大豊 泰昭
 1963年11月、台湾生まれ。本名は陳大豊。左投左打。内野手。外野手。背番号55(中日・阪神)→60(中日)。華興高校で台湾代表として活躍し、卒業後、2年間華興高校のコーチを務める。その後、王貞治に憧れて来日し、1984年、名古屋商科大学に入学する。大学では愛知大学リーグ記録となる通算24本塁打を残し、外国人枠の関係で1年間中日球団職員を務めた後、1989年にドラフト2位で中日に入団する。
 1年目から101試合に出場し、持ち前のパワーを発揮して14本塁打を放つ。
 2年目の1990年には20本塁打、3年目の1991年には26本塁打を放つなど、スラッガーとしての素質を開花させる。
 1993年、さらなる打撃向上を目指して1本足打法に挑戦し、25本塁打を放つと、1994年には全試合に出場し、打率.310、38本塁打、107打点という好成績を残して、本塁打王、打点王の2冠王に輝き、チームを伝説の10.8決戦に導く原動力となった。
 1996年にも打率.294、38本塁打、89打点を残して熾烈な本塁打王争いを演じたが同僚の山崎武司に1本及ばなかった。この年の4月には5試合連続本塁打を放っている。
 1997年には新たな本拠地となったナゴヤドームの広さに苦しんで6月には日本タイ記録となる1試合5三振を喫するなど、12本塁打に終わり、オフに阪神へ移籍する。
 阪神移籍1年目の1998年は、21本塁打を放ち、1999年には78試合出場ながら26試合連続安打を放つなど、打率.341、18本塁打の活躍を見せる。
 2000年にも23本塁打を放ったが、その年のオフに再び中日へ移籍。
 2002年限りで現役を引退した。

 右足を高く上げたまま静止して構える一本足打法で本塁打を量産したスラッガーである。詰まっても本塁打になるパワーで中日の大砲として一時代を築き、その真摯な練習態度も他の選手の模範となった。

通算成績(実動14年):打率.266、277本塁打、722打点、1089安打。本塁打王1回(1994)打点王1回(1994)ベストナイン1回(1994)

数々の伝説


 @一時的に球団職員

 来日して名古屋商科大学に入学した大豊は、持ち前の打撃力で頭角を現し、全日本代表にも選出されるようになる。愛知大学リーグでは新記録となる通算24本塁打を放って、プロからも注目を浴びることとなった。

 しかし、台湾人大学生の大豊にとって、助っ人の外国人選手として入団すると外国人選手枠の厳しい競争にさらされる。日本人選手として入団するのが理想ではあるが、日本人扱いとなるまでに、当時の野球協約では日本に5年以上の居住と日本の中学校、高校、大学に3年以上在学する必要があった。そのため、来日4年目だった大豊は、大学卒業後、1年間待たなければならない。それでも、待つことが最善の選択となった。

 大豊は、大学を卒業すると、中日の球団職員となって1年間、ドラフト会議を待つ。
 そして、1988年のドラフトで大豊は、球団職員だったこともあって、ドラフト2位で競合せずに中日へ入団する。このとき、ドラフト1位指名されていたのが今中慎二であり、この2人が1994年にはエースと四番としてチームを伝説の10.8に導く立役者となるのである。


 A1本足打法

 台湾人の大豊が日本のプロ野球選手を目指して来日したのは、日本のプロ野球で通算868本塁打を放った王貞治に憧れていたためである。
 王貞治は、父親が中国人だったため、中華民国籍を持っており、日本で英雄である以上に台湾では大英雄だった。
 そのため、プロ入り後、大豊は、王貞治のシーズン本塁打日本記録である55本にちなんだ背番号55を着ける。さらに、打撃では常に本塁打にこだわり、1993年には王貞治と同じような一本足打法にフォームを改造し、2年目には38本塁打、4年目にも38本塁打を放ち、日本を代表するスラッガーへと成長を遂げる。
 大豊は、中日の主砲として活躍していた当時、王貞治より1本少ない通算本塁打数で現役を終えるのが夢、とまで語っていた。


 B二冠王

 1本足打法に改造して2年目の1994年、打法を確立した大豊は、FAで抜けた落合博満の後継として一塁手でクリーンアップを任され、本塁打を量産する。前半戦が終わった時点で既に22本塁打を放つ独走態勢を築いていた。
 特に広島戦ではその打棒が爆発し、9月14日に同一カード6戦連続本塁打のプロ野球タイ記録を作ると、9月25日には広島戦シーズン18本塁打という同一カード最多本塁打のプロ野球新記録を樹立する。
 その活躍に牽引されてチームも奮闘し、調子を崩した首位巨人と並び、10月8日に同率首位での最終決戦を迎える。だが、四番打者として出場した大豊は、無安打に終わり、中日も、巨人の先発3本柱に抑え込まれて3−6で敗れて優勝を逃す。
 それでも、38本塁打、107打点でセリーグの二冠王に輝いた大豊は、ベストナインにも選出され、伝説の10.8へ導いた立役者として名を残した。


 C求道者

 大豊の打撃に対するこだわりは、プロ野球選手の中でも卓越していた。そのため、完璧な当たりを放たなければ納得しなかった。
 一本足打法に改造した際には、様々な伝説を残した。電車の中でも一本足で長時間立って練習した、王と同じように日本刀で居合斬りの練習をした、鉄の下駄を作って足の強化に努めた、バットを隣に置いて眠り、目覚めるとすぐバットを振っていた、などである。そんな完璧なまでのスイングを求めるだけあって、大豊は、好調時には弾丸ライナーの本塁打を量産した。
 その真摯な練習ぶりには、模範として称賛される一方、首脳陣が逆に心配するほどで、不調に陥って悩みすぎ、胃を痛めたりしたことも伝説として残っている。


 D5試合連続本塁打

 1995年に思わぬ不振に陥った大豊は、1996年には7番打者としてスタートしたものの、鬱憤を晴らす活躍を見せる。4月11日の阪神戦で本塁打を放つと、12日から14日までのヤクルト3連戦でも3戦すべてに本塁打を放ち、1日はさんだ16日の巨人戦でも本塁打を放ったのである。この5試合連続本塁打で波に乗った大豊は、月間9本塁打を放ち、2年ぶりに本塁打王争いに加わる。
 最終的にはチームメイトの山崎武司に1本差で敗れたものの、38本塁打を記録して、山崎を6番、大豊を7番に据えた打線は、中日史上に残る重量打線と恐れられた。


 E外国人審判暴行事件

 1997年6月5日、横浜戦は、マイケル・ディミュロというアメリカ人審判が球審だった。その年、日本の国際化に向けて、プロ野球に史上初めて外国人審判を招へいするという試みが行われていたのである。

 その試合の6回無死、3−5と中日が劣勢の場面で打席に入った大豊に対し、西清孝投手は、カウント1−1から外角低めへシュートを投げた。大豊は、ボールと判断し、悠然と見送る。しかし、通常、日本ではボールと判定される外角球をディミュロ審判は、ストライクと判定したのである。
 大豊は、血相を変えた。その前にも同じような外角球をストライクと判定されていたからである。
 大豊は、ディミュロ審判の判定を不服として執拗に抗議する。大豊のあまりの剣幕に身の危険を感じたディミュロ審判は、大豊を退場処分にする。だが、怒った大豊は、ディミュロ審判の胸を数度突き、ベンチから飛び出してきた中日のコーチ達と共に、ディミュロ審判を取り囲み、バックネット近くまで追い詰めたのである。
 審判に絶大な権威があるアメリカでは起こるはずのない事態に困惑したディミュロ審判は、翌日辞意を申し入れ、来日してわずか3ヶ月で帰国することとなった。

 この外国人審判暴行事件は、当時、世間で物議を醸し、日本は国際化への扉を閉じたと批判を浴びた。しかし、アメリカが示そうとした審判の権威は、2006年、WBCでアメリカ人審判が2度にわたる世紀の誤審を正当化するという弊害を生み、未だに賛否が分かれる課題である。


 F大型トレード

 1997年、中日は、ナゴヤドーム初年度を最下位で終わる。ドームの広さに苦しみ、打撃不振と守乱に陥ったのである。大豊も、前年の38本塁打から12本塁打に激減し、チーム低迷の一因になってしまった。
 そこで、中日は、守備や走塁を重視した野球への転換を図ろうとする。そして、同一リーグ内でありながら、中日の大豊と矢野輝弘、阪神の関川浩一と久慈照嘉を交換する大型トレードが成立したのである。
 このトレードは、成功を収め、阪神で大豊が20本塁打以上2回を記録し、矢野は、正捕手として2003年に18年ぶりの阪神リーグ優勝に貢献、関川と久慈も1999年の中日リーグ優勝に大きく貢献したのである。


 G阪神で26試合連続安打とシーズン代打本塁打6本

 1999年、一本足打法で好不調の波が激しくなっていた大豊は、野村監督の勧めによって、すり足の打法に改造する。
 これが功を奏し、大豊は、8月24日から10月1日まで1ヶ月以上にわたって毎試合安打を放ち続け、球団記録となる26試合連続安打を記録する。そして、この年、シーズン代打本塁打6本を放ち、日本記録にあと1本と迫る。
 この年の大豊は、78試合出場164打数ながら打率.341、18本塁打という好成績を残している。


 H詰まっても本塁打になるパワー

 大豊のパワーは、大リーガー級であり、完璧に捕らえた当たりは、外野フェンスの遥か上を超えてスタンド上段、もしくは場外へと消えて行った。
 そんなパワーを持っているがゆえに、大豊の打球は、少々詰まっても外野フェンスを越えて本塁打となった。
 大豊は、外野フェンスを少し超えた程度の打球では満足せず、本塁打になっても、インタビューでは「詰まった」とコメントするのが常だった。
 大豊は、通算1089安打ながら277本塁打を放っており、4安打のうち1本以上は本塁打だった。つまり、安打数に占める本塁打の割合が極めて高く、常に本塁打の魅力を追い続けたスラッガーだったのである。




(2008年2月作成)

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