佐々木 主浩
 1968年2月、宮城県生まれ。投手。右投右打。背番号22(大洋(横浜)・マリナーズ)東北高校で1984・1985年と甲子園に出場。1985年夏には準々決勝まで進んでいる。卒業後、東北福祉大を経て1990年ドラフト1位で大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)に入団。
 2年目の1991年にリリーフに転向。その年、6勝9敗17セーブの成績で守護神に成長。
 翌1992年には12勝6敗21セーブ、33SPで初の最優秀救援投手となった。
 1994年シーズン前に肘を痛めて手術するが、すぐ復活。
 1995年から1998年までは前人未到の4年連続最優秀救援投手に輝いている。
 特に1997年には3勝0敗38セーブ、防御率0.90で歴代最多セーブ記録を塗り替えた。
 さらに翌1998年には1勝1敗45セーブで46SPとなり、自らの歴代最多セーブ記録を塗り替えるとともに、歴代最多SPの記録をも塗り替えた。チームも38年ぶりのリーグ優勝・日本一となって佐々木はシーズンMVPに選ばれている。そして、リリーフのみでプロ野球最高年俸を得るまでになった。
 しかし、1999年のシーズン途中に右肘を痛めて手術。シーズン終了後にFA宣言し、3年契約で大リーグのシアトルマリナーズに移籍。
 大リーグ1年目の2000年にいきなり37セーブを挙げる活躍で、アメリカンリーグの新人王に輝いた。
 2001年にはオールスター戦にも出場し、1年目以上の45セーブを積み上げ、マリナーズを圧倒的な大差で地区優勝させている。
 2004年には横浜に復帰し、1勝2敗19セーブの成績を残した。2005年、故障で不振に陥り、現役を引退した。
 2014年1月、野球殿堂入り。

 がっしりした大きい体格から投げ下ろす150キロを超える力強い直球と鋭いフォークで三振の山を築いてセーブを重ね、「大魔神」の異名を持つ。特にフォークボールは落差42センチと言われ、打者の視界から一瞬にして消えたという。
 リリーフではほとんどの部門で日本記録を塗り替えた大投手である。

 通算成績(2005年末現在):日本(実働12年) 43勝38敗252セーブ、防御率2.41、289SP 851奪三振 最優秀救援投手5度(1992・1995〜1998)、最多セーブ4度(1995〜1998)ベストナイン1度(1998)連続セーブポイント22(日本記録)シーズン最多SP46
大リーグ(実働4年) 7勝16敗129セーブ 防御率3.14 新人王(2000)
日米通算(16年)50勝54敗381セーブ 防御率2.60
数々の伝説

 @野茂英雄の外れ1位で入団

 1989年11月26日、ドラフト会議が行われ、大洋は、トルネード投法で話題になっていた野茂英雄を1位指名した。しかし、史上初めての8球団競合であったため、当然のようにくじは外れだった。
 そのため、大洋は、残っていた東北福祉大の佐々木を外れ1位で指名。佐々木が腰痛を持病に持ち、ヘルニアの手術も経験していたせいか、他球団との競合もなく、すんなりと佐々木の交渉権は大洋(現横浜)が得た。
 
 
 A落差42センチのフォークボール

 佐々木は、背筋を伸ばし、セットポジションで189センチの長身から投げ下ろす。
 そのフォークボールは、落差が42センチあると言われており、打者の目には一旦浮き上がってから突然視界から消えるように映るという。
 打者は、ワンバウンドでも空振りしてしまうほど、球にブレーキがかかる。ボールが回転せず、縫い目が動かないため、いつどう変化するか分からず、打者は戸惑うという。
 1997年には60イニングで99奪三振、1998年には56イニングで78奪三振という驚異的な奪三振率を誇っている。1試合あたりの奪三振数に換算すると、1997年が平均15奪三振、1998年にも平均13奪三振を記録していたことになる。


 B記録の塗り替え

 佐々木は、1997年に38セーブで1988年に郭源治が残した37セーブを塗り替えて日本記録を更新した。そして、翌1998年には4月から6月までの間に22連続セーブポイントを達成して、1994年に赤堀元之(近鉄)が作った日本記録を更新した。
 そして、この年は45セーブで、前年に自らが作った38セーブの日本記録を大きく塗り替えた。同時に46セーブポイントとなり、郭源治が1988年に作った44セーブポイントの記録を更新した。
 セーブポイントの記録は、2004年を最後に廃止されたため、佐々木の289セーブポイントは、高津臣吾と並んで歴代1位の記録として残る。


 C38年ぶりの優勝に貢献

 1997年、佐々木は、1敗もせずに防御率0点台でいくという目標を立てたと言われている。3勝無敗38セーブで、それを見事に達成した佐々木に残された課題は優勝だけとなった。
 そして、1998年の佐々木は、鬼神のように投げ続ける。どれだけ完璧に抑えても、チームが優勝しなければ意味がない、などという周囲の声に対する意地が垣間見えた。
 佐々木は、51試合に登板してシーズン46セーブポイントという日本記録を達成し、通算200セーブも超えた。防御率は何と驚異0.64。その年は、4月26日から6月30日までの間に日本記録の22連続セーブポイントを挙げている。9月4日の中日戦では通算200セーブも達成している。
 巨人の長嶋茂雄監督には「横浜との試合は8回までで終わり。それまでにリードしておかないと」とまで言わせている。
 当然のように横浜は、リーグ優勝を果たし、日本シリーズも4勝2敗で西武に勝利。これが38年ぶりのリーグ優勝・日本一となった。


 D突如出現した大魔神社

 1998年、横浜は、快調に首位を走っており、38年ぶりの優勝が徐々に現実味を帯びてきていた。
 そのシーズン中、横浜の優勝を祈願して横浜駅東口地下街に「ハマの大魔神社」が作られた。誰が名づけたか佐々木の愛称は「ハマの大魔神」。彼の活躍に刺激されてのものであることは間違いない。
 御神体は、佐々木の右腕をかたどった像。ボールの握りはもちろんウィニングショットのフォークボール。
 マスコミが過剰に報道したこともあって、大魔神社は、全国から訪れる横浜ファンで溢れるほどの賑わいを見せた。
 その大魔神社の後押しもあってか、横浜は、38年ぶりのリーグ優勝、日本一となった。 
 しかし、1999年1月には、その大魔神社は撤去され、元の横浜案内図に戻されており、1999年は優勝を逃している。


 E肘の故障から大リーグで復活


 佐々木は、優勝の翌年の1999年、シーズン途中まで1勝1敗19セーブ、防御率1.93という好成績を持続していたが、利き腕の右肘を故障。
 シーズンの後半を棒に振ってまで、思い切って手術に踏み切る。
 リハビリを終えた佐々木は、FA宣言をし、アメリカ大リーグ挑戦を決意。
 3年契約20億円でシアトル・マリナーズに入団し、2000年のシーズンを迎えた。
 佐々木は、当初、久々の実戦のため、不調だった。そのため、リリーフ失敗で負けが込み、一時はリリーフエースを外されるという日本では考えられない事態になった。
 しかし、中継ぎで好リリーフを見せ、見事にリリーフエースの座を勝ち取った。
 シーズン終了後には2勝5敗37セーブ、防御率3.16という超一流の成績を残してアメリカンリーグ新人王に選ばれている。
 そして、この年の37セーブは、大リーグの歴代新人最高記録をも塗り替えた。



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