ダリル・スペンサー
 1929年7月、アメリカ生まれ。右投右打。内野手。背番号25(阪急)。ウィチタ大学から大リーグのジャイアンツに入団する。1953年には大リーグで20本塁打を放ってレギュラーに定着し、1958年には17本塁打、74打点を残す。その後も、カージナルス、ドジャース、レッズと計4球団を渡り歩き、中距離ヒッターの内野手として10年間に渡って大リーグで活躍した。
 そして、1964年、日本の阪急と契約して来日する。
 1年目にいきなり打率.282、36本塁打、94打点の活躍で前年最下位のチームを2位に押し上げ、二塁手としてベストナインに選出される。
 1965年には野村克也と激しい本塁打王争いを繰り広げ、他球団の四球攻撃により本塁打王は逃したものの、打率.311、38本塁打、77打点という好成績を残した。2年連続のベストナインに選出され、最高出塁率にも輝いている。
 1966年は、20本塁打に終わったものの、1967年には打率.274、30本塁打を放って阪急のリーグ優勝に大きく貢献する。さらに日本シリーズでは3本塁打を放つ活躍を見せたが、2勝4敗で巨人に敗れた。
 1968年にも18本塁打を放ち、日本シリーズでも打率.467を残す活躍を見せたが、またしても2勝4敗で巨人に屈し、自身もその年限りで退団する。
 しかし、1971年には選手兼任コーチとして再び阪急に戻ってくる。42歳という年齢ながらシーズン6本塁打を放ち、翌1972年にも5本塁打を放つなど、2年連続のリーグ優勝に貢献したが、その年限りで現役を引退した。

 190センチの巨体ながら内野をどこでもこなし、巨体をホームベースに被せるように立つクラウチングスタイルの打法で、大リーグ時代は中距離ヒッターとして、日本ではホームランバッターとして活躍した。その卓越した頭脳と大リーグ仕込みの激しいプレーは、「怪物」の名をほしいままにし、阪急の黄金時代を築く礎となった。

日本(実働7年):打率.275、152本塁打、391打点、615安打。ベストナイン2回(1964〜1965)最高出塁率(1965)
大リーグ(実働10年):打率.244、105本塁打、428打点、901安打。
日米通算(実働17年):打率.256、257本塁打、819打点、1516安打。
数々の伝説

 @アメリカ大リーグで活躍

 スペンサーは、大学を卒業後、大リーグのジャイアンツに入団する。そして、23歳の1953年に頭角を現し、シーズン20本塁打を放って頭角を現すと、1958年には17本塁打、74打点の活躍も見せる。
 1959年には自己最高となる147安打を放ち、カージナルスへ移籍した1960年にも16本塁打を放っている。
 その後、ドジャース、レッズと計4球団を渡り歩いたスペンサーは、1964年に、日本の阪急と契約し、34歳にして来日する。
 大リーグ通算成績は、10年間で打率.244、105本塁打、428打点で、三塁手、遊撃手、二塁手と内野の守備位置3箇所をこなせるプレーヤーでもあった。
 1963年は、大リーグでの出場試合が57試合と出場機会に恵まれていなかったスペンサーは、来日してその鬱憤を晴らすこととなる。


 Aサイクル安打を日本に広める

 1965年7月16日、スペンサーは、近鉄戦で延長12回裏に三塁打を放ち、5打数4安打とした。既に本塁打、二塁打、単打も放っていたからである。
 しかし、試合後、スペンサーに対して、球団の関係者やマスコミは、一向に祝福もせず、その話さえ切り出さない。
 不思議に思ったスペンサーは、マスコミを問い詰める。自らが記録したのは、サイクルヒットと呼ばれる貴重なもので、大リーグでは必ず祝福される快挙であることを明かしたのだ。
 これにより、サイクルヒットという概念さえなかった日本のマスコミやプロ野球関係者は、過去のサイクルヒットを調べてその貴重さを知り、日本でも達成すると、大きく扱われるようになったのである。


 B熱心な研究と走攻守で見せるスケールの大きさ

 現役大リーガーのスペンサーではあったが、来日当初は、変化球の多い日本野球に戸惑い、調子は上がらなかった。しかし、投手の配球や癖を熱心にメモし、研究を重ねた結果、徐々に実力を発揮し始め、1年目から36本塁打、94打点という素晴らしい結果を残したのである。
 また、二塁や本塁への突入時に見せる豪快なスライディングは、大リーグ仕様をそのまま持ち込んだもので、日本のプロ野球に大きな衝撃を与えた。セリーグの巨人では、既にウォーリー与那嶺が豪快なスライディングで衝撃を与えており、彼らが見せる大リーグ級のスライディングは、併殺打を防ぐ手段として日本野球にも定着していくことになる。
 また、スペンサーの守備も、大リーグ級として絶賛を受ける。打者の打球方向をメモして打者毎に守備位置を変え、アウトの確率を高めた。また、大柄な体ながら俊敏な動きで矢のような送球ができ、ヒット性の当たりを1塁でアウトにするのはもちろん、ヒットで本塁突入を狙う2塁ランナーを、外野からの中継で捕手へ素早い送球を見せてアウトにするなど、走攻守に渡って桁外れの実力を見せたのである。


 C8打席連続四球

 1965、スペンサーは、南海の主砲野村克也と打撃3部門で激しいタイトル争いをしていた。8月14・15日の盆休みにその事件は起きている。
 スペンサーは、それまで33本の本塁打を放って野村の28本をリードしており、野村が三冠王を獲るためにはスペンサー以上の本塁打数を残すことが必要だった。
 当時の日本人の多くは、野村の三冠王獲得を期待していたようである。他チームの投手は、スペンサーに本塁打を打たせまいとこぞって四球攻撃をしかけた。
 そして、8月14・15日には、東京オリオンズの投手陣がスペンサーを8打席連続で歩かせるという作戦に出たのである。14日の最後2打席を坂井勝二投手に歩かされたスペンサーは、ダブルヘッダーとなった15日1試合目でも小山正明投手から4打席連続四球で歩かされる。そして、ダブルヘッダー2試合目の第1、第2打席も牧勝彦投手から歩かされたのである。この8打席連続四球は、大毎の山内和弘が1959年に首位打者争い渦中に記録した6連続敬遠四球を超える当時の日本記録だった。
 スペンサーは、9打席目に敬遠のボール球を無理やり打って凡退し、自ら記録を止めているが、その四球攻撃でスペンサーは完全に調子を崩していくことになる。


 D野村克也との悲壮なタイトル争い

 8打席連続四球を機に、スペンサーは、他球団から徹底して勝負を避けられ、それに飽き飽きして本塁打のペースも打率も落として行った。
 10月3日に行われた野村克也がいる南海戦で、スペンサーは、ついにバットのヘッドを持って、つまりグリップとヘッドを逆さまで構えて打席に立つという抗議行動に出る。
 しかし、南海は、そんなスペンサーをあざ笑うように敬遠。
 10月5日、スペンサーは、バイクで衝突事故を起こして右足脛を骨折し、その後の残り11試合を棒に振った。このとき、野村の本塁打数は40本、スペンサーの本塁打数は38本と2本差だった。この事故がなくとも、四球攻めにより、タイトル獲得は不可能であっただろうが、スペンサーにとっては痛恨の事故となった。
 最終成績は、スペンサーが.311、38本塁打、77打点。野村が.320、42本塁打、110打点である。
 この年、スペンサーは、ベストナインと最高出塁率獲得だけにとどまったものの、野村克也は、生涯唯一の三冠王を獲得したのである。


 E数々の武勇伝を残した「怪物」

 スペンサーには、2塁への強烈なスライディングやバット逆さ持ち打席だけでなく、多くの武勇伝を記録している。
 1966年には、敬遠四球に抗議するため、4ボールでないにも関わらず1塁へ歩いて行き、打席へ連れ戻されるという事件を起こしている。もちろん、戻った打席でも結局は四球である。
 また、1966年6月には死球を受けた次の打席で、普通なら二塁打であるにもかかわらず、三塁へ暴走し、三塁手へ体当たりをして3メートル吹っ飛ばしている。
 また、1967年6月8日には前日に自らの守備でエラーと記録されたのに腹を立て、試合前に公式記録席へ乱入してスコアブックを粉々に切り裂くという事件も起こした。
 同じ年の8月27日には本塁突入時に捕手野村克也の正面に膝から突っ込み、その後、大乱闘を演じるなど、豪快な武勇伝はとどまるところを知らない。
 しかし、こういった武勇伝は、ただ単に血の気が多かったというわけではなく、日本球界への抗議であったり、相手チームにダメージを与える、といった目的ある策略だったとも言われている。


 F信じ難い謀略

 スペンサーは、チームを勝たせるために様々なメモをとり、相手投手や相手打者の癖をチームメイトに教えるなどして勝利に貢献していたが、ある日、驚くべき行動をとった。
 それは、西宮球場で、スペンサーの打球が最もよく飛ぶ左中間の丸く外側に膨らんでいる外野フェンスを真っ直ぐにして内側に出し、最大3メートル球場を狭くしてしまおう、というものだった。確かにそうすれば、スペンサーの大きな外野フライは本塁打になるはずである。
 最初、スペンサーからそれを提案された西本幸雄監督は、度肝を抜かれたが、渋々承諾すると、スペンサーは、フェンスを本当に移動させてしまった。しかし、その日、スペンサーは、逆に力んでしまい、4打数3三振と一度も左中間に打球を飛ばすことはできなかったという。


 G日本シリーズで奮闘

 スペンサーは、1967年、1968年、1971年、1972年と在籍6年中4回も日本シリーズに出場している。
 主力打者として出場した1967年には、第1戦で巨人の金田正一から本塁打を放ち、第5戦でも貴重な同点2ラン本塁打を放つ。第6戦でも追い上げる2ラン本塁打を放ったものの、阪急は2勝4敗で巨人に敗れた。
 1967年のスペンサーの日本シリーズ成績は、6試合で打率.292、3本塁打、5打点だった。

 1968年にも6試合中5試合に出場し、打率.467、0本塁打、5打点、15打数7安打と1人で気を吐いたものの、最強の巨人の前には歯が立たず、2勝4敗で巨人のV4を許した。


 HオールスターMVP

 1965年、スペンサーは、オールスターゲームにファン投票で選出され、2度目の出場を果たす。
 第1戦に先発出場したスペンサーは、いきなり1回表にセリーグ先発の村山実から先制のライト前ヒットを放つ。
 2−1と追い上げられて迎えた3回表の第2打席では、宮田征典の内角低めの直球をレフトスタンド上段にまで運び、3−1と突き放す。
 試合は、5−2でパリーグが勝利し、4打数2安打2打点のスペンサーは、MVPを獲得した。


 I一旦退団し、2年後復帰

 スペンサーは、1968年限りで阪急を退団する。当時、既に39歳であり、もはや引退してもおかしくない歳ではあったが、まだ18本塁打を放っていたことを考えれば、まだまだ現役でやれることも間違いなかった。
 スペンサーの退団により、空き番となった背番号25は、新人の山田久志が着けることになった。そして、2年後の1971年、スペンサーは、選手兼任コーチとして復帰する。そして、スペンサーは再び25を着け、明渡した山田は17を着けてエースとして大きく飛躍することになる。
 スペンサーは、コーチ兼任ながら、パンチ力は健在で、1971年には6本塁打、1972年には43歳で5本塁打を放った。1972年限りで退団することになったものの、スペンサーが阪急に残した研究資料「スペンサーメモ」は、その後、チーム内で重宝され、阪急黄金時代到来の礎になったとさえ言われている。



(2007年3月作成)

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