ヴィクトル・スタルヒン 
 1916(大正5)年、ロシアの南カテリンブルグ生まれ。投手。右投右打。背番号17(巨人)。1919(大正8)年、ロシア革命のあおりを受けて日本に亡命。白系ロシア人であるため、迫害を受けて祖国を追われたのである。1929(昭和4)年から旭川に移住する。
 旭川中学を中退して上京し、1934年11月26日にプロの全日本入り。
 11月29日の大宮球場で行われた日米野球の8回に登板、三者凡退にきってとって、順調にデビュー戦を飾っている。しかし、チームは、23−5で大敗した。
 1936年に巨人入り。入団2年目秋期に15勝7敗、防御率1.85の成績を残し、最多勝のタイトルを獲得する。春期の13勝と合わせて年間28勝を挙げた。この年の7月3日にはイーグルス戦でノーヒットノーラン(4−0)を達成している。
 1938年には春期14勝3敗、秋期19勝2敗という文句なしの成績を残して春期の最多勝、秋期の最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得し、シーズンMVPに輝いている。
 そして、翌1939年に42勝15敗、38完投という不滅の大記録を残し、最多勝と奪三振王となって、2年連続MVPに選出された。翌年にも38勝で最多勝して5シーズン連続最多勝を達成する。
 戦後、パシフィック(のちの太陽)に復帰し、その後、金星スターズ(のちの大映スターズ)、高橋ユニオンズ(のちのトンボユニオンズ)と球団を転々とするが、大映で1949年に27勝17敗の成績を残して6度目の最多勝を獲得する。
 1955年の9月にトンボで日本プロ野球史上初の300勝を達成し、その年7勝21敗の成績で現役引退。
 1957年1月、車の運転中に停車中の電車に激突し、40歳の若さで不慮の死を遂げた。 
 191センチという長身から投げ下ろすストレートは、全盛期は160キロほど出ていたと言われ、低めのコントロールが非常に優れていたそうである。

 通算成績:実働19年、303勝(歴代6位)176敗、防御率2.09(歴代5位)、1960奪三振。83完封(歴代1位)最多勝6回(1937春〜1940・1949)最優秀防御率1回(1938)最優秀勝率2回〈1938秋・1940)最多奪三振2回(1938・1939)
数々の伝説

 @ロシア人の野球選手

 幼い頃に日本に亡命してきたスタルヒンは、旭川の日章小学校で野球を知り、同小高等科野球チームで頭角を現し始める。6年生の時、チームを全道優勝に導いたスタルヒンは「怪童」として注目を集めた。
 旭川中学(現旭川東高校)では1933年・1934年の全道中学校野球大会で2年連続、決勝戦進出したのがスカウトの目にとまり、「第2回日米対抗野球」の全日本軍に引き抜かれて中学を中退して上京。このとき、上京に消極的なスタルヒンに対し、服役中の父の減刑を引き換え条件に出し、入団しなければ国外追放するという脅し(国籍がないため)をもかけたとも言われている。結局、スタルヒンは、巨人に入団し、エースへの階段を上り始めていく。


 A須田博という名前

 昭和15年秋、スタルヒンは、日本で野球をやっていくために、やむをえず名前を須田博に変えた。
 これは、日中戦争の長期化に伴って、野球連盟が全力をあげて、軍部に協力する体制をとったためである。
 日本野球連盟は「新体制運動」を公にして引き分け制度を廃止し、球団名をすべて日本字に変え、審判の判定も場内放送もすべて日本語に切り替えた。
 「プレーボール」は「試合始め」、タイムは「停止」、「セーフ」が「安全」、「アウト」が「無為」などと決めたのである。 
 スタルヒンは、語呂で付けたとしか思えない「須田博」という日本語名で投げ続けることが可能となったが、日本で野球を続けられない選手も出た。黒鷲の亀田忠、阪神の堀尾文人といったアメリカ国籍の日本人二世は、アメリカ政府の帰国命令によって、アメリカに戻っていってしまったのである。


 Bシーズン42勝

 1939年、スタルヒンはエースとしてほぼ毎日のように投げ続け、42勝15敗、防御率1.73の成績を残した。
 この記録は、シーズン最多勝とMVPであるとともに、1961年の稲尾和久と並んでシーズン勝利数の日本記録となっている。
 この年、試合数は96。そのうち68試合に登板して42勝。巨人は、66勝26敗4分で優勝を果たしているから勝ち数のほぼ三分の二をスタルヒンで勝ったわけである。
 42勝のうち、スタルヒン自身でサヨナラ安打を放って勝った試合が4試合もあった、という逸話も残っている。


 C復帰

 1944年は35試合が行われたのみで、9月に日本のプロ野球は終幕。太平洋戦争の戦況が悪化し、日本本土も危機にさらされ始めたことから11月には野球休止声明が出された。
 ロシア人のスタルヒンは、軽井沢抑留となり、外国人収容キャンプに閉じ込められることとなった。
 1945年8月に戦争が終わってからも、スタルヒンは、プロ野球には復帰せず、進駐米軍に在籍し、通訳を務めていた。
 しかし、それを元巨人監督で、パシフィックの監督となっていた藤本定義に発見され、スタルヒンは、パシフィックの選手としてプロ野球に復帰した。


 D史上初の300勝投手

 スタルヒンは、巨人入団後、常にエースとして投げ続け、1938年に33勝、1939年に42勝、1949年に38勝、と5回連続最多勝などで驚異的な勝ち星を積み重ねた。そして、戦前だけで勝ち星は199勝。1939年に史上初の通算100勝も達成している。
 戦後に復帰してパシフィックでの1勝目が史上初となる通算200勝だった。弱小球団に属しながらもスタルヒンは、勝ち星を積み重ね、1949年には27勝で6回目の最多勝を獲得する。そして、1955年9月4日、スタルヒンは、トンボでついに日本プロ野球史上初となる通算300勝を達成する。
 その後、スタルヒンは、通算303勝で引退したが、これは歴代6位となる記録であり、もし戦争による試合数の減少や休止がなければ、さらに記録が伸びていたことは間違いない。


 E通算完封83の日本記録

 スタルヒンは、1937年秋に4完封でシーズン最多完封に輝くと、5シーズン連続で最多完封を記録する。しかも、その間は、すべて最多勝である。
 1938年には9月23日から10月11日まで47イニング連続無失点という記録を樹立し、1940年にはシーズン16完封を記録した。1940年の防御率は何と0.97である。
 1949年にも9完封で6度目の最多完封を果たしたスタルヒンは、引退する1955年にも1完封を積み重ね、通算83完封という不滅の大記録を打ち立てたのである。



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