正田 耕三
 1962年1月、和歌山県生まれ。右投左右打ち。内野手。背番号4。市立和歌山商業高校から新日鉄広畑に進み、1984年のロサンゼルス五輪に出場し、金メダルを獲得する。1985年、ドラフト2位で広島に入団する。
 1年目は57試合出場に終わったものの、2年目にはスイッチヒッターに挑戦し、90試合に出場して打率.288、10盗塁の成績を残して広島のリーグ優勝に貢献する。
 1987年にはレギュラーに定着して打率.333、30盗塁の活躍で首位打者に輝く。また、堅実な二塁守備も評価され、ゴールデングラブ賞を獲得する。
 1988年には打率.340の高打率で2年連続首位打者を獲得し、初のベストナインにも選出される。この年のオールスター第3戦ではMVPも獲得する。
 1989年には打率.323、34盗塁で初の盗塁王に輝き、2度目のベストナインにも選出される。この年の10月に記録した1試合6盗塁は、日本記録である。
 1990年にも打率.301を残して4年連続3割を達成し、1991年には5年連続ゴールデングラブ賞に選出される。この年は、打率.291、52打点で広島のリーグ優勝に大きく貢献する。
 1992年には打率.301で5度目の打率3割を達成する。
 1996年には10年連続100安打以上を記録し、41犠打を残す。1998年も打率.274、103安打を記録したが、その年限りでレギュラーのまま現役を引退した。

 170センチと小柄ながら豊富な練習量によってミートの巧い安打製造機として活躍し、守備と走塁の面でも広島を支えた。2度のリーグ優勝にも貢献している。

通算成績(実動14年):打率.287、44本塁打、391打点、1546安打、146盗塁、282犠打。首位打者2回(1987・1988)盗塁王1回(1989)ベストナイン2回(1988・1989)ゴールデングラブ賞(1987〜1991)

数々の伝説


 @子供の頃から阪神ファン

 正田は、大阪府に近い和歌山県出身ということもあって、少年時代から熱烈な阪神ファンだった。
 社会人野球の新日鉄広畑時代には、阪神が負けると寮の部屋から出て来なかったという伝説も残っている。

 しかし、ドラフトで指名されたのは、阪神ではなく、広島だった。
 正田は、周囲が入団拒否するのでは、との予想に反してあっさり広島に入団する。広島入団を表明した記者会見では私情を捨てて広島に入る職業野球人としての覚悟を表明している。正田は、ファンとしての立場とプロ野球選手としての立場は別物という考え方をしたのだった。
 その後、正田は、並外れた練習量をこなして広島でスター選手となり、2度のリーグ優勝にも貢献してFA権を取得したものの、広島一筋で現役時代を終える。
 引退後は、広島、近鉄でコーチを務めたが、2005年にはついに念願叶って阪神のコーチに就任し、2年間務め上げている。


 Aロサンゼルス五輪で金メダル獲得

 野球が五輪に登場したのは、1984年のロサンゼルス五輪だった。正式種目ではない公開競技ながら、日本代表は、快進撃を見せる。それを攻守に渡って支えたのがセカンドを守り、1番打者として活躍した正田である。
 さらに、この五輪では、のちにプロ野球で活躍する伊東昭光や伊藤敦規、宮本和知、広沢克己、和田豊ら、戦力が充実していた。
 準決勝で台湾を破った日本は、決勝でもアメリカを6−3で破って金メダルを獲得する。アメリカは、のちに大リーガーとなる選手が揃った強豪チームだった。
 ロサンゼルス五輪での活躍により注目を集めた正田は、その年の11月、広島からドラフト2位指名を受けるのである。


 Bプロに入ってからスイッチヒッター

 正田は、アマチュア時代、右打者として活躍してきたが、プロ1年目を終えた時点で右打だけでプロでやっていくことに限界を感じ、スイッチヒッターに挑戦する。
 当時、広島には高橋慶彦がスイッチヒッターとして活躍しており、正田は、並外れた練習量によって、左打ちをマスターし、安打製造機としての階段を上がり始める。
 日本を代表するスイッチヒッターとなってからも、その練習量は変わらず、そのせいで右手首に故障を抱えることになる。それでも、変わらない練習量に首脳陣からは練習禁止令が出るほどだったという。


 C首位打者でシーズン0本塁打

 正田は、身長170センチと小柄ながら、重いバットを短く持ってコンパクトに打球を左右に打ち分けて安打を量産する打撃スタイルで、1987年には打率.333、翌1988年には打率.340で2年連続首位打者を獲得する。
 しかし、正田は、本塁打を捨てて内外野の間を抜く打撃に徹しており、広島市民球場という本塁打が出やすい球場を本拠地にしながら、1987年のシーズン本塁打は0本である。シーズン本塁打0本で首位打者を獲得したのは、戦後プロ野球初の快挙であり、プロ野球史上3人目の記録でもあった。
 翌年は、シーズン本塁打3本を記録しており、2年連続本塁打0本の首位打者という記録は逃す。正田のプロ14年間の通算本塁打数は44本と、年間3本ペースであり、2桁本塁打は1度も記録していない。


 Dセーフティバントで首位打者確定

 1987年セリーグの首位打者争いは、正田、篠塚利夫、落合博満、中畑清が僅差で10月にもつれこんだ。
 正田は、10月に入った時点では打率4位だったが、他選手の様子を見ながら巧みに休養を挟み、10月21日を迎えた時点では打率.332で2位。1位の篠塚とは1厘差で、この試合で1打数1安打なら篠塚と並ぶという状況になった。
 正田は、21日のヤクルト戦に先発出場すると、第1打席で足を生かしたセーフティーバントを決め、打率.333として退いた。
 正田は、そのまま篠塚と並んで首位打者を獲得している。


 E結婚資金のオールスターMVP

 正田は、1988年のオールスター第3戦で途中出場すると7回裏にレフト前へ2−2に追いつく同点タイムリーヒットを放つ。そして、9回表の守備ではダイビングキャッチを見せ、ピンチを防ぐ。さらに、10回裏にはレフト前ヒットを放つとすかさず盗塁を決め、チャンスを広げて得点につなげる。
 試合は、3−3で延長12回までもつれるが、この回先頭打者で打席に入った正田は、牛島和彦からライトへの3塁打を放ち、水野雄仁の犠牲フライで4−3とサヨナラ勝ちを収める。
 この試合で3打数3安打1打点2得点の活躍を見せた正田は、MVPを獲得する。試合後のインタビューでは、MVPの賞金をその年のオフに予定の結婚資金にする旨を発表した。


 F1試合6盗塁で逆転盗塁王

 1989年10月15日の中日戦は、既に消化試合だったが、正田は、先発出場する。この試合前まで28盗塁だった正田は、32盗塁を記録しているヤクルトの苫篠賢治を追いかけていた。
 この試合では、正田の打撃と走塁が冴え渡る。初回にエラーで出塁した正田は、2盗を決め、2回には安打を放って2盗、3盗を立て続けに決める。そして、5回にも安打を放った正田は、またしても2盗、3盗を決める。
 さらに、7回にも安打を放った正田は、2盗を決め、1試合6盗塁のプロ野球タイ記録を達成し、34盗塁として一気に苫篠を抜き去った。
 この回は、3盗を狙って走ったものの、失敗に終わり、プロ野球新記録は逃している。
 それでも、この1試合6盗塁が効いて、正田は、シーズン34盗塁で初の盗塁王を獲得する。


 Gゴールデングラブ賞5回

 正田は、打撃と走塁だけでなく、守備でも超一流だった。二塁手として俊敏な動きで広い守備範囲を誇り、ときには華麗なダイビングキャッチでファンを魅了した。特に高橋慶彦と組んだ二遊間は、鉄壁を誇り、また華があった。
 首位打者を獲得した1987年には篠塚利夫を抑えて二塁手のゴールデングラブ賞に輝き、以来、1991年まで5年連続ゴールデングラブ賞を受賞した。
 正田は、プロ1年目に三塁を3試合守った以外はすべて二塁手としての出場であり、引退まで一度も二塁手のレギュラーを渡すことがなかった球史に残る二塁手である。


 H惜しまれる引退

 1998年、正田は、プロ14年目を迎えていたが、相変わらずレギュラーとして活躍し続けていた。この年も、110試合に二塁手のレギュラーとして出場し、規定打席に到達して打率.274、103安打を放つ。
 しかし、正田は、その年限りで引退を決断する。まだ36歳と若く、まだまだレギュラーとしてやっていけるだけの実力を維持していた。にもかかららず、走攻守が揃ったプレーができなくなったという理由で「やり残したことはない」と潔く退いた。
 あまりにも早い引退だったため、翌年以降も正田不在を嘆くファンや関係者が多く存在した。




(2008年12月作成)

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