高木 豊
1958年10月、山口県生まれ。右投左打。内野手。背番号16→3(大洋・横浜)→16(日本ハム)。多々良学園高校から中央大学へ進んで頭角を現す。3年生のとき、全日本大学野球選手権で優勝し、大学日本一となる。また、大学4年間で数々の記録も打ち立てる。
 1981年にドラフト3位で大洋に入団して1年目から88試合に出場する。
 2年目にはレギュラーを獲得し、1983年には打率.314、12本塁打、27盗塁の好成績を残し、二塁手のゴールデングラブ賞も受賞する。
 1984年にはシーズン56盗塁を記録して初の盗塁王となる。
 1985年にはスーパーカートリオの一員として打率.318、42盗塁を残す。初のベストナインにも選出され、日本を代表する内野手となる。
 1986年にも打率.310で4年連続3割を残すとともに、37二塁打でシーズン最多二塁打も記録する。
 1987年には二塁手の日本記録となる守備率.997を記録したが、ゴールデングラブ賞に選出されなかった。
 1990年には打率.323でリーグ2位となり、2度目のベストナインに選出されると、1991年には打率.333でリーグ3位となって3度目のベストナインに選出される。
 1992年も打率.300を記録したが、契約更改で年俸に不満を表明し、年俸調停で増額を勝ち取る。しかし、1993年に打率.268に終わると、横浜の大量解雇事件によって日本ハムに移籍する。
 日本ハムでは移籍1年目の1994年に打率.249と低迷し、その年限りで現役を引退した。

 卓越したミート技術を持ち、大洋(横浜)の核弾頭として打率3割以上を8回記録したアベレージヒッターである。また、俊足と守備にも定評があり、走攻守が揃った名選手だったが、現役を通じて優勝には縁がなかった。

通算成績(実動14年):打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁、1716安打。盗塁王1回(1984)ベストナイン3回(1985、1990〜1991)ゴールデングラブ賞1回(1983)

数々の伝説


 @不満のドラフト3位

 高木は、中央大学に進学すると早くから頭角を現し、安打を量産して「東都の安打製造機」と異名をとるようになる。
 1979年の全日本大学野球選手権第28回大会では、チームを日本一に導く活躍を見せる。そして、大会通算7得点、大会通算盗塁9、1試合最多盗塁4という大会記録も樹立する。
 大学通算でも、ベストナインを4度獲得し、通算115安打は東都大学史上歴代2位の記録だった。
 しかし、そんな高木も、プロの評価は、目玉選手という扱いではなく、大洋がドラフト3位指名という結果になった。高木は、指名後の会見で評価の低さに不満を表明し、その不満を糧にして超一流のプレーヤーへと登り詰めていくことになる。


 A1年間だけスイッチヒッター

1983年、高木は、バッティングの幅を広げるため、スイッチヒッターに挑戦する。元々左バッターではあったが、右バッターとしても打席に立ち始めたのである。
 しかし、高木は、左バッターとしてさらなる成長を遂げる途中であり、左打席で高打率を残せるようになってきたため、右バッターにはこの年限りで見切りをつけた。
 結局、スイッチヒッターは1年だけの試みとなった。


 Bサヨナラセーフティーバント

 1983年6月5日の阪神戦は、接戦となる。そして、同点で迎えた9回裏2死満塁で高木に打席が回ってくる。
 マウンド上は、阪神の守護神山本和行である。高木は、この年、スイッチヒッターで右打席でのバッティングも試みていたが、このときは、相手が左投手であるにもかかわらず、得意の左打席に入る。そして、驚くべきことに高木は、2死であるにもかかわらず、セーフティーバントを試みる。
 意表を突かれた阪神守備陣は、アウトにすることができず、高木の一打は、貴重なサヨナラセーフティーバントとなった。


 CオールスターMVP

 1985年のオールスター第1戦に高木は、遊撃手として先発出場する。この試合は、セリーグが江川卓、パリーグが山田久志の先発で始まり、投手戦となる。
 0−0の5回裏、セリーグは、四球と山倉和博の二塁打によってランナー2、3塁のチャンスを得て、高木が打席に入る。
 そこで、高木は、パリーグの3番手投手津野浩からライト前に2点タイムリーヒットを放つ。
 試合は、これが決勝点となって2−0でセリーグが勝ち、4打数2安打2打点1盗塁と活躍した高木は、MVPに選出された。


 D最高守備率を達成しながらゴールデングラブ賞に選出されず

 1987年、高木の守備は、シーズンを通して冴えわたり、二塁手として126試合に出場してわずか2失策を記録したのみだった。
 しかも、このシーズンの守備率.997は、二塁手としてのプロ野球新記録となった。
 高木は、打撃では10割が不可能でも、守備では10割が可能という理論の下でプレーをしており、常に完璧な10割を目指してプレーしていたのである。

 だが、高木は、これだけの記録を残したものの、ゴールデングラブ賞に選出されることはなかった。選出されたのは、この年首位打者に輝き、116試合で5失策を記録した正田耕三だった。このことに高木自身が疑問を呈したことで、ゴールデングラブ賞の選出基準のあいまいさが世間の物議を醸すことになった。


 Eスーパーカートリオ

 1985年、大洋の近藤貞雄監督は、俊足のレギュラー3人を看板選手としてコンビで売り出そうと考える。高木豊、加藤博一、屋鋪要を打順1番から3番に連続して並べ、「スポーツカートリオ」と命名したのだ。
 当初は「スポーツカートリオ」だったが、当時の解説者長嶋茂雄が「スーパーカートリオ」と言い間違え、それが逆に広まって「スーパーカートリオ」という名前に落ち着いた。
 この年、高木は、42盗塁、加藤博一は48盗塁、屋敷要は58盗塁と走りまくり、3人で148盗塁というとてつもない記録を樹立した。チームとしても前年の最下位から4位に上がる健闘を見せたものの、Aクラスには届かなかった。
 

 F年俸調停で史上初の増額を勝ち取る

 1992年オフ、この年、打率.300、24盗塁を記録していた高木は、球団が提示した9330万円の年俸に対して、高木は、1億263万円を希望して交渉が暗礁に乗り上げる。そして、ついには年俸調停を申請することになる。
 年俸調停は、高木の申請が3例目で、それまでは球団の提示額で落ち着くのが通例となっていたが、1993年2月16日に出された裁定では、高木の希望が一部認められ、9840万円と決まる。プロ野球史上初めて球団提示額よりも高い年俸を手にすることができたのである。
 しかし、このことが1993年オフの大量解雇事件につながった遠因ととらえられることも多い。


 Gまさかの大量解雇事件

 高木は、入団3年目に打率.314、27盗塁を記録して以降、主に1番打者としてセカンドやショートを守って大洋の走攻守の要として活躍してきた。
 しかも、打率3割8回、20盗塁以上9回という安定した成績を残し、大洋の看板選手とも言える存在だった。
 しかし、1992年オフに契約更改が年俸調停へと発展し、さらに1993年の成績が打率.268、9盗塁と、レギュラー獲得以降、最低になってしまった。
 そんなとき、横浜は、生え抜き選手6人の大量解雇という処分を発表したのである。その中には驚くべきことにスーパーカートリオとして看板選手だった高木豊、屋鋪要も含まれているという一大事件だった。他の4人は市川和正、山崎賢一、大門和彦、松本豊である。
 この処分は、横浜が世代交代推進と、駒田徳広選手を獲得する資金捻出のために行った処分と言われているが、功労者に対する突然の処分は、ファンから大きな非難を受けることとなった。


 Hシーズン3割8回

 高木は、シーズン打率3割を1983年から1986年までの4年連続3割を含む通算8回記録した。これは、大洋(横浜)の球団新記録となった。
 そんな球団史上に残るアベレージヒッターだった高木だが、現役を通じて1度も首位打者とは縁がなかった。1990年は、打率.323を記録したが、同僚のパチョレックが打率.326を記録して首位打者となったため、3厘差でリーグ2位に終わる。1991年には打率.333を残しながら古田敦也が打率.340で首位打者となったため、7厘差で打率3位に終わっている。
 高木の現役生活は、実動14年と比較的短かったため、通算打率も現役後半に大きく下げることなく、3割にあと3厘と迫る打率.297という超一流の成績が残る。




(2007年12月作成)

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