊足であれば、バント安打を狙って記録を伸ばそうとしてもおかしくないのに、高橋は、一切バント安打を狙おうとしなかった。それだけに、この記録は現在でも高く評価されている。


 B22歳で日本シリーズMVP

 1979年の日本シリーズは、江夏の21球で広島が日本一を決めた、あまりにも有名な激闘である。
 近鉄と日本一を争った広島は、3勝3敗で迎えた第7戦を4−3のスコアで制して日本一を決めた。最終回、無死満塁のピンチをしのいだ江夏がMVPになっていそうなものだが、このシリーズのMVPは、実を言うと高橋である。
 高橋は、第1戦で2安打を放つと、7試合連続でヒットを放ち続ける。第4戦では試合を決定づける2ラン本塁打を山口哲治投手からライトスタンドへ放った。
 第7戦でも2安打1得点の活躍を見せた高橋は、シリーズ通算27打数12安打、打率.444、1本塁打、2打点の成績を残し、江夏を押しのけてシリーズMVPに選出される。このとき、高橋は、まだ22歳の若さだった。


 C日本シリーズ打率5割なのにMVP獲れず

 1984年の阪急と対戦した日本シリーズも、第7戦までもつれ込む激闘となった。
 高橋は、第3戦で一発を含む3安打猛打賞を記録すると、第6戦でも3安打、第7戦では4安打と打ちまくる。そして、シリーズ通算30打数15安打、打率.500、1本塁打、3打点、8得点、3盗塁という文句のつけようのない成績を残した。言うまでもなく、1979年の日本シリーズ以上の結果である。しかも、第7戦では4安打を放ち、日本一決定に大きな貢献をしている。
 しかし、高橋は、MVPに選ばれなかった。なぜなら長嶋清幸が逆転2ランや満塁本塁打を含む3本塁打、10打点という活躍を見せていたからである。打率こそ、.333と高橋より低かったが、3本塁打がいずれも効果的な本塁打であまりにもインパクトが強かったため、高橋は惜しくも優秀選手賞に終わり、MVPを獲得できなかったのである。


 D走れ!タカハシ

 作家村上龍は、庶民の生活に高橋のプレーをからめて描いた短編11作を1983年から1985年に向けて発表している。それらは「走れ!タカハシ」(講談社文庫)という短編集にまとめられ、現在も読むことができる。
 村上は、その本のあとがきでこのように述べている。
「広島カープの高橋慶彦選手は、ファーストベースにヘッドスライディングしてもそれが様になる日本でも珍しいプロ野球選手である。」
 高橋は、何をやっても絵になった。村上は、この小説に高橋の魅力をふんだんに盛り込んでいる。特にそれが際立つのは、男がムツミという女性と一緒に試合を見に行き、一塁ランナーに高橋を置いて四番打者が打席に入ったときの話だ。男は、四番打者にじっくり打たすべきだと主張するが、女性は同意せずにこう言うのだ。
「ヨシヒコはいいのよ、あたし走って欲しいわ、あの人が走るところ見るの好きなの」
 高橋がいかに人々をひきつけるプレーをする選手だったかがこの小説からはうかがい知ることができる。


 E盗塁王3回

 高橋最大の魅力と言えば、盗塁である。腕を大きく振って塁間を疾走する高橋の姿には他の選手にはない華麗さがあった。
 1979年に55盗塁を記録し、1度目の盗塁王に輝いた高橋は、1980年にも38盗塁で2年連続盗塁王を獲得する。
 しかし、高橋は、右膝を痛めていた。1981年は盗塁が一気に減ってわずか14盗塁に終わる。しかし、高橋は、不屈の闘志で翌年、43盗塁に伸ばすと、1983年には70盗塁を記録する。それでも巨人の松本匡史が76盗塁というセリーグ新記録で盗塁王を獲得したため、盗塁王奪還はならなかった。
 久しぶりに盗塁王の栄冠に輝いたのは1985年だった。年間通して走りまくった高橋は、自己最高の73盗塁を記録して3度目の盗塁王に輝いたのである。


 F郵便貯金ホール事件

 1987年4月8日、広島市の郵便貯金ホールで中国放送主催による「カープ激励の夕べ」が開かれることになっていた。
 しかし、シーズン開幕日は2日後の4月10日。
 開幕スタートの大切さとコンディション作りの難しさを知る高橋は、球団部長、さらには球団代表にまで抗議した。
「開幕の2日前に激励会をするなんて、球団は選手のことを考えてない」と。
 しかし、球団代表は、耳を貸さなかった。
「お前がいなくても激励会はできる」
 そう冷たくあしらわれた高橋は、本当に「カープ激励の夕べ」を欠席する。
 高橋は、このボイコット事件によって球団から自宅謹慎2週間の処分を受ける。試合に出場できるようになったのは4月26日のヤクルト戦からであった。
 高橋は、この事件がきっかけとなって2年後、ロッテへトレードに出される。
 その後、この事件は、ファンの間で「郵便貯金ホール事件」として記憶されることになる。野球に並々ならぬ情熱を捧げた高橋らしい伝説である。


 G人気者で努力家

 甘いマスクで盗塁を決め続ける高橋は、地味な広島カープの中で際立った人気を誇った。特に女性人気はすさまじく、球場にはいつも黄色い声援がこだましていたという。さらに、どんなファンにも嫌な顔一つせずにサインをするサービス精神を持ち、少年ファンも多かった。
 その一方で、高橋は、自らの努力でスイッチヒッターの才能を開花させる。練習量の豊富さは、「練習魔」と名付けられるほど、誰もが認めるところだった。納得するまで必死にバットを振り続ける姿を目にした者は多い。
 足を故障したときも、バッターボックスに置いた椅子に座ってフリーバッティングをしていた。付き合っている女性のマンションにバットを持ち込み、夜中に素振りを繰り返していた。そんな逸話さえ残っている。


 H不運の引退

 広島からトレードで出されたロッテで高橋は、不調にあえぎ、1年でセリーグの阪神にトレードされる。
 しかし、高橋は、阪神でも不調のどん底からなかなか抜け出すことができなかった。
 阪神2年目の1992年、高橋に不運が襲う。オープン戦の始球式で、阪神ファンのタレント山田雅人が投げた速球が高橋の腕に当たったのだ。
 高橋は、その場に倒れこみ、退場せざるをえなくなった。当たり所が悪く、骨折していた。高橋は、その年、わずか19試合の出場に終わり、その年限りで現役を引退する。
 広島でプレーしていれば、2000本安打はほぼ確実に達成できたであろうと言われるだけに、高橋の最後の3年間は不運続きだった。





(2005年1月作成)

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