新庄 剛志
 1972年1月、長崎県生まれ。右投右打。外野手。日本ハムでの登録名:SHINJO。背番号63→5(阪神-メッツ-ジャイアンツ-メッツ)→1→63→1(日本ハム)西日本短大付属高校(福岡)で3年時に夏の県大会決勝でサイクル安打を放つ。1990年にドラフト5位で阪神に入団。
 1年目は1軍出場なし。2年目の1991年に1軍で初打席初ヒットを記録。
 1992年には主砲オマリーの故障により出場した試合の第1打席に本塁打し、そのままレギュラーに定着。打率.278、11本塁打の成績を残してチームを優勝争いに参入させ、2位に押し上げた。
 1993年には23本塁打を放って初のベストナインに選出され、ゴールデングラブ賞も受賞する。
 だが、1995年には不振に陥り、藤田平監督との確執から引退宣言をして世間を驚かせたが、ほどなく撤回した。
 翌1996年には2年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞。この年から5年連続ゴールデングラブ賞を受賞することになる。
 1997年には不振にも関わらずオールスター出場を果たしたため、オールスター史上初の応援ボイコットという屈辱を受ける。
 1999年6月の巨人戦では敬遠球をサヨナラ安打する、という離れ業を演じた。その年のオールスター第3戦ではMVPを獲得し、2年前の屈辱を自らのバットで晴らした。
 2000年には打率.278、28本塁打、85打点の好成績を残し、FA宣言をする。そして、阪神の5年12億円という待遇を蹴って年俸20万ドル(約2200万円)で大リーグのニューヨーク・メッツと契約した。
 2001年にはメッツで打率.268、10本塁打、56打点とまずまずの成績を残す。日本人初のメジャー四番打者を経験し、ルーキーベストナインにも選ばれる。ところが、オフに突如トレードが決定してサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍。2002年は打率.238、9本塁打でチームのワールドシリーズ出場に貢献。ワールドシリーズでもヒットを放った。しかし、そのオフにまたしても移籍で再びメッツへ。2003年は控え扱いであまり出場機会に恵まれなかった。
 2004年には日本復帰を決意し、北海道に本拠地を移す日本ハムと契約。2004年オールスターでは予告MVP宣言をし、第2戦で本当にMVPを獲得した。打っても、シーズン打率.298、24本塁打を記録する。
 2006年は、4月にそのシーズン限りの引退宣言をして臨み、日本ハムをシーズン1位、リーグ優勝、そして44年ぶりの日本一に導いて引退の花道を飾った。

 俊足と150キロ近い球を投げる強肩を生かした守備や華のある言動で国民的な人気を誇るスターとなった。数々のパフォーマンスをはじめ、フライを常にジャンピングキャッチする独特のスタイルやパンチ力のある打撃でも観客を魅了し続けた。

通算成績(2006年末現在):(日本13年)打率.254、205本塁打、716打点、1309安打。ゴールデングラブ賞9回(1993・1994・1996〜2000、2004〜2006)ベストナイン3回(1993・2000・2004)
(米大リーグ3年)打率.245、20本塁打、100打点、215安打。
(日米通算16年)打率.252、225本塁打、816打点、1524安打。

数々の伝説


  @高校野球県大会決勝でサイクル安打

 新庄は、西日本短大付属高校で外野手として頭角を現していた。しかし、新庄のいた当時の西日本短大付属は、甲子園に行くことができなかった。
 最も惜しかったのは、新庄が3年生だった1989年の夏である。県大会で決勝まで進み、決勝戦で新庄は、サイクル安打を達成する。
 しかし、試合には敗れ、新庄は、甲子園を経験せずに高校生活を終えた。その甲子園で新庄がヒーローになるのは3年後のことである。


  A優勝争いの渦中に台頭

 1992年5月26日、主砲オマリーが故障したため、新庄はスタメンで出場することになる。その第1打席でいきなり豪快な本塁打を放つと、そのまま1軍定着を果たす。
 波に乗った新庄は、好調を持続させ、外野手としてレギュラーを獲得。阪神は、新庄や久慈照嘉、亀山努といった若手選手の台頭により、首位争いを繰り広げる。
 結局、阪神は、ヤクルトに振り切られて僅差の2位に終わったが、実に6年ぶりのAクラス入りとなった。新庄は、規定打席に満たないものの、打率.278、11本塁打という好成績を残す。当然、新庄は、新人王候補にも名前が挙がってきたが、規定打席不足というのが響き、打率.245、0本塁打だった久慈照嘉(阪神)に新人王を奪われている。


  Bジャンピングキャッチ

 新庄は、外野へ飛んだフライを捕るとき、必ずジャンピングキャッチを行う。ジャンプして落下する瞬間に、落下してくる球を捕って着地するのである。
 阪神時代に「全国の野球少年に悪影響を与えるのでやめた方がいい」と批判された捕球法だ。
 基本とは大きく異なる捕球法ではあるが、ボールの落下とともに自らも落下しながら捕るため、グラブで球を弾く可能性は低くなり、確実に捕れるようになる、という利点もある。
 この捕球法は、新庄が通っていた西日本短大付属高校で、上級生が2階から生卵を落として下級生がそれを割らずに捕る、という過酷なトレーニングによって身についたものだという。容易に習得できる捕球法でないことは確かである。


  C引退宣言

 1995年夏、中村勝広監督が休養となり、代わって監督代行となった藤田平は、打率が2割台前半に低迷し、本塁打数も落ち込む新庄に2軍落ちを宣告する。自由奔放なプレースタイルを好む新庄は、藤田平のような厳しい指導が合わなかったのだろう。その年の調子は、最悪なままで、上向くことはなかった。
 藤田平は、通算2068安打した大打者で、1981年には打率.356で首位打者になった。208打席連続無三振という日本記録を打ち立ててもいる。守備も堅実にこなす、まさに昔気質の職人と言える選手だった。その反面、藤田は、江夏や田淵、掛布らに比べ、スター性に乏しく、地味なイメージがつきまとった。スター性で人気先行の新庄とは全く逆のタイプだったわけだ。
 藤田に冷遇された新庄は、その年、87試合出場にとどまり、打率.225、7本塁打というレギュラー獲得後最低の成績で終える。
 そして、オフに衝撃の騒動が起こる。
「自分はセンスがないから野球を辞めます」
 新庄は、記者会見を開き、23歳にして引退宣言をしてしまったのだ。もちろん、前代未聞だった。このとき、新庄は、野球を引退して、日本初のプロ野球出身Jリーガーを目指そうとしていた、という伝説がある。その真偽は定かではなが、新庄なら充分に本気で考えていそうな話である。
 新庄は、周囲の説得により、2日後に引退宣言を撤回する。翌1996年の成績は、打率.238、19本塁打だった。


  Dオールスターで応援ボイコット事件

 1997年当時の新庄は、素質を持て余して伸び悩んでいた。打率は、2割そこそこに低迷し、三振の山を築いていた。
 しかし、人気は既に確固たるものがあり、オールスターゲームのファン投票ではセリーグの外野手2位となって出場した。これが熱狂的な阪神ファンの怒りを買った。
 大阪ドームで行われた第1戦で新庄が打席に立つと、鳴り物も声援もなくなったのだ。阪神ファンによる応援ボイコットで、外野席には『そんな成績で出場するな。恥を知れ』というメッセージボードが掲げられたという。
 そんな中ではさすがの新庄も三振と併殺打と踏んだり蹴ったりのオールスターとなった。
 しかし、2年後の1999年、ファン投票1位で出場した新庄は、第3戦で3回裏に先制のタイムリーヒットを放つと、6回裏にはレフトスタンドへソロ本塁打。セリーグは2−1で逃げ切り、新庄は、2年前の屈辱をMVPで晴らして見せたのである。


  E敬遠球をサヨナラヒット

 1999年6月12日の巨人戦は、巨人が先手を取る展開で進み、8回表終了時のスコアは4−3で、巨人が1点リードを奪っていた。
 しかし、8回裏に新庄の9号ソロ本塁打で同点に追いついて延長戦に持ち込んだ阪神は、延長12回裏に1死1・3塁のチャンスをつかむ。ここで新庄に打席が回ってきた。2塁が空いているため、巨人が新庄を敬遠して満塁策をとることは明白だった。新庄は、野村監督に尋ねた。
「打ってもいいですか?」
 新庄敬遠後を考えていたであろう野村も、答えに窮してこう言わざるをえなかった。
「勝手にせい!」
 予想通り、巨人の槙原寛己投手は、敬遠してきた。しかし、新庄は、槙原が外角に大きく外してきたボールに飛びついて3遊間を抜けるレフト前ヒットを放ち、阪神はあまりにも劇的なサヨナラ勝ちを収めたのである。


  FFA宣言でメジャーリーグ挑戦

 野村監督就任2年目の2000年、新庄は、打率.278、28本塁打、85打点の活躍で翌年の阪神浮上に期待を持たせる内容だった。
 野村監督の期待をよそに、新庄は、FA宣言をする。阪神は、5年で総額12億円という破格の報酬を用意した。それでも、新庄は、横浜、ヤクルトとたて続けに交渉を行い、一時は「ヤクルト入りか」とさえ噂された。
 だが、新庄は、とんでもないどんでん返しを見せる。記者会見を開き、大リーグのニューヨーク・メッツ入りを発表したのだ。5年で12億円という阪神の契約を蹴って、大リーグ最低保証年俸20万ドル(約2200万円)のメッツを選ぶ。その判断には多くの人が「通用しないのに」と嘲笑した。しかし、新庄は、世間の酷評をまたも覆し、メジャーでレギュラーを獲得することになる。


  Gメジャーでも衝撃デビュー

 2001年4月3日、開幕のブレーブス戦で8回無死1塁の場面に新庄は、アグバヤニの代走として出場する。これが新庄のメジャーリーグデビューの瞬間だった。そして、打者アルファンゾが放ったセンターフライで、何とタッチアップして2塁に向かうのだ。
 外野フライで3塁からホームへタッチアップしたり、ライトフライで2塁から3塁へタッチアップするのなら分かる。外野手からより遠い塁を目指して走るからだ。しかし、新庄は、外野手から最も近い塁を目指して走り出したのだ。
 常識で考えれば、ナンセンス以外の何ものでもない。
 ところが、驚くべきことにそのタッチアップは、ものの見事に成功してブレーブスのエース、トム・グラビンをマウンドから引きずり下ろしてしまう。そして、延長戦で回ってきたメジャー初打席では勝利のきっかけとなるセンター前ヒット。この時点で新庄の1年目の大リーグ定着は保証されたと言ってもいい。
 レギュラーを獲得した新庄は、打率.268、10本塁打、56打点を残した。


  H予告MVPをホームスチールで獲得

 新庄は、2004年前半戦最後の試合を3打数3安打で締めくくり、お立ち台で宣言する。
「オールスターのMVPは僕のものです」
 MVP予告である。
 7月11日、オールスター第2戦に先発した新庄は、3回ノーアウトから左中間へ2塁打を放つ。続く村松有人のファーストゴロの間には3塁を陥れる。だが、3番福浦和也はセカンドライナーに倒れて2死。
 ここで打者は、パリーグ4番の小笠原道大。スコアは0−0。タイムリーで先制点、あわよくば2ランホームランで2点先取も期待できる最高の場面だ。真っ向勝負を挑んで小笠原を追い込んだ福原も、ファウルで粘られるうち、6球目はストライクゾーンから外れてカウント2−1となった。
 新庄がホームに走り始めたのは、その球をキャッチャー矢野輝弘が福原に投げ返した瞬間だった。福原は、慌てて本塁へ送球するが高い。矢野がタッチする前にヘッドスライディングした新庄の手がホームへ届いていた。
 ホームスチールは、オールスター史上2回目。1978年のオールスター第2戦で7回に3塁ランナーだった簑田浩二(阪急)が1塁ランナーと重盗を決めてホームインしたのが最初だった。
 単独でのホームスチールは、新庄が史上初であり、決勝点となったのも史上初ということになる。
 6回にも2塁打を放った新庄は、谷佳知のヒットによって生還し、パリーグの全2得点を挙げた。パリーグは、2−1で勝ち、新庄はMVPに輝いた。
 セ・パ両リーグでのMVP獲得は落合博満、清原和博に続いて史上3人目の快挙となった。


  Iサヨナラ満塁本塁打なのに記録はサヨナラ単打

 2004年9月20日、日本ハム×ダイエー戦が行われる札幌ドームは、普段以上の盛り上がりを見せていた。それもそのはず。18、19日は、史上初のストライキで試合が中止になっていたからだ。
 試合前、新庄は、得意のかぶり物で他の選手4人と一緒に「ゴレンジャー」に扮して練習し、ファンを楽しませる。2日間試合がなかったことに対する新庄流のお詫びパフォーマンスだった。
 そして、肝心の試合でも新庄は魅せる。序盤に2−8とダイエーにリードを許すも、新庄の22号ソロなどで追い上げると6回には9−8と逆転に成功する。しかし、ダイエーも、自慢の猛打線が火を噴き、日本ハムは9−12と再びリードを許す。
 シーソーゲームは、最後までもつれ、9回裏に日本ハムが3連打で追いつき、2死満塁という絶好の場面で打席は新庄に回る。新庄は、リリーフエース三瀬幸司投手の初球を完璧に捕らえた。舞い上がった打球は左中間スタンドへ吸い込まれていった。
 サヨナラ満塁本塁打で16-12。そうなるはずだった。しかし、新庄は、ガッツポーズをしながら1・2塁間を走っていたとき、出迎えてくれた1塁ランナーの田中幸雄と抱き合い、その反動で田中を追い抜いてしまったのだ。
 前のランナーを追い抜いたらもちろん野球規則通り、アウト。サヨナラ本塁打は幻となった。それでも単打としては成立していて、記録はサヨナラ安打で13-12。打席に立ったとき、既に同点だったおかげで、新庄は、見事ヒーローとなった。


  J日本ハムを44年ぶりの日本一に導き、監督より先に胴上げ

 2006年4月18日、新庄は、オリックス戦後のヒーローインタビューでそのシーズン限りの引退宣言をする。日本ではシーズン終盤に引退宣言をすることはあっても、シーズン当初に引退宣言をすることは前代未聞だった。
 しかし、そこから日本ハムは、新庄効果で盛り上がり、快進撃を始める。ドーム天井からの登場やマジシャン顔負けの脱出劇パフォーマンス、襟付きアンダーシャツにオールスターでの電光掲示板や虹色バットなど、随所にパフォーマンスを散りばめ、チームを引っ張って行く。終盤には西武、ソフトバンクとの激しい首位争いを制してシーズン1位を勝ち取る。
 打撃成績こそ.258、16本塁打と平凡ではあったが、守備でもムードメーカーとしてもチームの先頭に立った。  ソフトバンクとのプレーオフ第2ステージも、あっさり2連勝で勝ち抜いて15年ぶりのリーグ優勝を果たした日本ハムは、中日との日本シリーズでも、1戦目に敗れながら、2戦目に新庄のライト線へのヒットを足がかりに逆転勝ちし、流れをつかむ。3戦目からは札幌ドームで地の利を生かして勝ち続け、4勝1敗で44年ぶりの日本一を達成した。
 日本一決定時には、現役最後の試合での日本一に感涙する新庄を、チームメイトがヒルマン監督をさしおいて真っ先に胴上げ。最後まで前代未聞続きの新庄は、4度宙を舞い、引退に花を添えた。




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