佐藤 義則
 1954年9月、北海道生まれ。右投右打。投手。背番号11。函館有斗高校から日本大学へ進み、1976年秋には78奪三振の東都大学リーグ新記録を樹立して注目を集める。1977年、ドラフト1位で阪急へ入団。
 1年目から7勝3敗1S、防御率3.85の成績を残して、阪急のリーグ優勝に大きく貢献した。その活躍が認められて見事新人王に輝いている。日本シリーズにも登板し、阪急の日本一に貢献している。
 2年目の1978年には13勝8敗1Sの成績でローテーション投手の座を確立し、チームもリーグ優勝を果たした。
 しかし、1981年に椎甲板ヘルニアで投手生命の危機に立ち、選手登録を抹消されて引退選手扱いとなる。だが、翌1982年には練習生から復活し、主にリリーフで4勝2敗13セーブを残した。
 1984年には17勝6敗1Sという好成績で阪急のリーグ優勝に大きく貢献し、球界を代表する投手となった。136奪三振で奪三振王にも輝いている。
 1985年には21勝11敗の成績で最多勝に輝き、188奪三振は2年連続の奪三振王でもあった。
 1986年は14勝6敗1S、防御率2.83で最優秀防御率のタイトルを獲得した。
 1994年4月には通算150勝を達成する。
 1995年8月の近鉄戦では40歳11ヶ月という史上最年長でのノーヒットノーランを達成。この年、4勝を挙げて、オリックスのリーグ優勝に貢献する。
 1998年、通算500試合登板を果たしたが、この年限りで現役を引退。44歳だった。
 2003年には阪神の投手コーチとして、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。

 上から投げ下ろすキレのいい直球と打者の手元で鋭く落ちる魔球ヨシボールを駆使して、阪急・オリックスのエースとして長年活躍した。熟練した投球術で達成した40歳11ヶ月でのノーヒットノーランはそう簡単に破られることはないだろう。

通算成績(プロ22年、実働21年):165勝137敗48S、防御率3.97。1755奪三振。最多勝1回(1985)最優秀防御率1回(1986)最多奪三振2回(1984・1985)

数々の伝説


  @巨人がドラフト指名回避、阪急で新人王

 日本大学でシーズン78奪三振の東都大学リーグ新記録を樹立した佐藤に、巨人は「ドラフトで1位指名する」という内約をしていた。
 しかし、ふたを開けてみると、巨人が1位指名したのは新日鉄広畑の藤城和明というほとんど無名の社会人投手だった。巨人に指名回避された佐藤は、阪急から1位指名を受けて入団する。
 巨人が熱心にスカウト活動を行い、佐藤の1位指名を約束したにも関わらず、急転して指名を回避したのは巨人内部で「佐藤の容貌は巨人向きでない」という声が出たからだと言われている。
 阪急に入団した佐藤は、1年目から素晴らしい活躍を見せ、7勝3敗1セーブの好成績で新人王に輝き、チームをリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは巨人を4勝1敗で破って日本一になった。その日本一を決める第5戦に先発したのが佐藤だった。
 一方、巨人が1位指名した藤城和明は、入団後これといった活躍をすることなく、プロ通算14勝に終わっている。


  A一時は故障で引退扱い

 1980年、それまで順風なプロ生活を送っていた佐藤は4勝13敗、防御率5.82と不振に陥る。それは体に変調をきたしていたからだった。椎甲板ヘルニアが悪化し、全力で投げられなくなってしまったのだ。投手生命を脅かす故障である。
 1981年、投げられなくなった佐藤は、阪急から任意引退扱いとされ、練習生の身分となる。しかし、佐藤は、不屈の闘志で故障を克服し、翌年には39試合に登板して4勝2敗13セーブを挙げ、見事な復活を果たしたのである。


  B1984年リーグ優勝の立役者

 佐藤は、入団1年目・2年目とリーグ優勝に貢献するが、それ以降、阪急は優勝から遠ざかる。
 その後、久しぶりのリーグ優勝を果たしたのは1984年だった。この年は、ブーマーが打ちまくって三冠王を獲得し、投手も山田久志が14勝4敗、今井雄太郎が21勝9敗、そして佐藤が17勝6敗と3人がエース級の働きを見せた。阪急は、2位に8.5ゲームの大差をつけて独走優勝を果たす。
 佐藤は、136奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。しかし、佐藤は、日本シリーズで2度先発したものの勝てず、チームも3勝4敗で広島に敗れて日本一を逃した。


  C山田久志に代わって開幕投手

 佐藤が阪急に入団したとき、阪急には大エース山田久志が君臨していた。佐藤は、1977年に新人王を獲得するが、その年、山田はシーズンMVPに輝いている。
 佐藤がエースになるためには、山田を超えなければならなかった。1984年には17勝を挙げてエース級の成績を残したが、開幕投手は依然として山田だった。
 ようやく佐藤が阪急の正真正銘のエースとなったのが1987年だった。前年の佐藤は、14勝6敗という成績を残したのに対し、山田も14勝9敗とまだまだ山田も開幕投手の座を譲る気配はなかった。
 しかし、1987年のオープン戦で山田は、打ち込まれてついに12年続いた開幕投手の座を明け渡し、佐藤が初の開幕投手に選ばれたのである。


  Dヨシボール

 佐藤の決め球として有名なヨシボール。もちろん、名前は、自らの義則の「ヨシ」をとったもので、佐藤独特の魔球だった。
 佐藤は、元々指が短くてフォークボールをうまく投げられない。そのため、代わりになる決め球が必要だったのだ。フォークボールのように人差し指と中指で挟むことができないなら、親指と人差し指で挟み、フォークボールと全く同じように投げればいいではないか。ということで、ヨシボールが出来上がった。
 このヨシボールは、カーブやスライダーとは少し異なり、打者の手元で鋭く縦に落ちるという変化をするため、パリーグの強打者たちも手を焼いた。佐藤が22年間に渡ってプロ生活を続けられた陰には、この魔球の存在を忘れてはならないだろう。


  E最年長ノーヒットノーラン

 1995年8月26日、藤井寺球場で行われた近鉄戦に佐藤は、先発する。佐藤は、既に40歳11ヶ月という大ベテランだった。この年は、勝ち星が思うように伸びず、引退さえささやかれる年齢となっていた。
 試合は、佐藤が巧みなピッチングで猛牛打線をかわしていく展開となる。5四死球を許したものの、ヒットは許さない。
 佐藤は、最後の打者も三振にきってとって両手でガッツポーズをして喜びを表した。スコアは7−0。9回を無安打、7奪三振の力投だった。
 40歳11ヶ月でのノーヒットノーラン達成は、1990年に柴田保光が達成した32歳8ヶ月の日本記録を8歳3ヶ月も上回る快記録となった。
 佐藤のノーヒットノーランでさらに勢いづいたオリックスは、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。球団名がオリックスとなってからは初のリーグ優勝だった。


  F奥尻島の星

 佐藤は、北海道の奥尻島で生まれている。奥尻島出身で初の大投手とあって、佐藤は、奥尻島の英雄として島民から愛されている。
 その奥尻島は、1993年7月12日、震度6の北海道南西沖地震によって大きな被害を受けた。高さ30メートルにも及んだ津波によって200人以上の死者を出したのである。
 その翌日、佐藤は、監督推薦でのオールスターゲーム出場が決まる。この震災で叔母を亡くした佐藤は、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえてオールスターで登板し、島民への想いを胸に3者連続三振を含む2回4奪三振の力投を見せる。オールスター後、奥尻島へ戻った佐藤は、義援金を贈るなど、復興支援に協力し、奥尻島民を大いに励ました。その年、佐藤は、39歳という大ベテランながら9勝を挙げる活躍を見せている。
 そんな佐藤の功績をたたえ、奥尻島には佐藤義則野球展示室が作られていて、佐藤が残した数々の記録や伝説にまつわる物が展示されている。




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