沢村 栄治 
 1917(大正6)年三重県生まれ。右投左打。投手。背番号14。京都商業を中退して全日本選抜入り。1936年に日本のプロ野球開始とともに巨人入り。
 1934年の大リーグ選抜×日本選抜のオールスターゲームで大リーグの最強チームを8回1失点完投する好投を見せ、試合には0×1で敗れたものの、日本野球を世界に知らしめた。
 巨人では1年目からエースとして活躍し、後期は13勝で最多勝を獲得。プロ野球最初の優勝を決める阪神との決定戦では3連投で見事に阪神を2勝1敗で抑え、優勝を手にしている。
 2年目の1937年には56試合制だった前期のシーズンに24勝4敗、防御率0.81という超人的な記録を打ちたてて最多勝と最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率といったタイトルを総なめにする。
 この当時に残された貴重なフィルムから沢村の球速を測定したところ、159キロだったという結果が出ている。おそらくMAXは160キロを超えていたと思われる。沢村の剛速球をバントしたらレフト前ヒットになってしまったという伝説もこの当時のものである。
 そして、沢村は、この年、プロ野球で最初のシーズンMVPに選ばれている。
 しかし、翌年の1月に津の第33連隊に入隊をよぎなくされ、中国へ出征。肩の強さを買われて戦闘に加わり、左手を負傷。
 帰国後、1940年にプロ野球に復帰。手榴弾の投げすぎから来る肩の酷使のため、球速は落ちていたが、1940年の7月6日の対名古屋戦で3度目のノーヒットノーランを達成。
 そして、2年間プレーした後、2度目の召集がかかりパラオへ出征。
 帰国して1943年にもマウンドに上がっているが、度重なる戦争での肩の酷使により、既に速球はおろか、コントロールさえも失われていた。
 1944年、3度目の出征でフィリピンへ向かう途中、アメリカの魚雷攻撃により、台湾沖で船と共に沈んで27歳で戦死。
 1947年には沢村の偉大なる功績をたたえて、沢村賞が創設された。毎年、そのシーズンに最も活躍した先発完投型の投手に贈られることになっている。
 1959年、野球殿堂入り。
 歴代1位の3度のノーヒットノーランをはじめとして、実働は約5年にしかならないものの、残した功績は多大なものがある。
 左足を伸ばして高くはね上げ、その反動で投げ下ろす豪快なフォームから繰り出す160キロを超える直球と3段に落ちると言われたカーブで、日本の打者はおろか、アメリカ大リーグの打者までも抑え込んだ。
 通算成績:実働5年。63勝22敗、防御率1.74、554奪三振。最多勝2回(1936後・1937前)最優秀防御率1回(1937前)最多奪三振2回(1937前・1937後)最高勝率1回(1937前)MVP1回(1937)


数々の伝説


 @大リーグ選抜を1失点完投

 1934年、来日した大リーグ選抜は、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックといった天才的な大打者をそろえた最強のチームだった。
 まだプロ野球のなかった日本は、東京六大学の選手を中心に日本選抜チームを作ったが、大リーグ選抜チームに15試合して1試合も勝つことはできなかった。
  しかし、沢村は、その第8戦で大リーグ選抜相手に6回までベーブ・ルースの1安打に抑える好投を見せ、大リーグ選抜を慌てさせた。
 この試合の前までの3試合は1大リーグ選抜が4×0、15×6、21×4で快勝していたからである。
 あせったベーブ・ルースは、大リーグ選抜の各打者にカーブの曲がりはじめる瞬間を叩くように指示。
 何とか7回にようやくルー・ゲーリックが沢村のカーブを右翼席へ本塁打し、1×0で大リーグ選抜が勝利を収めた。
 しかし、当時17歳だった沢村の好投は、アメリカでも話題を呼び、「スクールボーイ・サワムラ」を世界にとどろかせた。
 このときの沢村の投球内容は、8回5安打1失点9奪三振というほぼ完璧な内容であった。


 A防御率0.81

 1937年春、沢村は、56試合中30試合に登板。全イニングの511イニングのうち244イニングを投げ、24勝4敗という好成績を残した。
 もちろん、チームは優勝を飾っている。
 そして、そのときの防御率が0.81。これはプロ野球歴代3位の記録として残っている。
 この活躍により、沢村はプロ野球初のシーズンMVPに選ばれる。
 沢村の通算防御率は、1.74。これは2000投球回以上と定められる通算防御率には顔を出すことはできないが、現在のところ通算防御率歴代1位は藤本英雄の1.90であり、沢村の投球回は少ないながら、隠れ歴代1位と言っても過言ではない。


 B巨人をプロ野球最初の日本一に導く

 1936年は、プロ野球最初のシーズンであると同時に、初めて日本一のチームを決めるシーズンだった。6大会が終わったときに、首位に与えられる勝ち点が2大会単独首位と1大会同率首位という対等の成績で並んでいた巨人とタイガースが洲崎球場で優勝決定戦(日本選手権)を行うことになった。試合は3戦で2試合先取した方が日本一である。
 初戦は沢村と景浦将が投げ合った。序盤は沢村の好投で巨人が4−0とリードを奪うがタイガースも反撃をする。4回無死1・2塁でバッターボックスに立った景浦は、沢村の3段に落ちる変化球(縦に割れるカーブ)をものの見事にとらえ、打球は洲崎球場のレフト外野席を軽々と越えて場外の東京湾に消えた。沢村と景浦は、ここから永遠のライバルとなっていく。
 しかし、沢村は景浦の本塁打の3点のみに抑えて完投し、5−3で巨人が勝っている。
 2戦目にも先発した沢村は、エラーがらみで自責点1ながら6回5失点で降板し、巨人は3−5で敗れた。
 1勝1敗で迎えた3戦目は、4回裏に巨人が4点を奪って4−2とリードした5回から沢村がリリーフで登板する。3連投である。沢村は、残りの5回を無失点に抑えて4−2で勝ち、沢村は勝利投手になるとともに、巨人をプロ野球最初の日本一に導いた最大の功労者となった。


 Cノーヒットノーラン3度

 1936年9月25日、甲子園球場の大阪タイガース戦で自身最初、プロ野球初のノーヒットノーランを達成。スコアは1×0。7奪三振4四死球という内容だった。
 1937年5月1日の大阪タイガース戦で自身2度目、プロ野球2度目のノーヒットノーラン達成。スコアは4×0で、11奪三振3四死球という内容であった。
 そして1940年7月6日の名古屋戦でも、剛球は失われていたもののカーブを主体としたピッチングで通算3度目、プロ野球8度目のノーヒットノーランを達成。スコアは4×0で3奪三振5四球という内容だった。
 通算3度のノーヒットノーランを達成しているのは広島の外木場義郎投手と並んで歴代1位の記録である。


 D大リーグからのスカウト

 1935年、日本で最初に創られたプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)は、プロとしての第一歩を踏み出すため、アメリカ各地を遠征することが決まる。前年にアメリカ選抜を率いていたフランク・オドールの尽力によって実現したものだった。
 沢村は、この東京野球倶楽部でエースとして投げ続けた。パシフィックコーストリーグのチームやセミプロチームを相手に105試合を行って75勝するというすばらしい成績を収めたのだった。
 快投を続ける沢村に注目したのが、大リーグのピッツバーグ・パイレーツのスカウトだった。そのスカウトは、ファンとしてサインをもらいたいふりをして沢村に大リーグの契約書を差し出したのである。
 しかし、それが大リーグの契約書であることに気づいた同行の鈴木惣太郎は、沢村にサインを拒否させたと言われている。結局、沢村は、生涯、大リーグで投げることはなかった。しかし、このとき、本当にサインしていたらどうなっていたのだろうか、とロマンを抱かせてくれる伝説である。


 E悲運の戦死

 1943年7月6日、沢村は、阪神戦に先発で登板。しかし、2度の出征で肩を壊していた沢村は、オーバースローですら投げることができず、四球を連発して3回5失点でKOされてしまう。
 そして、それが沢村の最後の登板となってしまった。
 1944年、3度目の出征でフィリピンへ向かった沢村は、12月2日、台湾沖でアメリカの魚雷攻撃に沈み、無念の戦死を遂げた。
 もし、太平洋戦争がなければ、沢村は肩を壊すことも戦死することもなく、同年代のスタルヒンをしのぐ通算成績を残していたはずである。


 F沢村賞

 1947年、沢村栄治の偉大な功績をたたえて、プロ野球界に沢村賞が創設された。
 これは、先発完投型で、しかもその1年で最も活躍した投手に贈られる賞である。
 第1回目の沢村賞には30勝を挙げた南海の別所昭投手が選ばれた。
 現在ではこの賞を受けることこそ、先発投手として超一流の証となっており、多くの一流投手の目標ともなっている。
 1人の投手が何度でも受賞できるため、杉下茂・金田正一・村山実・斎藤雅樹がそれぞれ最多の3度受賞を果たしている。



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