高橋 一三
 1946年6月、広島県生まれ。投手。左投左打。背番号46→21(巨人)→18(日本ハム)。北川工業高校から1965年に巨人へ入団する。
 1年目は3試合のみの登板に終わるが、2年目にはスクリューボールを習得して6勝を挙げる。
 1968年に7勝3敗の成績を残すと、翌1969年には22勝5敗、防御率2.21の好成績を残して最多勝と最高勝率のタイトルを獲得する。さらにベストナインとともに沢村賞にも選出される。
 1970年に12勝、1971年に14勝、1972年に12勝を挙げて巨人の連覇街道に貢献し続ける。
 そして、1973年には23勝13敗、防御率2.21、238奪三振の成績で最多奪三振のタイトルを獲得し、2度目のベストナインとともに2度目の沢村賞にも選出される。この年、巨人は、前人未到のシーズン、及び日本シリーズ9連覇を達成する。
 1975年には6勝を挙げたものの、そのシーズンオフに張本勲との超大型トレードにより、日本ハムへ移籍する。
 移籍1年目から10勝12敗3セーブとまずまずの成績を残すが、1978年に腰を痛めて、以後2年間低迷する。
 それでも1980年に9勝7敗4セーブの成績を挙げて復活すると、翌1981年には14勝6敗、防御率2.94という全盛期と同等の成績を残して日本ハムのリーグ優勝に大きく貢献する。
 1982年も7勝を挙げて、日本ハムの後期優勝に貢献する。
 1983年、左足を故障したままシーズンに入り、6勝を挙げたものの、その年限りで現役を引退した。

 投球の際に腕とともに顔まで上に向けてから腕と顔も豪快に振り下ろす投球フォームで剛速球とスクリューボール、カーブを自在に投げ分け、巨人のV9時代の左のエースとして君臨した。日本ハムに移籍後は、軟投派として先発に抑えに活躍を見せた。

通算成績(実働19年):通算167勝132敗12セーブ16SP、防御率3.18、1997奪三振。最多勝1回(1969)最多奪三振1回(1973)最高勝率1回(1969)ベストナイン2回(1969,1973)沢村賞2回(1969,1973)

数々の伝説

 @ドラフト創設前年に巨人入団

 プロ野球がドラフト制度を導入したのは、高橋がプロ1年目を終えた1965年のオフである。つまり、高橋は、ドラフト創設1年前にプロ入りしている。
 北川工業高校時代、高橋の剛速球に近鉄の別当薫監督が目をつけ、高橋は、プロから注目を受ける逸材となる。その後、最後の自由競争ということもあって、高橋は、各球団から誘いを受けることになるが、中でも巨人は、アタッシュケースを100円札で満杯にして高橋の自宅を訪れては入団交渉にあたったという。そのかいあってか、巨人は、高橋獲得に成功する。
 そして、入団1年目の1965年から1973年まで、巨人は、不滅のV9を達成することになるのである。
 

 Aスクリューボールを習得して沢村賞2回

 高橋は、入団2年目の1966年に藤田元司コーチの指示により、スクリューボールの習得に成功する。既に剛速球と鋭いカーブを持っていた高橋は、右打者の外角に逃げて行くこの変化球によって投球の幅を大きく広げ、一軍に定着を果たす。そして、徐々に重用されるようになった高橋は、4年目の1968年に7勝3敗の成績を残すと、翌1969年には22勝5敗、防御率2.21という驚異的な成績で最多勝と最高勝率のタイトルを手にし、沢村賞にも選出される。1969年5月8日から8月21日まで実に15連勝するという活躍ぶりだった。
 それまで2桁勝利すら記録してなかった高橋は、22勝したことによって一気にリーグを代表する投手に登り詰める。その後も安定した成績を残した高橋は、1973年には自己最高の23勝を挙げ、2度目の沢村賞に輝くのである。


 B投球後に帽子を飛ばすパフォーマンス

 高橋は、投球の際に腕とともに顔まで上に向けてから腕と顔も豪快に振り下ろす投球フォームで、体全体をしならせて剛球を投げ込んだ。そのため、そのあまりの動きの激しさに高橋の帽子は、投球した瞬間、脱げて高く跳ね上がることが多かった。
 それは、長嶋茂雄が豪快な空振りのときにヘルメットを派手に振り飛ばして観客を魅了したように、高橋もまた、その全力投球を観客に分かる形で見せ、魅了し続けたのである。


 CV9時代の左のエース

 巨人のV9は、王貞治、長嶋茂雄という2大スターの名が目立ってはいるが、チームを支えた投手陣の充実も見逃せない。
 高橋をはじめ、金田正一、城之内邦雄、堀内恒夫、渡辺秀武、宮田征典といったそうそうたる好投手がV9に貢献してきた。
 その中で、右のエースが城之内から堀内へと引き継がれたとするならば、左のエースは金田から高橋へと引き継がれた。高橋は、このV9期間に20勝以上を2度、2桁勝利を5度記録し、沢村賞も2回獲得する。「左のエース」という呼び方が定着したのは、この高橋からだと言われている。
 また、高橋がV9時代に挙げた102勝は、巨人の中で、堀内の129勝に次ぐ勝ち星数である。


 D優勝決定の常連胴上げ投手

 高橋は、ここ一番という試合で圧倒的な強さを見せた。
 ペナントレースでは、1966年9月23日の巨人V2決定試合で阪神を5回1/3を無失点に抑えて勝利投手になると、1969年10月9日には中日を9回2失点に抑えて胴上げ投手、1971年9月23日には阪神を9回1失点に抑えて胴上げ投手、1972年10月7日にも阪神を9回1失点に抑えて胴上げ投手になっている。さらには、1973年の勝った方がリーグ優勝という緊迫した阪神戦では9回を完封してまたしても胴上げ投手となった。
 日本ハム移籍後も1982年9月28日に後期優勝を決めたロッテ戦でリリーフのマウンドに立ち、4回2/3を無失点に抑えて勝利投手となった。

 日本シリーズでも1969年の第6戦で阪急を9回2失点で完投し、胴上げ投手になると、1970年の第5戦でもロッテを9回2失点で完投して胴上げ投手、1971年にも第5戦で阪急を1失点完投して胴上げ投手となった。1972年にも第5戦で阪急を3失点完投勝利を挙げた高橋は、日本シリーズ4年連続の胴上げ投手となった。
 

 EV9決定試合に先発して完封

 1973年、巨人は、V9をかけて阪神とのシーズン最終戦を迎える。この試合前まで巨人は、65勝60敗4分、阪神は、64勝58敗7分。巨人は、首位阪神を0.5ゲーム差で追っていた。そして、その試合に勝てばリーグ優勝決定、負ければ2位という天下分け目の最終試合決戦だった。
 当時、巨人には高橋と堀内が左右の両エースとして君臨していた。だが、堀内は、前回の阪神戦で打ち込まれていたため、大一番に先発を任されたのは高橋だった。
 高橋は、敵地甲子園での先発という不利な状況にも関わらず、自らの持ち味を出してスコアボードに0を並べて行く。高橋の好投に応えるように打線も爆発し、1回から5回まで毎回得点を記録する。高橋は、9回を4安打無失点7奪三振というほぼ完璧なピッチングを見せ、9−0で完封勝利を挙げる。前人未到のV9を達成した巨人の胴上げ投手は高橋だった。


 F張本勲との超大型トレードで日本ハムへ移籍

 1974年、巨人は、V10を逃し、長嶋茂雄は、現役を引退する。高橋は、前年に45試合に登板して24完投した酷使がたたり、2勝11敗と不振に陥る。
 1975年には6勝して復活の兆しを見せ始めたのだが、その年、巨人は、最下位に転落する。シーズンオフに巨人は、トレードで首位打者7回という実績を誇る日本ハムの張本勲獲得を決める。交換要員として日本ハムに移籍することになったのが、左のエース高橋一三と長嶋の控え三塁手だった富田勝である。日本ハムは、高橋にエースナンバー18を用意していた。
 このトレードは、成功を収め、張本が1976年から巨人の2連覇に大きく貢献したのに対し、高橋も、往年の剛速球はなかったものの、卓越した投球術で1976年に10勝を挙げる活躍を見せた。
 そして、高橋は、1981年に14勝を挙げて日本ハムのリーグ優勝に貢献し、翌年にも7勝を挙げて日本ハムの後期優勝に貢献した。そして、富田も、日本ハム在籍5年間で3割以上2回、打率ベスト10内3回という好成績を残したのである。


 G日本ハムのリーグ優勝に大きく貢献

 1981年の日本ハムは、強力な投手陣が揃って、後期に圧倒的な強さを見せた。高橋がエースとして14勝6敗、防御率2.94の成績を残したのをはじめ、岡部憲章が13勝2敗、間柴茂有が15勝0敗、木田勇が10勝10敗の成績を残した。そして、江夏豊も3勝6敗25セーブ、28SPで最優秀救援投手となり、打ってはソレイタが44本塁打、108打点で二冠王に輝いた。日本ハムは、前期こそ4位だったものの、後期は37勝23敗で優勝を果たすのである。

 ロッテとのプレーオフでも、第1戦を高橋から江夏への黄金リレーで1−0の勝利を飾ると、勢いに乗って3勝1敗1分でリーグ優勝を決める。
 巨人との日本シリーズでも高橋は、第1戦に先発して好投し、勝利に貢献したが、結局2勝4敗で日本一を逃している。


 H2000奪三振まであと3で引退

 高橋は、1982年までに通算1947奪三振を積み上げていた。順調に行けば、1983年中には通算2000奪三振を達成できる予定だった。
 しかし、高橋は、シーズン前の練習中に転倒し、左ふくらはぎを肉離れしてしまう。ベテラン左腕投手の高橋にとって、軸足となる左ふくらはぎの故障は、致命的とも言える故障だった。
 それでも高橋は、シーズンに入ると24試合に登板して6勝5敗の成績を残すが、結局、その年限りで現役引退の道を選ぶことになる。そして、シーズン最終日の登板では2000奪三振まであと5奪三振という状況だったものの、奪った三振はわずかに2。通算奪三振は1997で現役生活を終え、投手の勲章とも言える通算2000奪三振にあと3奪三振及ばなかった。




(2007年7月作成)

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