田淵 幸一
 1946年9月東京都生まれ。右投右打。捕手。背番号22(阪神・西武)。法政一高から法政大へ進学し、山本浩二・富田勝とともに法政3羽ガラスと呼ばれる。
 大学通算22本塁打はそれまでの長嶋茂雄の8本を14本も抜く、驚異の新記録となる。
 1970年にドラフト1位で阪神に入団。
 1年目は打率.226ながら22本塁打を放ち、新人王に選出される。
 4年目に初めて30本台に乗せて34本塁打を放ち、球界を代表するホームランバッターに成長する。
 しかし、V9時代のONと活躍の時期が重なったため、阪神では優勝を果たすことはなかった。
 1974年には自己最高の45本塁打を放ったものの、王貞治が49本で13年連続本塁打王になり、惜しくも2位となった。
 1975年にようやく43本塁打で王の33本に10本差を付けて王の14年連続本塁打王を阻止するとともに田淵自身最初で最後となる本塁打王を獲得。
 1979年にトレードで西武に移籍。
 1982年には25本塁打、1983年には30本塁打を放って西武の2連覇に貢献。1983年には正力賞を受賞。
 1984年限りで現役引退。
 捕手という厳しいポジションながら、恵まれた体格を生かした力強いスイングで、他の選手には見られない高くて美しい弾道のホームランを量産した天性のアーチストである。

 通算成績:実働16年 打率.260、474本塁打(歴代10位)、1135打点、1532安打。本塁打王1回(1975)ベストナイン5回(1972〜1976)

数々の伝説

 @法政大学で通算22本塁打

 田淵は、法政大学で山本浩二・富田勝とならんで3羽ガラスと称され、3人の中でも抜きん出た存在だった。
 3年生の春には通算8号ホームランを放ち、長嶋茂雄が持っていた東京6大学野球記録に並んだ。
 そして、慶応大学戦では左中間を破る当たりを放ち、明らかにランニングホームランで記録更新となるところにもかかわらず、三塁でストップ。
 それは、新記録はスタンドにまで運んで達成したかったからだという。
 もちろん、新記録は、その後すぐに達成され、最終的には大学通算22号本塁打という記録を残している。


 Aドラフトでは阪神が強行指名

 1968年の夏、巨人の川上哲治監督は、田淵に巨人の指名と背番号2を与えることを確約。
 しかし、1968年11月10日のドラフトでは阪神タイガースが田淵を予告なしに1位指名。
 田淵はその結果に涙したが、そのまま阪神入りし、22本塁打を放って新人王を獲得している。


 Bプロ初打席は3球3振

 1969年、田淵は甲子園の大洋戦で9回江夏豊の代打として打席に立った。これが田淵のプロ初打席である。
 しかし、マウンド上には後に通算200勝を達成する大エース平松政次が立っていた。
 田淵は平松のカミソリシュートと呼ばれる鋭いシュートの前にあえなく3球3振。
 それでも、翌日、田淵は6回と8回に本塁打を放ち、早くもアーチストとしての才能を見せ始めている。


 C耳つきのヘルメット採用のきっかけ

 プロ2年目の1970年、対広島戦で広島の外木場投手の剛速球を左こめかみに受けた田淵はその場に倒れこんだ。
 田淵の耳からは血が流れ落ちており、すぐさま担架で運び出され、救急車で病院に搬送された。
 この事態に衝撃を受けた球界は、以後耳つきヘルメットを使用することになった。


 Dたった一度の本塁打王

 田淵は、通算474本塁打を放っている。これは歴代7位の記録である。
 にも関わらず、タイトルにはあまり縁がなかった。
 それは、巨人の王・長嶋が同時代に活躍していたためである。
 1974年には自己最高の45本塁打を放っているが、王貞治が49本打ったため3年連続の本塁打2位に甘んじることになった。
 1975年、前年本塁打王の王がスランプに陥ったのに対して、田淵は前年に続いて好調を維持。
 最終的には王の33本に10本差をつけて43本で初の本塁打王となった。
 その後、トレードで西武に移り、1980年43本の本塁打を放ったが、近鉄のマニエルに5本差をつけられている。
 打点王・首位打者にも縁がなく、1975年の本塁打王が田淵が獲得した唯一の打撃タイトルとなっている。


 E巨人戦7打数連続本塁打

 1973年4月26日、田淵は後楽園球場で行われた巨人戦で6回に関本四十四投手から左翼席へ3号本塁打を放つと、8回に菅原勝矢投手から左翼席へ4号2ラン。打棒は勢いをさらに増して9回には同じ菅原投手から5号3ラン。
 そして、続いて5月9日に甲子園で行われた試合でも2回に高橋善正投手から左翼席へ9号ソロ。次の打席では死球に終わったものの7回には高橋投手から左翼席へ10号2ラン。9回にも高橋投手からセンターへ11号ソロを放って6打数連続本塁打とした。
 さらに翌10日には1回に高橋一三投手から左翼席へ12号2ランを放ち、同一カード7打数連続本塁打という不滅の記録を成し遂げた。
 

 F美しい本塁打と最強のバッテリー

 田淵の最大の持ち味は、高々と舞い上がり、スタンドに深々と舞い降りていく美しい本塁打。その虹のような美しさに、人々は「天性のアーチスト」と呼んだ。
 田淵は、阪神に入団したとき、2歳年下の江夏豊は既に阪神のエースだった。春のキャンプで初めて江夏の剛速球を受けた田淵に江夏は「球を捕るときにミットが動いている。それでは際どいコースがボールと判定されてしまう」と指導。田淵は、その日からミットを動かさずに江夏の剛速球を受けるため、左手を集中的に鍛える。
 それは思わぬ効果を生んだ。左腕を強化したせいで、外角の球をいとも簡単に美しい弾道でスタンドまで運べるようになったのだ。江夏が投げて田淵が援護する。オールスター9連続奪三振のときのバッテリーでもある。プロ野球史上に名バッテリーは数多くあれども、総合力なら彼らが最強のバッテリーだろう。




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