下柳 剛
 1968年5月、長崎県生まれ。左投左打。投手。背番号24→11(日本ハム)→24→42(阪神)→91(楽天)。瓊浦高から八幡大学に進んだが、1年で中退。その後、社会人野球の新日鐵君津に入り、都市対抗野球に出場する。都市対抗野球では1勝もできなかったものの、スカウト陣の目に留まり、1991年にドラフト4位でダイエーに入団する。
 プロ1年目は1試合登板に終わったものの、3年目の1993年には50試合に登板し、4勝8敗5セーブ、防御率4.13の成績を残す。
 1994年にはリーグ最多の62試合に登板するタフネスぶりを見せ、11勝5敗4セーブの成績を残す。
 1995年には4月に運転中の事故で鼻骨骨折の怪我を負い、24試合の登板に終わって、トレードで日本ハムに移籍する。
 日本ハムでも1997年に65試合に登板して先発は1試合ながら規定投球回に到達するというタフネスぶりで9勝4敗の好成績を挙げる。
 1998年にはリーグ最多の66試合に登板して2勝3敗5セーブ、防御率3.07の成績を残す。
 1999年には62試合登板を果たして3年連続60試合以上登板を果たす。
 2000年には先発に転向して8勝4敗、2001年には9勝8敗の成績を残す。
 2003年にはトレードによって阪神に移籍。先発として10勝5敗、防御率3.73の成績を残して阪神のリーグ優勝に貢献する。
 2005年には15勝3敗、防御率2.99で最多勝に輝くとともに、阪神のリーグ優勝の原動力となった。
 2006年には12勝11敗、2007年にも10勝8敗、2008年にも11勝6敗の成績を挙げて、4年連続2桁勝利を記録する。
 2011年に0勝に終わり、戦力外となったが、楽天と契約する。楽天では0勝に終わり、大リーグのドジャースのトライアウトを受けたが、不合格となり、現役を引退した。

 若い頃は、速球派投手として主に中継ぎでアイアンホークと呼ばれるほど投げまくり、現役後半は、先発として技巧派の投球を身に着けて阪神を2度リーグ優勝に導く活躍を見せた。

通算成績(実働21年):129勝106敗22セーブ、防御率3.92、1418奪三振。最多勝1回(2005)

数々の伝説


 @アイアンホーク

 1993年に頭角を現した下柳は、1994年に主に中継ぎ投手として投げまくり、リーグ最高の62試合に登板し、105回2/3を投げて11勝5敗4セーブという好成績を残す。その登板試合数と登板回数の多さにより、世間からはアイアンホークと呼ばれることになる。
 さらに、日本ハムに移籍した後の1997年には65試合に登板し、何と147回を投げて規定投球回に到達するという快記録を達成する。65試合のうち先発したのは1試合のみである。
 下柳は、先発が早々にマウンドを降りた後、ロングリリーフをすることも多く、4月19日のオリックス戦ではリリーフで7回1/3を投げている。


 Aまさかの事故とトレード

 1995年4月19日、下柳や西武戦で登板後、車で帰宅中に民家の壁に激突し、車が大破するという大事故を起こす。下柳は、鼻骨を骨折し、ほぼ意識を失った状態で病院に搬送された。
 幸い肩や肘に怪我はなく、6月13日の日本ハム戦で復帰。何とか復帰はできたものの、この年は、前年の11勝5敗4セーブから2勝3敗という成績に急降下した。その影響もあってか、オフには安田秀行とともに、日本ハムの武田一浩・松田慎司との2対2のトレードで日本ハムに移籍することになった。


 Bイチローの連続無三振記録を止める

 1997年6月25日、下柳は、2回途中からリリーフ登板し、4回2死2塁で打席にイチローを迎えた。
 イチローは、連続打席無三振の日本記録を更新中だった。
 下柳は、2ストライクと追い込んでファールで粘られた後の5球目、内角低めにシュートを投げると、イチローは空振りをして、連続無三振記録は216打席で止まった。
 下柳は、イチローを三振に抑えるため、それまで試合で一度も投げたことのなかったシュートを投げたのである。


 C調停

 2000年、下柳は、日本ハムの先発に中継ぎにフル回転して1年を通じて活躍し、36試合に登板して1完封を含む8勝4敗、防御率4.52の成績を残す。
 オフの球団の提示額は、1億3900万円だったが、下柳の希望額は、1億5000万円だった。交渉は、平行線をたどり、下柳は、代理人を立てて調停を申請することになったが、日本ハムは、あろうことか調停する年俸を1億3750万円に下げてしまった。
 この日本ハムの対応は、世間から批判の的となり、調停額も、下柳の主張が一部認められて1億4000万円での決着となった。


 D2回目のトレード

 年俸調停をした影響もあってか、下柳は、2002年に2勝7敗、防御率5.75と不振に陥ると、トレード要員として名前が上がる。
 下柳は、自由契約になって自ら移籍先を探すつもりだったが、日本ハムがまとめてきたのは、阪神へのトレードだった。下柳は、中村豊とともに阪神の山田勝彦・伊達昌司との2対2のトレードで阪神への移籍する。
 愛犬を関東の知人宅に残して阪神に移籍した下柳は、FA権を取得したら愛犬のために関東へ戻るつもりだったが、阪神1年目にリーグ優勝し、愛犬を預かってくれた知人やチームメイトの慰留もあって、FA移籍を思いとどまっている。


 E先発として阪神のリーグ優勝に貢献

 阪神に移籍した下柳は、熱心にピッチングを研究し、パリーグ時代とは異なる技巧派スタイルで再び輝きを見せる。
 阪神では星野仙一が監督を務めており、下柳は、1試合に中継ぎ登板した後、すぐに先発に抜擢され、ローテーション投手として活躍を始める。そして、年間通じて安定した投球を見せ、10勝5敗、防御率3.73の成績を残して阪神の18年ぶりのリーグ優勝に貢献する。
 日本シリーズでは第5戦に先発して6回2失点の好投を見せ、勝利投手となったが、阪神は、3勝4敗で日本一を逃している。


 F最多勝

 2005年の下柳は、開幕4試合目に初登板し、6回2失点で初勝利を挙げると開幕6連勝を達成し、順調に勝ち星を積み重ねる。8月6日の広島戦では6回1失点に抑えて早くも10勝目を挙げる。
 そして、リーグ優勝へのマジック1で迎えた9月29日の巨人戦で下柳は、先発すると6回を無失点に抑える好投を見せて試合は5−1で圧勝し、14勝目を挙げて、阪神のリーグ優勝を決めた。
 この年、さらに1勝を積み上げて15勝3敗という好成績を残した下柳は、黒田博樹と並んでセリーグ最多勝利投手となった。37歳でのタイトル獲得は、史上最年長最多勝記録でもあった。
 ダイエー、日本ハムでタイトルに縁のなかった下柳が阪神で最多勝のタイトルを獲得できたのは、阪神の星野仙一監督が先発専任を決断したのと、下柳の良さを完璧に引き出してくれる捕手矢野耀大の存在があったためである。





(2014年12月作成)

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