篠塚 和典
 1957年7月、千葉県生まれ。旧名:篠塚利夫。内野手。右投左打。背番号37→6。銚子商業高校2年で春、夏と甲子園に連続出場し、夏は全国制覇を果たす。その後、湿性肋膜炎にかかって一時は野球生命まで危ぶまれたものの、衝撃的なドラフト1位指名で1976年に巨人へ入団する。
 2年目の1977年に初めて1軍の試合に出場し、1979年には76試合に出場して打率.278を残すと、翌年にはレギュラーの座に就く。
 1981年には打率.357を残して僅差のリーグ2位となり、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出される。若手で多くの選手が台頭した巨人は、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも打率.313を残し、V9以来の日本一達成に大きく貢献する。
 1982年には打率.315で2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞し、リーグを代表する好守のアベレージヒッターとなる。
 1983年も、打率.307、13本塁打を残してチームのリーグ優勝に大きく貢献する。
 1984年には打率.334でついに首位打者を獲得し、3度目のベストナイン、ゴールデングラブ賞の同時受賞を果たす。
 1986年には打率こそ.291だったものの、4度目となるベストナイン、ゴールデングラブ賞の同時受賞を達成する。
 さらに1987年には打率.333で2度目の首位打者を獲得して、チームをリーグ優勝に導き、5度目のベストナインにも輝く。日本一こそ逃したものの、日本シリーズでは打率.409を記録している。
 1988年も打率.316でリーグ3位の成績を残す。
 1989年には日本一、1990年にはリーグ2連覇に貢献する。
 1990年以降は、持病の腰痛と闘いながらのシーズンが増え、規定打席に到達することはなくなったが、1993年には規定打席未満ながら打率.337を残す。
 1994年、チームは日本一になったが、自身はシーズン打率.238に終わり、現役を引退した。

 流れるような打撃フォームで体勢を崩されてもバットの芯でとらえる技術は、芸術品だった。アベレージヒッターとしてだけでなく、守備の美しさも芸術品で、名門巨人の攻守の要として6度のリーグ優勝に貢献した。

通算成績(プロ19年、実働18年):打率.304、92本塁打、628打点、1696安打。首位打者2回(1984、1987)ベストナイン5回(1981〜1982、1984、1986〜1987)ゴールデングラブ賞(1981〜1982、1984、1986)

数々の伝説

 @甲子園で木製バットにこだわる

 篠塚が甲子園に登場したのは、1974年の春だった。2年生ながらレギュラー三塁手として2試合連続で2安打を放つ活躍を見せたのである。
 そして、夏の甲子園では篠塚の打撃技術が冴え渡る。金属バットがこの大会から導入されたにもかかわらず、篠塚は、飛ばない木製バットにこだわり、金属バットを使用しなかった。プロでやっていくために木製バットの感覚を失わない目的だったと言われる。
 それでも、篠塚は、大会を通じて2本塁打を放つ活躍を見せて、エースの土屋正勝とともに全国制覇の原動力となった。初戦のPL学園を5−1で破ったのに続き、中京商を5−0、準々決勝で平安に6−0、準決勝で前橋工に6−0、決勝で防府商に7−0と、他の強豪高を全く寄せ付けない圧倒的な強さでの優勝だった。


 A病気を克服してプロで活躍

 2年生で夏の甲子園を制覇してプロからも注目された篠塚だったが、その後は湿性肋膜炎を患って入院をよぎなくされる。
 3年生のときは、甲子園に出場することも叶わなかった。
 一時は野球続行も疑問視されたが、巨人は、篠塚をドラフト1位で強行指名する。この指名を決断したのは、当時の巨人監督だった長嶋茂雄である。ドラフト会場は、篠塚指名の瞬間、異様にどよめいたという。まさか、病気で長いブランクと不安がある篠塚を1位指名するとは、誰もが予想してなかったのだ。
 だが、長嶋は、篠塚の打撃技術に惚れ込み、必ず大成することを確信していた。
 その後、伝説となった1979年の伊東キャンプで徹底的に長嶋から鍛えられた篠塚は、長嶋の見込み通り、巨人の歴史上に残るアベレージヒッターへと成長を遂げる。
 今では松井秀喜獲得と並ぶ、長嶋のドラフトにおける2大功績である。


 B打率.357で首位打者を逃す

 1981年の篠塚は、ルーキー原辰徳の加入でレギュラーも危ぶまれたが、実力でそれを跳ね返してシーズンを通じて安打を量産し続け、初めて規定打席に到達する。そして、首位打者争いにも参戦し、チームの快進撃を支えた。
 この年は、阪神のベテラン藤田平が好調で、首位打者争いは、打率.350を超えるハイレベルなものとなる。
 結局、篠塚は、打率.357を残したものの、藤田が.358を残したため、わずか1厘差で首位打者を逃す。セリーグではそれまで.357以上を残して首位打者を獲得できなかった打者はおらず、セリーグ史上、最も高い打率での2位でもあった。とはいえ、ヒット数では藤田を15本も上回っており、篠塚の活躍に導かれてチームもリーグ優勝を果たしており、首位打者と同等の価値があると言っていい。
 この首位打者争いが貴重な経験となり、篠塚は、その後、僅差の勝負で首位打者を2度獲得することになる。


 C熾烈な首位打者争いを制す

 1984年は、5厘差で首位打者をものにした篠塚だったが、1987年の首位打者争いは、さらに熾烈を極める。シーズン終了も間際に迫った10月1日時点で.330から.335までの間に4人がひしめく大混戦となったからである。
 本命は、前年にパリーグで打率.360を記録して三冠王も獲得した落合博満と思われたが、篠塚は、粘り強い打撃を見せ、結局、落合の打率.331を上回る.333を残す。正田耕三は、篠塚が全日程を終えた後、バント安打を決めて.333で並び、篠塚と正田が同率で首位打者となった。
 この首位打者争いの最中、それぞれが欠場を利用して様子を見る作戦を多用したため、批判が挙がったが、篠塚は、そんな重圧に負けることなく、首位打者を確実にものにした。


 D疑惑のホームラン

1990年4月7日、東京ドームで行われたヤクルト戦は、巨人がリードを許す苦しい展開となる。8回表まで1−3と2点差をつけられている。
 だが、8回裏、巨人は、1死2塁のチャンスをつかみ、篠塚が打席に立った。
 ここで篠塚は、ヤクルトの投手内藤尚行から大飛球を放つ。しかし、それは、豪快に引っ張ったため、ライトのポール際へ飛んでいった。飛距離は充分である。
 一塁塁審は、この打球を本塁打と判定し、3−3の同点となった。しかし、テレビは、その打球がライトポールの外側を通過していくのを映し出していた。
 しかし、ビデオ判定は、プロ野球に導入されてないため、審判の判定がすべてである。ヤクルトの野村克也監督は、猛然と抗議したが覆らない。試合後、世間は、巨人びいき判定と揶揄し、この年から導入となった審判四人制が問題となった。
 だが、巨人は、その試合を延長の末、4−3で勝利すると、波に乗って勝ちまくり、88勝42敗で2位に史上最大の22ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。
 そのため、この疑惑のホームランは、その後、リーグ優勝さえも左右したホームランとして語られることになる。さらに、このホームランの後、東京ドームのポールの色は、白から黄色に塗り替えることになって、他球場でもそれが主流となっていき、篠塚は、ポールの色を変えた選手となった。


 E防御率0点台の伊藤智仁からサヨナラ本塁打

 1993年6月9日、ヤクルトの先発投手伊藤智仁は、剛速球と高速スライダーで打者を手玉に取り、9回裏2死まで無失点、16奪三振を記録していた。1試合16奪三振は、セリーグタイ記録で、3アウト目を三振でとれば、日本タイ記録の17奪三振となる。
 スコアは0−0である。ここで打席に立ったのが途中出場の篠塚だった。篠塚は、伊藤のあせりを見てとり、伊藤が投球動作に入ろうとした瞬間、2度にわたって打席を外す。
 それにリズムを狂わされた伊藤の直球は、内角のやや甘いところへ入る。それを狙い打ちした篠塚の打球は、歓声とともにライトスタンドへ吸い込まれていった。誰もが打ち崩せないとあきらめていた伊藤からのサヨナラ本塁打だった。
 この年、伊藤は、驚異の防御率0.91で新人王に輝くが、篠塚も、規定打席未満ながら打率.337を記録している。


 F6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献

 篠塚は、現役を通じて6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献している。特に1981年は、首位打者に1厘差という打率.357でベストナインとなり、日本シリーズでも打率.313で日本一に大きく貢献した。また、巧みな守備位置と華麗な捕球と送球でもファンを沸かせ、ゴールデングラブ賞にも輝いた。
 1983年も打率.307、そして自己最高の13本塁打の活躍で巨人をリーグ優勝に導き、日本シリーズでも日本一こそ逃したものの打率.333を残した。
 また、1987年は打率.333で首位打者を獲得し、日本シリーズでも打率.409とMVP級の活躍を見せたが、惜しくも西武に2勝4敗で敗れた。
 1980年代の巨人は、江川、西本、原、中畑、クロマティといった選手に加え、桑田、斎藤、槙原らの台頭もあって毎年優勝争いに絡んだ。
 1989年には日本シリーズで3連敗の後4連勝を果たし、1990年には史上最多ゲーム差でリーグ優勝、1994年には伝説の10.8でのリーグ優勝と日本一を経験するなど、ドラマチックな優勝に縁があった。


 G長嶋級のアベレージヒッター

 篠塚は、通算1696安打を放っているものの、通算本塁打が92本で、典型的なアベレージヒッターだった。
 規定打席に達したうち、打率3割以上が7回あり、5年連続3割も達成している。体勢が崩れても絶妙のバットコントロールで左右に打ち分ける技術は、芸術というほかなかった。その卓越したバッティング技術に憧れるファンは多く、チームメイトの原や中畑、江川らと並んで80年代のスター選手となり、オールスター出場9回中7回がファン投票による選出である。腰痛がひどくならなければ、通算2000本安打は軽く達成できたはずである。
 公式戦の終身打率は.304。4000打数以上の打者の中で、巨人では.313の川上哲治、.305の長嶋茂雄に次いで第3位の成績である。
 また、オールスターでの通算打率も.327、日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するなど、活躍を見せたが、日本シリーズの通算打率は.292で、あと1本ヒットを放っていれば、公式戦、オールスター、日本シリーズ全てに3割を達成できたという惜しい記録も残している。





(2006年8月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system