高木 守道
 1941年、岐阜県生まれ。右投右打。二塁手。背番号41→1。県岐阜商時代に甲子園で活躍し、3年春のセンバツで準優勝。1960年に中日入団。
 5月に一軍に上がり、いきなり初打席初本塁打の衝撃デビューを果たす。
 4年目の1963年に50盗塁で盗塁王に輝いて、レギュラーの座を不動のものにした。
 翌1964年には.302、44盗塁で二年連続盗塁王に輝いている。
 1974年には打率.276、15本塁打、47打点、14盗塁の活躍で中日の20年ぶりのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでも.364と活躍したが2勝4敗でロッテに敗れた。
 1977年6月12日から14日の間には、3試合に渡って4打数連続本塁打の日本記録を達成。3試合にまたがる4打数連続本塁打は他に例がない。
 1978年4月5日の広島戦で高橋里志投手から通算2000本安打を達成している。
 1980年限りで現役引退。
 1992年から1995年まで中日の監督を務め、1994年には猛烈な追い上げで優勝を最後まで争い、シーズン最終戦の中日×巨人戦で勝った方が優勝という伝説の10.8まで持ち込んだが、敗れて優勝を逃した。
 2006年、殿堂入り。

 バックトスや風のような素早い動きで難しいゴロを簡単に処理した歴代屈指の名二塁手である。「いぶし銀」という愛称の通り、派手さはなかったが、脚力もあり、打撃フォームが美しくてパンチ力もあるという走攻守三拍子揃った選手だった。

 通算記録(実働21年):打率.272、236本塁打、813打点、369盗塁。2274安打。盗塁王3回(1963・1964・1973)ベストナイン7回(1963〜67・1974・1977)、ゴールデングラブ賞3回(1974・1977・1979)
数々の伝説

 @長嶋茂雄に素質を見い出される

 1957年6月、県立岐阜商業高校野球部に立教大学4年生だった長嶋茂雄がコーチとして訪れる。長嶋は、既に東京六大学野球の大スターであった。
 長嶋は、当時一年生だった高木の練習に注目し、中野健一部長に高木をレギュラーにするよう進言したという。
 これにより、高木は、レギュラーとして二塁手の座を獲得。1年生の夏の大会から甲子園に出場している。
 プロ入り後の1974年10月14日の後楽園球場での巨人×中日最終戦後の長嶋茂雄引退セレモニーが行われたとき、高木は、同日に行われる名古屋での中日優勝パレードのため、後楽園球場にはいなかった。
 高木は、パレードのスケジュールが決まったとき、レギュラーの中で自分一人でもいいから後楽園球場の試合に出場したい、と直訴したという。
 しかし、高木は、中日の優勝に大きく貢献したスター選手で選手会長。その願いは叶わなかった。
 高木は、長嶋に電話し、試合に出場できなかったことを詫びたと言われている。
 その長嶋との縁は、監督時代になっても続き、何と1994年10月8日にナゴヤ球場で行われた中日×巨人最終戦では勝った方がリーグ優勝という状況の中で、高木は中日の監督、長嶋は巨人の監督として采配を振るった。この伝説の10.8は、日本中が熱狂し、プロ野球界をおおいに盛り上げたのである。


 Aむっつり右門

 高木の無口・無表情は、有名で、走好守のいずれにも超一流の働きを見せながらも、語りや笑顔でのファンサービスをほとんど行わなかった。言わば、グラウンドでのプロフェッショナルな仕事に徹する職人気質の持ち主であった。ファンは、そんな高木に「むっつり右門」「いぶし銀」という異名を与えた。
 そのため、球団は、高木の無愛想さに悩み、契約更改時に「ファンに対して笑顔を見せたら、年俸を100万円上げる」という条件を出した、という逸話が残っている。

 
 B名二塁手

 高木の最大の持ち味は、何と言っても二塁の守備。史上最高の二塁手は?という話では必ず真っ先に名前が上がってくるほどである。
 その中で特筆すべきものがバックトスと打者に合わせた動き。
 二塁塁上付近に飛んだ打球を捕り、二塁ベースカバーに入った遊撃手にすぐさま矢のようなバックトス。いとも簡単にダブルプレーにしてしまう。ハーフウェイからという、かなりの距離があっても正確なバックトスができたと言われている。
 そしてもう一つが打者に合わせて守備位置を巧みに変える業である。捕手が外角に構えると、打球が一塁側に飛ぶことが多いにも関わらず、故意に逆の二塁ベース寄りに守備位置を変えて打者をあざむく。そして、投手が投げる瞬間に素早く一塁側に大きく移動して打者を確実にアウトにする、という高度な守備ができた。


 C試合中に激怒して帰宅

 1963年、中日×大洋戦に出場していた高木は、5回裏の守備で、二塁ベース付近に飛び、センター前に抜ける当たりをはじいて失点になった。
 杉浦清監督は、ベンチに戻ってきた高木を「打球を前に落とせ」と叱責した。
 その守備が最善を尽くした結果であることなのに叱責を受けた高木は、激怒して帰宅。監督の守備への理解不足から起こったものである。
 ついに6回表の守備に高木は現れなかった。
 そのため、杉浦監督は、選手交代して試合続行。
 これをきっかけに球界では「高木を使いこなせれば大監督」とまで言われるようになった。


 D盗塁王3回

 高木は、名人とまで言われた守備のイメージが強いが、足にも定評があった。
 1963年には50盗塁で盗塁王、1964年には44盗塁で2年連続盗塁王。1973年には28盗塁で3度目の盗塁王に輝いている。
 しかも、通算盗塁数369盗塁は、歴代11位(2001年末現在)の記録である。
 1964年5月8日の大洋戦では、1試合5盗塁という快記録も達成している。1回に2盗を決めると4回にも2盗、8回には2盗・3盗を決め、9回にも2盗を成功させてしまったのだ。これは、1952年に山崎善平が作った1試合6盗塁に次いで当時歴代2位の記録だった(1989年に正田耕三が1試合6盗塁を決めたため、2004年現在歴代3位の記録)。
 



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