田口 壮
 1969年7月、福岡県生まれ。右投右打。外野手・内野手。背番号6(オリックス)→99(大リーグ)→33(オリックス)。兵庫県立西宮北高校から関西学院大学へ進み、関西学生リーグで1年秋にMVP、3年秋に首位打者を獲得。
 1992年にドラフト1位でオリックスに入団する。1年目から遊撃手として開幕戦に先発出場するなど、47試合で打率.268を残す。
 1994年には強肩を生かすために外野手に転向し、レギュラーを獲得して打率.307、6本塁打の好成績を残す。
 1995年には全試合に出場し、打率.246、9本塁打、61打点、14盗塁の成績でオリックスのリーグ優勝に貢献する。初のゴールデングラブ賞にも選出。
 1996年には打率.279、7本塁打でリーグ2連覇と日本一に貢献する。初のベストナインと2度目のゴールデングラブ賞も受賞する。
 1997年には打率.294、10本塁打の成績を残し、3年連続ゴールデングラブ賞を受賞する。
 2001年に打率.280、8本塁打の成績を残して5度目のゴールデングラブ賞を受賞すると、FA宣言を行って、大リーグのカージナルスと3年契約を結ぶ。
 2002年には19試合の出場で打率4割、2003年には43試合に出場し、3本塁打を放つなど、徐々に実績を残して、2004年には109試合に出場し、打率.291を残してカージナルスのリーグ優勝に貢献する。
 さらに、2005年には143試合に出場して打率.288、8本塁打を残す活躍を見せてカージナルスの2年連続地区優勝に貢献する。
 2006年には打率134試合に出場して打率.266を残し、カージナルスのリーグ優勝と世界一に貢献する。
 2007年にも、130試合に出場して打率.290を残したが、自由契約となり、フィリーズと1年契約を結ぶ。
 2008年は、フィリーズが世界一になったものの、打率.220と不振に苦しんでシーズンオフに退団し、2009年はカブスとマイナー契約を結んだものの、大リーグでは6試合出場に終わり、その年のオフに古巣のオリックスと契約する。
 2010年は、53試合で打率.261、2011年は62試合で打率.273を残したが、右肩を痛めてオリックスを退団した。
 その後、右肩を手術し、プロ野球復帰を目指したが、2012年9月に現役引退を発表した。

通算成績(日本12年):打率.276、70本塁打、429打点、1219安打。ベストナイン1回(1996)ゴールデングラブ賞5回(1995〜1997・2000〜2001)
(大リーグ8年):打率.279、19本塁打、163打点、382安打。
(日米通算20年):打率.277、89本塁打、592打点、1601安打。


数々の伝説


@外野手転向

 田口は、関西学院大学で1年秋に関西学生リーグMVP、3年秋に打率.425で首位打者を獲得し、大学通算123安打の関西学生リーグ記録を樹立する。そして、1992年、プロ即戦力の大型内野手という高い評価を受けて、ドラフト1位でオリックスに入団する。
 そのため、1年目から開幕戦に遊撃手として出場する。打撃は、まずまずの成績を残したものの、守備は、広い守備範囲と強肩がある一方、スローイングに難があるという大きな欠点を抱えていた。
 そのため、1994年、新監督となった仰木彬は、田口を外野手にコンバートする。広い守備範囲と強肩が生きる外野手になったことで、田口は、レフトをこなしながら打撃も好調を維持し、打率.307を残してレギュラーに定着することになる。


A鉄壁外野陣の一角としてゴールデングラブ賞5回

 1994年に田口が外野手に転向しながら、打率3割を超える好成績を残したのだが、この年は、仰木監督に見いだされたイチローも外野手のレギュラーに定着し、打率.385、210安打というすさまじい成績を残し、オリックスは、1年で名外野手が2人育つことになった。
 パリーグを連覇した1995年・1996年は、レフトかセンターに田口が入り、センターかライトにイチローが入るという布陣で、この2人が外野守備の中心となっていた。
 特に田口がレフト、本西がセンター、イチローがライトに入ったときのオリックス外野陣は、鉄壁を誇り、12球団1の外野陣と呼ばれた。

 田口は、1995年から3年連続ゴールデングラブ賞を受賞すると、2000年から2001年にかけてもゴールデングラブ賞を受賞し、計5回のゴールデングラブ賞に輝いている。その守備力は、大リーグ移籍後も注目を集め、スタメンで出場しない日も、度々守備固めで起用されている。


Bシドニー五輪で打率4割以上

 シドニー五輪の野球日本代表は、プロ選手が解禁となり、初めてプロ・アマ合同チームが結成された。しかし、出場が有力視されていたイチローは、アマチュア大会にプロが出場することに消極的であったため、代わりに田口が出場することになった。
 田口は、五輪本戦の7試合に出場し、32打数13安打、打率.406、6打点を記録し、日本選手として最高打率を記録する。
 しかし、日本代表チームは、準決勝でキューバに0−3で敗れ、韓国との3位決定戦でも1−3で敗れてメダルを逃した。田口は、準決勝では1安打放ったものの、3位決定戦では無安打に終わっている。


Cオリックスの初優勝に貢献

 1995年のオリックスは、阪神淡路大震災で深刻な被害を受けた神戸を復興に導くため、「がんばろう神戸」のスローガンのもとに一丸となる。この年は、長谷川、星野、野田、平井を中心に投手陣が安定し、打線もイチロー、ニール、田口を中心にして機能した。6月にリーグ5連覇中の西武を抜いて首位に立つと、そのまま逃げ切ってリーグ優勝を果たしたのである。
 田口は、打率こそ.246だったものの、9本塁打、61打点、14盗塁の活躍を見せ、守備でもレフトやセンターで鉄壁の活躍を見せてゴールデングラブ賞も受賞する。9月19日の優勝決定試合では、なんと4打数4安打の完璧な活躍でオリックス球団初のリーグ優勝に大きく貢献した。


Dオリックス初の日本一に貢献

 1996年も、オリックスは、前半戦から快調に白星を積み重ね、2位日本ハムに7ゲーム差をつけてパリーグ2連覇を達成する。田口は、シーズン前半は打順が日替わり状態だったものの、後半戦は1番に定着して3番イチロー、4番ニールとともに打線を引っ張り、シーズン打率.279、6本塁打を残した。
 日本シリーズでも、田口は、第1戦で2安打を放って勝利に貢献すると、優勝を決めた第5戦でも2安打を放って、4勝1敗での日本一に大きく貢献する。オリックスは、球団創設8年目にして初の日本一達成となった。


EFA宣言で大リーグ移籍

 イチローが2001年にポスティングシステムで大リーグのマリナーズに移籍し、シーズンMVPを獲得する大活躍をしたことで、田口も、大リーグから注目を集めることになる。
 田口は、2001年オフにFA宣言を行い、阪神が獲得に興味を示していたが、大リーグのカージナルスと3年契約を結ぶ。しかし、1年目は、開幕を大リーグで迎えることができず、苦労を重ねてようやく6月に大リーグに昇格する。この年は、大リーグで19試合の出場にとどまったものの、打率4割を残して、徐々に守備や走塁の上手さも認められるようになり、翌年からは出場機会を増やしていく。
 そして、2004年には109試合に出場し、打率.291、3本塁打を残す活躍を見せて、チームのワールドシリーズ進出に大きく貢献する。


F世界一に貢献

 田口の苦労が報われたのは、2006年の世界一達成である。この年は、スタメンで出場する機会も多く、134試合に出場し、打率.266、2本塁打、31打点、11盗塁という成績でカージナルスの3年連続地区優勝に貢献する。田口は、ポストシーズンでも2本塁打を放つ活躍を見せてチームをけん引し、ナショナルリーグ優勝に貢献する。ナショナルリーグチャンピオンシップシリーズでは、1敗後の第2戦でメッツの守護神ビリー・ワグナーから決勝本塁打を放ってチームを勢いに乗せた。
 タイガースとのワールドシリーズでも、田口は、5試合中4試合に出場して、第5戦では1−2とリードを許していた4回裏に安打を放って、そこから逆転につながるという活躍を見せる。そして、カージナルスが4勝1敗で世界一に輝いた瞬間を田口は、ライトの守備位置で迎えたのである。


G古巣へ復帰し、引退

 2009年、田口は、カブスとマイナー契約を結び、大リーグ昇格を目指したが、昇格できたのは、シーズン終盤の9月だった。わずか6試合の出場でカブスを戦力外となった田口は、2010年、日本の古巣オリックスに復帰する。
 しかし、度重なる故障によって53試合の出場にとどまり、守備や勝負強い打撃で存在感は見せたものの、打率.261、3本塁打に終わる。
 2011年の田口は、キャンプ中に右肩を痛めたものの、交流戦で打率.363の好成績を残し、シーズン62試合の出場で打率.273を残す。しかし、右肩の状態は悪く、田口は、10月にオリックスを自由契約となった。田口は、右肩を手術して復帰を目指したものの、翌年7月31日になっても所属球団が決まらず、現役引退を発表した。





(2012年12月作成)

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