斉藤 明夫
 1955年2月、京都府生まれ。投手。右投右打。背番号17。旧名:明雄。花園高校から大阪商業大学に進み、ドラフト1位で1977年、大洋に入団する。
 1年目から38試合に登板し、8勝9敗4SPの好成績を残して新人王を獲得する。
 2年目の1978年には47試合に登板して主に先発をしながら抑えもこなすという獅子奮迅の働きで16勝15敗4セーブ8SP、防御率3.14という好成績を残して最多奪三振のタイトルを獲得する。投球回数241、12完投もリーグ最多だった。
 1979年にも11勝6敗を記録すると、翌年にも14勝を挙げて3年連続2桁勝利を残す。
 1981年からはリリーフ中心となり、その年に10セーブ、13SPを挙げると、翌1982年には「明雄」から「明夫」に改名して5勝6敗30セーブ35SPを残し、セーブ王となる。これが日本球界初のシーズン30セーブ達成だった。この年、134回2/3を投げて規定投球回にも達し、防御率2.07で最優秀防御率のタイトルも手にする。
 1983年には10勝8敗22セーブ、32SPで、2桁勝利を挙げた上にセーブ王と最優秀救援投手にも輝く。
 1984年には11勝6敗10セーブ20SP、1985年に27SP、防御率2.13を残すと、1986年には23セーブ、28SP、防御率1.85という抜群の安定感で3度目のセーブ王と2度目の最優秀救援投手となる。
 1988年からは右膝半月板の故障とチーム事情によって再び先発中心となり、1989年7月には史上3人目の通算100勝100セーブを達成。1990年には6度目のシーズン2桁勝利となる10勝を挙げる。
 1993年、右膝の故障の影響でシーズン0勝に終わり、現役を引退する。
 1998年、投手コーチとして横浜のリーグ優勝、日本一に貢献する。

 口ひげをたくわえた風貌で淡々と切れのある直球やカーブを投げ込み、先発でもリリーフでも一流の活躍を見せた投手である。特に何度もタイトルを獲得したリリーフとしての活躍は目覚しく、優勝経験こそないものの、後輩の佐々木と並んで、日本の球史上に残るリリーフ投手である。

通算成績(実働17年):128勝125敗133セーブ188SP、防御率3.52、1321奪三振。新人王(1977)最優秀救援投手2回(1983、1986)セーブ王3回(1982〜1983、1986)最優秀防御率1回(1982)最多奪三振1回(1978)
数々の伝説

 @新人王

 斉藤は、大学時代から好投手としてプロから注目を集めていた。大阪商業大学で活躍していた斉藤は、日本大学の佐藤義則、駒澤大学の森繁和とともに「大学球界三羽烏」と呼ばれていた。この3人は、プロに入ってからも大成し、佐藤は、阪急に入団して通算165勝48セーブを挙げ、森繁和も西武に入団して通算57勝82セーブ114SPを記録する名投手となる。
 斉藤と佐藤は、同じ年にドラフト1位でプロ入りし、佐藤が規定投球回未満ながら7勝3敗1セーブでパリーグの新人王を獲得したのに対し、斉藤は規定投球回をクリアして8勝9敗4SPの成績でセリーグの新人王を獲得した。同じ年に規定投球回未満ながら8勝5敗4セーブで頭角を現してきた巨人の西本聖を抑えての獲得だった。


 A改名後、守護神として史上初の30セーブ

 1982年、斉藤は、自らの名前を「明雄」から「明夫」に改名する。前年から先発からリリーフへと起用の方針が変わりつつあった斉藤にとって、改名は、自らの転機とも一致していた。
 1982年、斉藤は、守護神としてシーズンを通して好投を重ね、5勝6敗30セーブ35SPという好成績を残してセーブ王に輝いたのである。この年挙げた30セーブは、日本プロ野球でセーブが記録として制定されてから初の30セーブ達成となった。
 そして、翌年にはセーブ王とともに最優秀救援投手にも輝き、斉藤は、パリーグの江夏豊と並んで語られるほどのリリーフエースとなる。
 斉藤の野球人生は、改名を転機として数々の栄光に彩られていくことになったのである。


 Bリリーフで最優秀防御率

 斉藤がリリーフとして活躍した1980年代は、まだセットアッパー、クローザーという現在の考え方はなく、守護神であっても7回くらいから出てきて試合の最後まで投げきる、というケースが多かった。
 1982年の斉藤は、そんなロングリリーフもこなしながら56試合に登板し、5勝6敗30セーブという好成績を残してセーブ王となる。そして、リリーフであるにもかかわらず、投球回数は134回2/3で規定投球回を超えており、防御率2.07は、先発で19勝を挙げて防御率2.36を記録した江川卓をしのいで、リーグ1位だった。斉藤は、1試合の登板あたり平均2回以上投げていたにもかかわらず、これほどの好成績を残したことになる。しかし、斉藤が最優秀防御率を獲得するほどの活躍を見せたにもかかわらず、大洋の防御率はリーグ最低であり、順位も5位に沈んでいる。


 Cオールスターで1試合5イニング登板

 1982年、オールスターゲームに出場した斉藤は、第2戦で7回からリリーフのマウンドに登る。スコアは5−4と1点差である。
 この年、セーブ王と最優秀防御率を獲得することになる斉藤は、セリーグの守護神として7回裏から試合終了までの投球を任されたのである。
 しかし、7回2死1、3塁から平野光泰の打球は投手ゴロになるかと思われたが、打球と一緒にバットも飛んできたため、内野安打となってしまい、5−5の同点に追いつかれる。
 そのまま試合は、9回を終了し、延長に入った。
 第1戦で敗れているセリーグは、守護神斉藤の次の投手を用意はしておらず、斉藤は延長10回、延長11回と続投することになる。
 結局、試合は、5−5のまま延長11回時間切れ引き分けに終わった。全パの強力打線相手に5イニングを1失点に抑えた斉藤は、優秀選手賞に輝いた。そして、斉藤が投げた5イニングは、オールスター1試合の最多投球回であり、通常なら最大3イニングが制限投球回数で、その後、延長戦も廃止となっただけに、現在では不滅の記録とさえ言われている。


 D80キロのスローカーブ

 スローカーブと言えば、金田正一や今中慎二が有名だが、斉藤も、スローカーブを自在に操って打者を牛耳った投手である。
 斉藤の球速は、デビュー時には130キロ代後半で、全盛期でも140キロを超える程度だった。しかも、伝家の宝刀と呼べるほどの決め球もない。にも関わらず、時にはエースとして、時には守護神として活躍できたのは、常に自らの投球リズムを崩さない冷静さと、80キロ台のスローカーブを織り交ぜる投球術の巧みさにあった。威圧感ある表情から繰り出す球速差60キロの緩急に、セリーグの強打者たちは惑わされて凡打の山を築いたのである。


 E先発とリリーフ双方でタイトル

 斉藤は、先発とリリーフでともにタイトルを獲得している。1977年には主に先発として新人王を獲得し、2年目には最多奪三振のタイトルを獲得する。
 そして、斉藤を超一流投手として名を高めたリリーフとして1982年にセーブ王、最優秀防御率の二冠を記録すると、1983年には最優秀救援投手のタイトルも手にした。
 それでも、最多勝だけは獲得できなかった。1978年にはシーズン16勝をしたもののチームメイトの野村収が17勝したため、1勝差で最多勝を逃し、1980年にも14勝しながら巨人の江川卓が16勝したため、2勝差で逃している。
 とはいえ、先発・リリーフの双方でタイトルを獲得した投手は数少なく、斉藤が超一流投手であったことがうかがえる。


 F右投手として史上初の100勝100セーブ達成

 斉藤は、現役時代、最初は先発として活躍し、その後、リリーフとして活躍した後、再び先発で活躍するという選手生活を送っている。
 主に先発として1980年までに2桁勝利を3度記録した斉藤は、1981年から7年連続で2桁セーブを記録するのである。そして、1988年からはチーム事情から再び先発に回り、1990年には10勝を挙げてリリーフ時代も通じて6度目の2桁勝利を記録する。
 斉藤が通算100セーブを達成したのは、3度目のセーブ王に輝いた1986年である。そして、通算100勝を挙げたのが、再び先発に戻っていた1989年7月3日の中日戦である。
 この100勝100セーブ達成は、江夏豊、山本和行に次いで史上3人目の達成であり、右投手としては、史上初の快挙だった。



(2007年6月作成)

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