1923年5月、和歌山県生まれ。投手。朝日・パシフィック・太陽・大陽→松竹→阪神。背番号18(松竹まで)→6(阪神)→5(阪神)。海草中では、1938年に三塁手として初の甲子園全国制覇を果たし、翌1940年にはエースとして夏の甲子園連覇を果たす。
その後、大阪高専を経て1943年、プロ野球の朝日に入団する。
プロ1年目から13勝13敗、防御率1.97の好成績を挙げるものの、第二次世界大戦のため、2年間のブランクが空く。
戦後は、1946年にパシフィックに入団してシーズン最多の63試合に登板し、43完投で25勝26敗、200奪三振の成績を残し、最多奪三振に輝く。
1947年には23勝21敗、防御率2.38の成績を残すと、1948年には25勝19敗、防御率2.22の成績を残して3年連続20勝を達成する。9月6日の阪神戦でノーヒットノーランを達成している。
2リーグ分立した1950年には松竹に移籍し、39勝12敗、防御率3.05の成績を残してリーグ優勝の原動力となる。39勝はセリーグの最多勝であるとともに、現在に至るまでセリーグ記録である。
1952年には大阪タイガース(現阪神)に移籍し、16勝9敗、防御率1.97の成績を残す。5月7日の広島戦では2度目のノーヒットノーランを達成する。
1955年には2勝に終わり、翌年には野手に転向。打率.207、2本塁打に終わり、藤村監督排斥事件もあって、その年限りで現役を引退する。
1990年、殿堂入り。
通算成績(実働11年):178勝128敗、防御率2.83、1083奪三振。最多勝1回(1950)最多奪三振1回(1946)沢村賞1回(1950)ベストナイン2回(1948・1950) |