杉下 茂
 1925年、東京生まれ。右投右打。投手。背番号20。帝京商業を卒業後、ヂーゼル自動車、兵役、明治大学という道を歩んで1949年、中日に入団。
 大学時代に覚えたフォークと長身からの直球を武器に、プロ1年目から8勝を挙げた。
 2年目の1950年に27勝でエースに成長、209奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。
 1951年には28勝13敗、防御率2.35で初の最多勝に輝いている。
 1954年、32勝12敗、防御率1.39、273奪三振で最多勝と最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封で投手5冠を独占した。チームもリーグ優勝、日本一へと突き進み、杉下は、シーズン・日本シリーズ双方でMVPを獲得した。
 1950年から1955年までは6年連続20勝以上を記録。
 1955年5月10日にはノーヒットノーランを達成している。 
 1961年に大毎に移籍し、その年限りで現役引退。
 中日、阪神の監督を務めた。
 1985年、殿堂入り。

 眼鏡をかけた真面目そうな風貌の長身の投手で、投げ下ろす直球と魔球と言われた一度浮き上がって落ちるフォークで三振を奪い、川上哲治ら好打者を抑えた。

 通算成績(実働11年):215勝123敗、防御率2.23(歴代9位)。最多勝2回(1951・1954) 最優秀防御率1回(1954) 沢村賞3回(1951・1952・1954)最高勝率1回(1954)最多奪三振2回(1950・1954) ノーヒットノーラン1回(1955)

数々の伝説

 @アンダースローからオーバースローに転向

 杉下は、明治大学に入った頃は、まだアンダースローの投手だった。しかし、杉下は、以前からずっと上から投げ下ろす本格派になりたいという願望を持っていた。
 明大で九州・四国遠征をした際、ついに杉下は、オーバースローに転向する。
 そして、天知俊一監督からフォークボールを伝授されたのは、その直後のことである。
 もし杉下がアンダースローのままなら、おそらく以後のフォークボール伝説は生まれていなかっただろう。


 A日本でフォークボールの元祖

 杉下は、帝京商では一塁手だったが、明治大学に入って投手に転向した。
 1948年、九州・四国へ遠征した際、明治大学監督の天知俊一からフォークボールを伝授される。
 天知は、全日本チームの捕手として1922年に来日した大リーグチームのペノック投手から伝授されていた。
 杉下は、他の投手よりも指が長かったため、猛特訓の末、マスターできたという。
 当時はまだ日本でフォークボールを投げられる投手はおらず、杉下のフォークは「魔球」と恐れられた。
 それでも、杉下は、肘の負担を考えてか、好打者にしかフォークを投げなかったという。
 数々の名勝負を繰り広げた川上哲治には、故意にフォークの握りを見せてから投げたという。
 それでも、全盛期のフォークは45センチ以上落ちたと言われ、捕手も捕れない球があった。
 川上は「捕手が捕れないのに打てるわけがない」と嘆いたという伝説も残っている。


 Bあわやノーヒットノーランが負け試合に

 1949年10月1日、一宮球場での中日×東急戦では、先発の杉下茂が好投。剛速球で東急打線を完璧に抑え、8回まで四球のランナーを2人と失策の1人を出しただけだった。
 しかし、8回表、杉下は、投手強襲の浜田の打球を受けて右手の指を痛めたため、降板。
 8回をノーヒットノーランしながら負傷で記録挑戦ができなくなったのである。
 9回表に急遽、服部がリリーフに立ち、9回表を無安打に抑えた。
 しかし、スコアは0−0のまま、延長戦に突入。
 10回表、先頭打者で打席に立った大下弘が放った初安打は、カウント0−2から右翼スタンドへ吸い込まれるソロ本塁打となった。
 この一発により、東急は、9回をノーヒットノーランされながら勝利する、という珍記録を作ってしまい、中日は負け試合となってしまったのである。


 C大リーグから入団の誘い

 1951年3月、杉下は、サンフランシスコ・シールズの春季キャンプに参加している。杉下は、大リーグの選手たちの打撃投手を務めた。どんな球種でも自由に投げられるのだが、普通のピッチングをしていると見事なまでに打たれる。
 それが気に食わなかった杉下は、試しにフォークボールを放ってみた。
 すると、どの打者も空振りかボテボテの当たりしか打てなかったという。それを見ていた大リーグのコーチがシールズのオドウル監督に報告。
 オドウルは、打撃練習にならない、とあきれて杉下にフォークボール禁止令を出した。その後、メジャーでのオープン戦にも登板した杉下に大リーグ入団の誘いが来る。
 杉下は、帰りを待つ天知監督を気遣って帰国したものの、今となってみると、少し惜しまれる話である。


 DシーズンMVP+日本シリーズMVP

 杉下は、1954年、先発にリリーフにフル回転し、32勝12敗、防御率1.39、273奪三振、7完封で投手5冠王となった。
 これは、沢村栄治・スタルヒン・藤本英雄に続いて史上4人目の快挙だった。しかも、巨人以外の選手としては初の5冠王でもあった。
 杉下は、63試合に登板し、リリーフで挙げた勝利も10にのぼっている。天知監督が「スギ」と声をかければ、いつでもマウンドに上がったと言われている。
 中日もそのシーズンは86勝を挙げてリーグ優勝を果たし、杉下はシーズンMVPに選ばれた。同時に巨人の4連覇を阻止した。この年、もし巨人が優勝していたら結果的に9連覇となっていたため、杉下の功績は大きいと言えよう。
 中日は、ペナントの勢いをそのまま日本シリーズに持ち込み、西鉄を4勝3敗で破って日本一になり、3勝1敗、防御率1.38を残した杉下は、ここでもMVPに選出された。


 E審判も味方に

 杉下は、打者を見下ろすような飄々とピッチングをするが、登板の日には必ずと言っていいほど、3アウトをとってベンチに帰るとき、主審の近くを通って「今日もご苦労さまです」などと小声で話し掛けたという。
 それによって、杉下は、審判の自分に対する印象を良くし、打者に対して優位に立っていたのである。


 Fフォークボールから放棄試合

 1954年7月25日、大阪球場で行われた阪神×中日戦で、3回から先発の徳永喜久夫をリリーフした杉下は、好投し、2−2のスコアで延長戦に突入した。
 中日は、10回表に杉山の本塁打などで3点を奪い、5−2と大きくリードを奪う。
 そして、10回裏の阪神の攻撃で真田重男がカウント2−2から杉下の投げたフォークをファウルチップする。その球を捕手の河合が捕り、ノーバウンド捕球と見なされ、アウトを宣告されたが、阪神の松木監督はワンバウンド捕球だったと猛烈に抗議。
 阪神の藤村富美男が杉村主審を突き、松木監督も杉村主審を投げ飛ばしたことで、観客席からファンがなだれ込んでの乱闘に発展した。
 一時間後、松木監督と藤村が退場になって試合が再開されたが、打順が藤村のところにくると、退場したはずの藤村が打席に立ち、今度は杉村主審が抗議。またもファンが乱入してきて収拾がつかなくなり、ついに阪神の放棄試合となった。
 藤村は、この騒動のため、1014試合続いていた連続試合出場が途切れることとなった。


 G金田と無安打試合の応酬

 1955年の川崎球場で行われた国鉄×中日戦で、杉下は、金田正一と白熱する投手戦を演じた。
 7回に中日の杉山が金田からソロ本塁打を放って1点を先制。
 杉下は、9回を金田の四球一つに抑える素晴らしい内容で1−0で勝利し、ノーヒットノーランを達成した。
 その2年後の8月21日、中日球場での中日×国鉄戦で杉下と金田は投げ合うことになった。
 金田は、1回から完璧に中日打線を抑え、9回にようやく国鉄が鵜飼のタイムリーで杉下から1点を奪った。9回裏は、判定を巡って40分間の中断があったものの、金田は落ち着いて後続を打ち取り、1−0で完全試合を達成した。


 H3−0から代打逆転満塁サヨナラ本塁打を浴びる

 1956年3月25日の後楽園球場で行われた巨人×中日戦で、中日先発の大矢根博臣は、8回まで好投し、3−0とリードしていた。
 9回裏の巨人の攻撃は、加倉井がライト前ヒット、土屋四球で無死1・2塁のピンチを招き、大矢根は降板。リリーフのマウンドには杉下が立った。最初の打者広岡の放った当たりは平凡なショートゴロ。しかし、ショートがエラーしてしまい、無死満塁となった。続く藤尾を杉下は三振に打ち取る。
 ここで巨人の水原監督は、代打に樋笠一夫を送った。
 杉下が投げた3球目の直球は高めに入ってしまう。樋笠は、それを逃さず強振。打球は左中間スタンドに飛び込んでいった。これによりスコアは一気に3−4となり、代打逆転満塁サヨナラ本塁打を食らった杉下は、敗戦投手へと転落した。


 I中日球場火災のときに先発

 1951年8月19日、中日球場で行われた対巨人戦のデーゲームに杉下は先発した。
 3回裏、中日の西沢が打席に入ったとき、バックネット裏の観客席から突如出火。出火原因は、煙草の投げ捨てだと言われている。木造の観客席と強風が災いし、火は瞬く間に広がっていく。満員の3万5千人の観客はパニックになった。
 杉下ら選手たちは、全員で観客の救出にあたった。
 その火事は、結局、観客席を全焼させ、死者3名、重軽傷者約400名を出す大惨事となった。




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