斎藤 隆
 1970年2月、宮城県生まれ。投手。右投左打。背番号11(横浜)→44(ドジャース)→24(レッドソックス)→40(ブレーブス・ブルワーズ)→48(ダイヤモンドバックス)→44(楽天)。
 東北高校では3年時に野手で夏の甲子園に出場。東北福祉大学では2年時に投手に転向し、1992年、ドラフト1位で横浜に入団する。
 1年目は0勝2敗に終わったものの、2年目の1993年には先発ローテーション入りを果たし、8勝10敗、防御率3.81の成績を残す。
 3年目の1994年には9勝、1995年は8勝を残し、1996年に10勝10敗、防御率3.29、206奪三振で初の2桁勝利を挙げるとともにリーグ最多奪三振を記録する。
 1997年には右肘を傷めて1年間を棒に振ったものの、1998年には13勝5敗1セーブ、防御率2.94の好成績を残し、カムバック賞を受賞する。1999年にも14勝3敗、防御率3.95の好成績を残す。
 2000年に6勝に終わるとリリーフに転向し、2001年は7勝1敗27セーブ、防御率1.67という驚異的な成績を残す。
 2002年にも20セーブを挙げたが、2003年には再び先発に転向し、6勝を挙げる。2005年は3勝4敗、防御率3.82という成績に終わったが、大リーグ挑戦を決意し、ドジャースと契約する。
 2006年にはドジャースでシーズン半ばから守護神としての活躍を見せ、6勝2敗24セーブ7ホールド、防御率2.07を残す。
 さらに、2007年には2勝1敗39セーブ1ホールド、防御率1.40という素晴らしい成績を残す。2008年にも4勝4敗18セーブ、防御率2.49を残す。
 2009年にはレッドソックスに移籍し、3勝3敗2セーブ3ホールド、防御率2.43を残す。2010年にはブレーブスに移籍してセットアッパーとして17ホールドを記録する。2011年にはブルワーズでセットアッパーとして10ホールド、防御率2.03を記録する。
 2012年にダイヤモンドバックスで2ホールドに終わると、オフに楽天と契約して日本球界に復帰する。
 楽天では2013年に30試合に登板して3勝0敗4セーブ4ホールド、防御率2.36を残し、2014年にも1勝1敗3セーブ9ホールドを記録する。

 若手の頃から直球とスライダーを軸に先発でも抑えでも好成績を残し、大リーグ移籍後も球速が増して直球が常時150キロを超えるようになり、日本以上の成績を残した。日本復帰後もセットアッパーとして息の長い活躍をしている。

通算成績(2014年末現在)日本(15年):91勝81敗55セーブ14ホールド、防御率3.75、1330奪三振。最多奪三振1回(1996)カムバック賞1回(1998)
大リーグ(7年):21勝15敗84セーブ40ホールド、防御率2.34、400奪三振。
日米通算:112勝96敗139セーブ54ホールド、防御率3.50、1730奪三振。

数々の伝説


 @被安打1の完投をしながら敗戦投手

 1995年4月26日のヤクルト×横浜戦で先発した斎藤は、1回裏から7回裏まで無安打無失点に抑えるという好投を見せる。
 しかし、ヤクルト先発の吉井理人も、1回表から8回表まで無失点に抑えており、0−0のまま8回裏に入る。
 斎藤は、1死からミューレンに四球を与えると、続く土橋勝征への配球が甘くなり、レフトポール直撃の2ラン本塁打を浴びてしまう。これにより、ノーヒットノーランを逃すとともに1安打で2失点を失った。
 9回表も吉井に抑えられた横浜は、0−2で敗れ、斎藤は、被安打1で完投しながら敗戦投手となった。


 A日米で最多奪三振

 1996年、斎藤は、エース級の働きを見せて10勝10敗、防御率3.29の好成績を残す。
 それとともに196回2/3を投げて206奪三振を記録し、リーグ最多奪三振のタイトルを獲得する。
 そして、大リーグのドジャース移籍1年目には72試合に登板して78回1/3を投げて107奪三振を記録し、大リーグの救援最多奪三振を記録した。
 斉藤は、大リーグ入団後、球速が増すとともにスライダーの威力も増し、日本以上の奪三振率を記録した。


 Bカムバック賞

 1997年、斎藤は、春季キャンプで右肘の遊離軟骨が発覚し、除去手術に踏み切る。その後、2軍では復帰登板を果たしたものの、シーズン中に1軍への復帰は果たせず、1軍登板なしでシーズンを終える。
 しかし、1998年は、完全復活を果たし、エース級の働きを見せて13勝5敗1セーブ、防御率2.94の好成績を残し、横浜をリーグ優勝と日本一に導く。
 その活躍が認められ、斎藤は、カムバック賞を受賞した。


 C横浜の日本一に貢献

 1998年は、どこからでも得点できるチーム打率.277のマシンガン打線と大魔神佐々木主浩の圧倒的な投球で横浜がリーグ優勝、日本一を果たすが、忘れてはならないのが先発投手陣の働きである。
 三浦大輔が12勝、野村弘樹が13勝を挙げ、斎藤も、序盤は故障明けのため、中継ぎだったものの、その後、先発ローテーションの一角を担うようになる。そして、13勝5敗1セーブ、防御率2.94の好成績を残してリーグ優勝に大きく貢献した。
 さらに、西武との日本シリーズでは、第2戦に先発し、1回のピンチを切り抜けると、その後は危なげない投球で9回を3安打無失点に抑え、4−0で完封勝利を挙げる。さらに第5戦でも7回2失点の好投を見せ、マシンガン打線も爆発して17−5と圧倒する。斎藤は、横浜の38年ぶりの日本一の原動力となった功績を認められ、優秀選手賞を受賞した。


 Dリリーフ転向

 2000年から佐々木主浩が抜け、横浜の抑えは、流動的となり、なかなか務まる投手が現れなかった。
 2001年、森祇晶監督は、斎藤を抑えに抜擢する。斎藤は、リリーフ転向に難色を示していたが、森は「他の投手とはレベルが違う」と斎藤の抑えにこだわった。
 斉藤は、シーズン序盤こそ抑えの難しさに苦しんだものの、シーズン後半には抑えとして安定感抜群の投球を続け、7勝1敗27セーブ、34セーブポイント、防御率1.67という驚異的な成績を残した。


 E大リーグ挑戦

 2005年、横浜で3勝4敗に終わった斎藤は、夢であった大リーグ挑戦を決意する。
 日本での成績が下降してきていたため、世論は、大リーグで通用しないという見方が大半であったが、2006年にドジャースに入団すると、開幕直後に大リーグに昇格し、4月18日に初勝利を挙げる。そして、セットアッパーとして実績を残すと、5月には早くも抑えに抜擢されてセーブを積み重ねる。
 この年、72試合に登板して6勝2敗24セーブ7ホールド、防御率2.07の好成績を残した。この年のWHIP0.91は、リリーフ投手の中でリーグ1位の成績だった。


 F大リーグでシーズン39セーブ

 2007年の斎藤は、開幕から抑えとして安定感抜群の投球でセーブを稼ぎ、6月26日のダイヤモンドバックス戦では自己最速となる159キロを記録した。
 7月にはオールスターゲーム出場も果たし、2勝1敗39セーブ1ホールド、防御率1.40という驚異的な成績を残す。防御率1.40は、ナショナルリーグの抑え投手としては1位の成績で、日本人大リーガーの抑えとしても歴代最高の成績となった。
 シーズン39セーブは、2007年のナショナルリーグで4位の成績であり、日本人としては、佐々木主浩が2001年に挙げた45セーブに次ぐ成績だった。


 G7球団を渡り歩く

 斎藤は、大リーグ移籍後も球威が衰えるどころか増して、37歳で159キロを記録するなど、大リーグで日本以上の成績を残し続けていく。
 そして、40代半ばになっても150キロ近い直球を投げることができ、ほとんど衰えを見せない鉄腕である。
 そのため、どの球団でも重宝され、大洋(横浜)、ドジャーズ、レッドソックス、ブレーブス、ブルワーズ、ダイヤモンドバックス、楽天と合計7球団に所属してきた。
 7球団に所属したのは、8球団に所属した後藤修、野茂英雄、木田優夫に次ぐ記録である。




(2015年4月作成)

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