高橋 直樹
 1945年2月、大分県生まれ。右投右打。投手。背番号21(東映・日拓・日本ハム)→16(広島)→17(西武)→19(巨人)。津久見高校で3年時に夏の甲子園に出場したが、1回戦で敗退。その後、早稲田大学に進学し、エースとして東京六大学野球で活躍。卒業後は日本鋼管に入社し、都市対抗野球にも出場した。
 1969年にドラフト3位で東映フライヤーズに入団。1年目からいきなり13勝13敗、防御率2.42の成績を挙げて早くもチームの看板選手となる。 
 その後、3年間2桁勝利から遠ざかるも、1973年6月16日にはノーヒットノーランを達成して、その年は12勝9敗の好成績を残した。
 1974年8月18日の近鉄戦では白星とセーブを1試合で挙げる、という珍記録を達成。ルール改正の元となった。
 1975・77年にはシーズン17勝を挙げて、球界を代表する投手としての地位を築く。
 1979年には20勝11敗4セーブ、防御率2.75という素晴らしい成績を残し、シーズン無四球試合11のパリーグ記録を樹立した。
 1981年に広島のリリーフエース江夏豊との超大型トレードで広島に移籍。
 広島で不振に陥った1982年の途中には西武へ移籍して7勝を挙げる復活を見せ、西武のリーグ優勝・日本一に貢献。翌1983年にも13勝3敗の成績を残して西武の日本シリーズ2連覇に貢献した。シーズン勝率.813は、その年の最高勝率だった。
 1984年は右膝の靭帯を痛めて2勝に終わるが、翌年は7勝を挙げた。
 1986年には巨人に移籍したものの0勝に終わり、現役を引退した。

 口ヒゲをトレードマークにする風貌から、しなやかで美しいアンダースローで投げ込む直球とスライダー、カーブ、シンカーなどの多彩な変化球でパリーグの強打者を打ち取り、日本ハムではエース、西武では黄金時代の礎を築いた。特にコントロールが素晴らしく、ほとんど四球を出さない制球力を備えていた。

通算成績(実働18年):169勝158敗13セーブ18SP、防御率3.32。1391奪三振。最高勝率1回(1983)ノーヒットノーラン1回(1973)

数々の伝説


 @1年目に13勝

 大学・社会人を経て東映に入団した高橋のプロデビューは、24歳と遅い。しかし、高橋は、1年目からエース級の活躍を見せる。223回を投げて13勝、防御率も2.42。
 新人王を獲得してもおかしくない成績だったが、選ばれたのはのちに通算2000本安打を達成するロッテの有藤道世。彼が残した成績は打率.285、21本塁打。単純には比較できないが、レベルの高い新人王争いであったことは疑いようがないだろう。


 A打者27人でのノーヒットノーラン

 1973年6月16日の近鉄戦に先発した高橋は、走りの良い直球と絶妙な変化球で近鉄打線を抑え込んでいった。
 ところが、対する近鉄の先発投手佐々木宏一郎もかなりの好投を見せる。日拓は、4回裏に1点を先制し、試合を優位に進めるが展開は硬直する。
 高橋は、1点を守りきるために丁寧なピッチングを見せ、7回までは完全に近鉄打線を抑えた。8回には伊勢孝夫に四球を与えてしまい、完全試合こそ逃したものの、走者を盗塁死させた。9回も3人で片付けた高橋は、打者27人でのノーヒットノーランを達成する。スコアは1−0。高橋は、9回を1四球、5奪三振でほぼ完全試合と言える内容だった。
 この試合は、近鉄の佐々木宏一郎投手の前に、日拓(現日本ハム)の安打もわずか2本のみ。両チーム合わせて2安打というのは、1試合の安打日本最少記録だった。


 B1試合で1勝1セーブ

 1974年は、プロ野球に「セーブ記録」が導入された年である。高橋も、この年、3セーブを挙げた。
 そのうちの1セーブは、何と同じ試合で勝利投手にもなっている。
 8月18日の近鉄戦に先発した高橋は、5回まで無失点に抑える好投を見せていた。しかし、6回2死1塁の場面でジョーンズを打席に迎える。右投手の高橋は左打者ジョーンズとの対戦成績が悪かった。高橋は、慎重に投げすぎたためかカウントを0−2としてしまう。スコアは、僅差の2−0。
 首脳陣は、そこに嫌な予感を感じたのだろうか。中西太監督は、投手交代を告げ、中原勇をワンポイントで投入。高橋は、3塁の守備に回った。
 しかし、中原は、ジョーンズに四球を与え、再び高橋がマウンドに戻って抑えきった。そのまま高橋は、9回を投げきり、1失点完投勝利を挙げる。
 そうなると、先発でリードしたまま5回を投げきった高橋は、勝利投手の権利がある。そして、2点差の6回2死から再びリリーフでマウンドにのぼり、試合終了まで投げきった高橋は、セーブの権利もある。
 これによって、高橋は、1試合だけで1勝1セーブを稼ぎ出したわけである。
 さすがにそのルールには無理があると問題になり、翌1975年には公認野球規則のセーブの規定に「勝投手の記録を得なかった投手」が追加されることになった。


 Cシーズン11無四球試合

 1979年の高橋は、持ち前の制球力にいっそう磨きがかかり、勝ち星を積み重ねた上に、無四球試合も度々記録する。そして、自己初のシーズン20勝を達成するとともに、シーズン無四球試合11というパリーグ記録を樹立した。これは、野口二郎が1948年に樹立した13試合に次ぐ記録となった。
 この年、高橋は、254回3分の2を投げて、与えた四球はわずかに23個。実に1試合あたり0.8個程度しか四球を与えない計算になる。
 だが、20勝を挙げても最多勝のタイトルを獲得することができなかった。この年、阪急の山田久志が21勝5敗の成績を残していたため、惜しくも1勝及ばなかったのである。


 D江夏豊との超大型トレード

 日本ハムで長年エースの座に君臨し、通算138勝を稼ぎ出していたが、1981年に広島の守護神江夏豊との超大型トレードで広島に移籍することになる。
 もう少しでリーグ優勝を狙える力をつけてきた日本ハムが優勝請負人として江夏豊を獲得に動いたからである。
 だが、このエースとリリーフエースのトレードは、明暗をくっきりと分ける。江夏が日本ハムでリリーフエースとしてシーズンを3勝6敗25セーブという好成績で乗り切り、チームをリーグ優勝させてシーズンMVPを獲得したのに対し、高橋は、2勝5敗2セーブと思うように勝ち星を稼げなかった。
 翌年も勝てずに苦しむ高橋に西武移籍の話が持ち上がる。ここで高橋の身に再び光が射し始める。


 E西武の連覇に貢献

 シーズン途中に西武に移籍した高橋は、先発投手として好投を続け、7勝2敗1セーブ、防御率2.27と完全に復活を遂げる。
 この復活劇は、はそのまま西武ライオンズとしてのリーグ初優勝(西鉄時代から含めると5回目)につながった。西武は、勢いに乗って日本シリーズで中日を破り、日本一に輝く。
 翌年も高橋は、先発の柱として13勝3敗という見事な成績で最高勝率のタイトルを獲得。チームは、2位に17ゲーム差をつける圧倒的な強さでリーグ優勝し、日本シリーズでも巨人を破って2連覇を果たした。


 F4球団を渡り歩く

 西武で活躍した高橋は、またしても移籍で巨人に入団する。パリーグ、セリーグ、パリーグと移籍してきて2度目のセリーグだった。日本ハムではエースとして大活躍し、広島では不振に陥ったものの、西武では復活して最高勝率のタイトル獲得と、波乱に満ちた選手生活の最後は41歳にしての巨人入りだった。
 しかし、栄光の巨人で高橋は、4試合しか登板する場を与えられなかった。高橋は、そのまま他球団に移籍することなく、巨人で選手生活を終えた。セパ両リーグを股にかけて稼いだ白星は169だった。




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