佐々木 誠
 1965年10月、岡山県生まれ。左投左打。外野手。背番号57→0→3(ダイエー)→1(西武)→8(阪神)。水島工業高校時代は投手でもあったが、外野手としてドラフト6位で1984年、南海に入団。
 1985年に54試合出場ながら打率.291を残して頭角を現すと、1987年にはレギュラーを獲得し、打率.288、11本塁打、15盗塁で打率リーグ9位となる。
 球団名がダイエーに変わってからは、看板打者としての活躍を見せ、1990年にリーグ最多二塁打33を記録すると、1991年には打率.304、21本塁打、71打点、158安打、32二塁打、36盗塁でリーグ最多安打と最多二塁打を同時に記録する。さらに、ベストナインとゴールデングラブ賞にも同時に選出される。以後、ベストナインは、5年連続、ゴールデングラブ賞は4年連続受賞する常連となる。
 1992年には打率.322、21本塁打、54打点、40盗塁、164安打という自己最高の成績を残し、首位打者と最多安打、盗塁王という3つのタイトルを手にする。
 そして、1994年、秋山幸二との超大型トレードで西武に移り、37盗塁で2度目の盗塁王を獲得する。打っても打率.285、20本塁打、84打点を残してこの年のリーグ優勝に大きく貢献し、日本シリーズではサヨナラ安打を放つ活躍も見せる。結局、シリーズ通算打率.333を残したものの、2勝4敗で惜しくも日本一は逃す。
 1997年にも打率.304、13本塁打の活躍で西武をリーグ優勝に導いたが、日本シリーズでは再び敗れる。この年、6度目のベストナインに選出される。
 1998年にも西武のリーグ優勝に貢献したが、1999年に阪神へ移籍。主に代打での起用となったものの打率.273を残す。
 2000年オフに阪神を退団すると、2001年には大リーグ挑戦を試みるが、ビザの関係もあって独立リーグでプレーし、その年限りで現役を引退。

 膝を高く上げる豪快な一本足打法で安打を量産した中距離ヒッターで、並外れた俊足を持ち、守備範囲も広い名外野手でもあった。全盛期は、日米野球でその身体能力の高さを見せつけ、「大リーグに連れて帰りたい」とまで評された万能プレーヤーである。

通算成績(プロ17年、実働16年):打率.277、170本塁打、638打点、1599安打、242盗塁。首位打者1回(1992)盗塁王2回(1992・1994)最多安打2回(1991〜1992)ベストナイン6回(1991〜1995、1997)ゴールデングラブ賞4回(1991〜1994)
数々の伝説

 @大リーグに連れて帰りたい男

 佐々木のプレーが最も注目を集めたのは、日米野球だった。1988年の日米野球で、佐々木は、全日本の一員として全米オールスターズと対戦する。
 佐々木は、第3戦で全米のエース、ハーシュハイザーから本塁打を放ち、のちの大投手マダックスから二塁打を放つなど、出場した4試合で13打数5安打、打率.385、1本塁打、4打点の活躍を見せたのだ。それに加えて守備、走塁の上手さも注目を集め、全米の監督、選手たちは、「大リーグに連れて帰りたい男」「大リーグ活躍できる男」として真っ先に佐々木の名前を挙げたのである。
 その2年後の1990年の日米野球でも、佐々木は、21打数9安打、打率.429という素晴らしい成績を残して敢闘賞を受賞する。当時はまだ、大リーグへ移籍する道はなかったため、佐々木は、大リーグへ連れて帰られることはなかったが、現在であればかなりの高額で大リーグへ移籍できていたはずである。


 A1年間で一気に走攻守のタイトル獲得

 1992年、佐々木は、打率.322でついに首位打者を獲得する。そして、安打数も164で2年連続最多安打を記録。さらには盗塁数でも40を記録し、盗塁王も獲得したのである。さらには高校時代は投手もしていたほどの強肩と広い守備範囲で外野守備でも卓越した働きを見せた。
 本塁打は21、打点は54と、いずれもタイトル争いに絡むことはなかったが、それでも走攻守の総合力としては圧倒的な成績だった。
 結局、この年は、ベストナインとともに守備でゴールデングラブ賞も獲得することになり、走の盗塁王、攻の首位打者、最多安打、そして守のゴールデングラブ賞という走攻守すべてのタイトルを1年で手中に収めたのである。


 B秋山幸二との超大型トレード

 1993年オフ、突如として大型トレードが成立する。ダイエーの佐々木、村田勝喜投手、橋本武広投手と西武の秋山幸二外野手、渡辺智男投手、内山智之投手という大型トレードだった。いずれもチームの主力打者、主力投手という「世紀のトレード」でもあった。
 このトレードは、あまりにも突然であり、元々西武にいたダイエーの根本陸夫監督の意図によるものだった。根本が両球団に深い関わりがあったからこそ実現しえたとも言える。しかも、同一リーグであるにもかかわらず、ここまで大型トレードが実現したというのは極めて特殊な例である。そこには、愛弟子の秋山獲得を強く希望する根本と、佐々木獲得を熱望する西武の森祇晶監督の思惑の一致もあった。
 移籍後、佐々木は、西武で3度の優勝に貢献し、秋山は、ダイエーで1999年と2000年の優勝に貢献するなど、打者はともに活躍を見せた。


 Cベストナインとゴールデングラブ賞の常連

 佐々木がリーグを代表する選手として注目を一身に集めるようになったのは1991年である。158安打でリーグ最多安打に輝くとともに打率.304、21本塁打、36盗塁と成績を大きく伸ばし、守備も俊足強肩を見せつけ、走攻守のいずれもトップクラスという成績を残したのである。佐々木は、その年にベストナインとゴールデングラブ賞を同時受賞する。
 その後、1991年から1994年までベストナインとゴールデングラブ賞を4年連続同時受賞するという活躍ぶりを見せる。その間、首位打者1回を含む打率ベスト10内3回、最多安打2回、盗塁王2回と、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで暴れたのである。
 1990年代後半にイチローがパリーグのナンバー1外野手の称号を欲しいままにしたのと同様、1990年代前半は、佐々木がパリーグのナンバー1外野手の称号を欲しいままにしていたのである。


 D日本シリーズでサヨナラ安打

 1994年の日本シリーズは、巨人の2勝1敗で第4戦を迎える。初戦から毎試合安打を放って好調を維持していた佐々木は、第4戦でも第1打席にセンター前ヒット、第2打席にはライトに2塁打を放っていた。
 試合はもつれて、延長12回表まで5−5の同点で進む。そして、延長12回裏、西武は、1死1、2塁とチャンスをつかみ、佐々木が打席に入る。
 佐々木は、木田勇夫のフォークボールを捕らえ、打球は、高いバウンドながらセンター前へ抜けた。そして、二塁ランナーが生還するサヨナラ安打となり、2勝2敗の5分に戻したのである。
 その後、西武は、2連敗して日本一を逃すが、佐々木は、シリーズを通じて打率.333、7打点という素晴らしい活躍を見せた。


 E豪快な一本足打法

 佐々木は、王貞治に匹敵するほど豪快な一本足打法を持ちながら、決してホームランバッターになろうとはしなかった。それは、日米野球で本塁打を放った後、本塁打を狙いすぎて調子を崩した経験に基づいていると言われる。
 佐々木は、その教訓を生かしてヒットを狙うバッティングに徹し、安打を少しでも多く積み重ねることに没頭した。その結果、本塁打は、最高でもシーズン21本ではあったが、三振数も年間100個を超えることは1度もなかった。そうして、走攻守にバランスのとれた万能プレーヤーとして名を残すとともに、首位打者1回、最多安打2回、打率ベスト10入り5回という安打製造機としても名を残したのである。


 F最後は大リーグ挑戦

 2000年限りで阪神を退団した佐々木は、大リーグ挑戦のため、渡米する。かつて日米野球で「大リーグに連れて帰りたい男」と呼ばれ、エクスポスからオファーさえあった佐々木にとって、1995年にFA権を獲得したとき、及び1998年に西武を退団したときに大リーグ移籍のチャンスはあった。しかし、当時、まだ日本人野手として大リーグへ移籍した選手はおらず、結局、佐々木は、いずれも日本球界に残ることになった。
 それだけに、現役時代の最後の最後に自由でしがらみのないアメリカで野球を楽しみたい、という夢を追ったのである。
 佐々木は、タイガース、アスレチックス、インディアンスのキャンプに参加するなど、精力的に動き、契約にこぎつけるかと思われたが、ビザ発給の関係でそれは幻と化した。
 それでも、佐々木は、独立リーグに所属するソノマ・カウンティ・クラッシャーズと契約し、1年間プレーを楽しんで現役を引退した。




(2007年4月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system